教導地区の騒がしい夜

 寝台が砕けちり、男は跳躍する。

 大柄の肉体がさらに筋骨隆々に隆起し、蒸気をまといながら真っ黒い剛毛に覆われていく。骨格が変形し、血に濡れた黒獣へ変貌を遂げた。

 おぞましい唸り声が地下室にこだまする。

 濃密な危険を色にして纏う獣だ。獣は牙を剥き出しに、噛み締める牙の隙間から暖かな吐息をフゥーっと溢れ出させる。

 本能が死を察知し、知識が正体を告げる。

 人狼。狩人協会が厄災に指定する人類の恐るべき敵であった。


「伏せて」


 アンナはスカルを押し倒すようにその場に倒れ込む。

 人狼はふたりがいた地点を剛腕で薙ぎ払った。余波だけで机も棚も吹き飛び、天井が崩れ落ちる。

 アンナとスカルと慌てて手術室を飛び出し、階段を駆け上がり、医療院を飛び出した。


(人狼、別名、吸魂鬼。近くにいるだけで命を吸い取られる)


 人狼はあらかじめ対策を取っておかないと対処の難しい厄災である。

 不意打ちを受けた以上、反撃をするよりも一旦、逃げて態勢を整えることが先決であった。狭い場所で渡り合えば、それだけで逃げ場を失い、魂を吸い尽くされた干からびてしまう。


「面倒な」

「本物の人狼だ……っ。あんなな災害の怪物を医療院内に隠していたんて。イカれてるのか……!」


 アンナとスカルは建物の屋根に登り、医療院を遠目に見下ろす。

 人狼がのっそりと正面門から出てくる。


「やっぱり出てくるよね。もしかしたら、地下室を出られないように躾がされている可能性があるかと思ったけど。そう言うわけじゃなそう」

「まずいですよ、このままじゃ無差別に吸魂されてしまいます」

「わかってる。牽制するから銀を打ってくれる?」


 アンナは外套を翻し、幾何学の溝が掘られた刀を抜き放つ。

 ダッと走り出し、人狼から距離をとりながら、血の刀身を生成する。

 刃についた血を振り払うようにバッと勢いよく空を斬った。すると、刀身を構築していた血の塊が、刃を離れ、空中で凝固し、血の礫となって放たれた。

 血の雨あられは屋根上から人狼に降り注ぐ。


 人狼はすぐに攻撃に気が付き、機敏に走り出し、血の礫を避けながら飛び上がってきた。


 アンナは大きくその場を飛び退き、通りひとつ向こうの屋根へ。

 1秒前までアンナが立っていた屋根に人狼の拳が突き刺さる。

 雨に塵埃が舞い上がる。


 そこへ銀色の短剣が投げ込まれた。

 スカルだ。アンナの牽制を利用し、一足先に距離をとっていた彼が銀の短剣を投じたのだ。


(吸魂能力は銀でダメージを与えれば一時的に抑制できる)


「見えているぞ!」


 人狼は腹の底から震えるような低い声をあげ、銀の短剣を手で弾いた。

 

(手練れの人狼だ。狩人と戦ったことがあるんだ)

 

 アンナは警戒感を強める。


「狩人どもめ、性懲りも無くまた現れたな。貴様に狩られた同胞の恨み、ここで晴らさでおくべきか」

「まったく同じことをあたしたちも言えるんだけど」

「フハハ、それもそうだな」


 人狼は歯茎を剥き出しにし、口から熱い吐息を吐きながら、首周りを弄る。

 深い毛皮のなかから銀色のメダリオンが取り付けられた荒縄のネックレスがのぞいた。銀とよく似たその輝きは、狩人が持つ人間のコインに使われるヒースライト鋼の輝きだ。


 アンナは目を細める。

 

(メダリオンがあんなにも……)


「これまでに7人、狩人どもをぶっ殺してやった。このメダリオンは狩人どもの証かなんかなんだろう? みんな大事そうにしまってたのさ。俺にとっちゃ勲章にすぎないが……ははは、今日また記録が伸びそうだ。お前とお前のをもらえるんだからな」


 人狼は太くするどい爪でアンナとスカルと順番に指差すと、邪悪な笑みを浮かべ、屋根を強力に踏み切って、アンナへ飛びかかった。


(人狼との戦闘においては銀を打ち込むことが何よりも最優先。銀の噴霧器が最も効果的だけど、あんなの煩わしい装備普段持ってない。当然、今も手持ちにない。まきびしを踏ませるのもあり。だけど今持ってない。投げナイフで狙うのもありだけど、やっぱり持ってない)


 人狼と鉢合わせる情報がなかったために、アンナは対人狼用の狩猟道具を持ってきていなかった。


(事前情報を伝えてこなったスカルもおそらくは同様。あたしもあいつもせいぜい銀の剣を持っているくらい)

 

「力でわからせるか」


 アンナは納刀し、居合の構えをとる。

 鞘と柄を力強く握り、機を見計らって、素早く居合ぎりを放った。

 人狼はまだ宙空にいる。とても刀の間合いではなかった。

 だが、彼女にとって間合いは意味を持つ言葉ではない。

 

 アンナの居合が放たれる。

 冷たい夜空に真っ赤な軌跡を残った。

 血刃は伸縮自在の死の広域攻撃だ。

 熟達の血の使い手は、その刀を20m以上拡張させ、人狼の分厚い体をぶった斬ったのだ。


 強力な一撃を受けて、人狼は血に巻かれ、2つ向こうの通りまで吹っ飛ぶ。

 大通りの石畳みに落下し、放射状の亀裂を地面に刻んだ。

 人狼は痛みにうめき、深々と切り裂かれた胸部に手をあてた。


「ぐああああっ、あの、狩人め。刀が、伸びやがった……っ」


 人狼は蓄積した魂を消耗し、自らの傷を癒そうとする。

 しかし、傷の治りが遅い。それどころか多少、再生能力をかけた程度では治る気配はなく、ぶくぶくと沸騰する血によって傷口が腐って広がっていった。

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