幕間:混沌の時代へ
新暦3060年春三月
アリスは父より贈られた小杖を手に、理論ではなく実践での魔術研鑽をはじめていた。アルドレア家末っ子にして聡明なこの少女は、溢れる才能を持っていた。
「タスク『1日1本、3日で3本』を完了しました」
石剣を魔術工房のすみっこに置く。
形状は歪で、幼い子供が粘土細工でつくった作品のようである。
これらは彼女が石を魔術で加工したものである。
編纂作業の傍ら、彼女の鍛錬風景を眺めていたアディフランツは、自分の娘はいつか兄のそうするはずだったように、偉大な魔術師として歴史に名を刻むかもしれない、と胸を躍らせた。
新暦3061年夏三月
月日が経った。
アルドレア家にとってアーカムは過去のことになった。
皆が辛い過去を乗り越えて、平穏に身を委ねていた。
アディフランツはクルクマを守る貴族として、いつもの見回りをしていた。
彼はたびたび王都へ顔をだすので知っている。
目に見えている平和な光景はいよいよ失われようとしていると。
戦争が近づいてきたのだ。
「どうすればいいんだ……」
麦畑が風に薙ぐ、田舎道の片隅、アディはうなだれる。
「まだ生きているようだな」
言って話しかけて来る男がいた。
銀色の髪をオールバックにした若顔の男だ。
過酷な経験を積んでいるのが顔の渋みに現れていた。
丸メガネをかけて、夜に溶けるような外套を纏っている。
「あんたは確か、バンザイデスで会った……」
もう1年と半年も前の話だった。
アディフランツは一度会ったきりの人物を覚えていられるほど要領がよくない。
当時、アーカムについてあれやこれやと、この怪しげな男に聞かれたことだけは覚えているが、それ以外のことは記憶が曖昧であった。
「大変な時代になる。お互いに生きていられるといいな」
「そ、そうですね……」
言って男は散歩するような足取りで行ってしまった。
「なんだったんだろう」
その晩、アルドレア邸居間にろうそくの灯りがともっていた。
子どもたちが寝静まったあと、アディフランツとエヴァリーンは未来のことを話そうとしていた。
「アディ、お父さんは……キンドロ卿は旗色を明らかにしないでやり過ごすつもりみたい」
「できるのかそんなのこと?」
「うーん……どうかしら。難しいとは思う。でも、貴族派も敵とわからない領地へは攻撃をできないものでしょう? 時間稼ぎくらいにはなると思う」
「それも、来年まで持つかどうか……。ポロスコフィン卿の貴族派か、ジョブレス王家の王族派……もちろん、俺たちは王国のために、国王様のために戦うべきじゃないか?」
アディフランツは口では勇敢に振舞うが、その実、恐怖で手が震えていた。
もし戦争が本格化し、貴族派による王族派貴族の領地への攻撃がはじまれば、王都から遠く、辺境もド辺境のキンドロ領は、悲惨な運命を辿ることになる。
ポロスコフィン領と隣接しているせいで孤立無援で袋叩きだ。
最悪なのは去年のバンザイデス事件の傷が深いこと。
要所である要塞都市はいまだ機能を十分に回復していない。
吸血鬼事件で死んだ騎士は駐屯地に駐留していた騎士の実に7割に及んだ。
キンドロ領には戦える騎士が少ないのだ。
そんな状況で貴族派の親玉に軍を動かされてしまえば勝ち目はない。
「アディ、ひとつお願いがあるの」
「なんだい、エヴァ」
「エーラとアリスを連れてゲオニエス帝国へ行ってくれないかしら」
「……。俺に逃げろって言うのかい。妻を置いて、自分だけ、逃げ延びろって?」
「私はアルドレア家の当主よ。もしキンドロ領が攻められれば戦わないといけない。このクルクマの村を守らないと。そのためにキンドロ卿の召喚に応じないと」
「俺も戦える。覚悟はできてる」
「嘘ばっかり」
言って、エヴァリーンはアディフランツの手を握る。
震えがとまらない彼の素直な手にエヴァリーンは微笑みを浮かべる。
「あの子たちには未来がある。誰かがそばにいないと。私たちのどっちかが。同時にこの屋敷にも残らないとだめ。そして残るには当主の私がふさわしいわ。ねえ、わかるでしょ、立派な学者さん」
「……エヴァ、俺は……」
アディフランツは何か方法はないものか、と考える。
娘たちも、妻も、屋敷も、そのほかなにもかも失わない方法。
しかし、何も浮かばない。
(だめだ。俺みたいな平凡なやつじゃ、なんにも思い浮かばない……っ、こんな時、あいつなら……)
亡き息子の達観した表情を思いだす。
(あいつならどうする……なにか上手くやってくれるんじゃないか……?)
だが、考えても無駄であった。
現実にはアディフランツしかこの場におらず、彼は解決策を提示できない。
世の中の傑物がおこなったヒロイックを思い浮かべる。
もし自分に途方もない大いなる魔導を操る力があれば、伝説に謳われるような大魔術が使えれば、みんなを守れるかもしれないのに。
妄想しても虚しいだけだった。
大魔術なんて夢のまた夢。
アディフランツはどこか諦めた顔で「また明日、話そう、エヴァ」と優しい表情で、問題の先送りをした。
エヴァリーンは自分の愛した人が弱いことを知っていた。
だから、覚悟の準備にも時間が必要だろうともわかっていた。
「今日はもう寝ましょう……──」
ガチャ
ふと、玄関扉の開く音がした。
不躾な、遠慮のない乱暴な音。
ろうそくのか細い明かりを支援するように、窓の外から月明かりが差し込んできた。
月明かりに照らされるのは古びた外套を纏った老け顔の男だ。
アディフランツとエヴァリーンは血の気の引くという言葉の意味を理解する。
ひと目見ただけでわかってしまったのだ。
目の前の人に見える存在が、その実、人智を越えた大怪物であると。
月明かりに照らされる蒼白の肌。
鮮血の深紅を宿した瞳。
ふたりをまじまじと観察しながら、壁にゆっくりと寄りかかり、その者はたばこを一本取り出すと、ライターで火をつける。爪は真っ黒で、非常に鋭利だ。
時間が止まったようだった。
伝説の怪物 吸血鬼が、よりにもよってこんな日常に紛れ込んでくるなんて誰が想像できるだろうか。
「絶滅指導者を討った英雄の血か」
老いた血の怪物は、階段のうえへチラっと視線を動かす。
「子供が2人。来て正解だった。いまのうちに根絶しておくのが吉だろう。なあ、そうは思わないかね」
「な、な……」
アディフランツは涙をうかべ、奥歯をカチカチと鳴らした。
「ふざけ……るな」
エヴァリーンは烈火のごとき怒りを思いだした。
性懲りもなく姿を現し、この怪物はまた奪おうと言うのだ。
許すはずがなかった。
エヴァリーンは傍らの剣へ手を伸ばし、すばやく抜剣、剣気圧を解き放ち、居間の机を蹴りあげて血の眷属へぶつける。
一閃。
机ごと吸血鬼を両断するつもりで力いっぱいに斬り降ろした。
が、刃は素手で掴まれていた。
握る手に力をこめられると剣身があ砕け散った。
エヴァリーンは息を呑む。こんな事がありえるのか。
吸血鬼はエヴァリーンの手首をつかむと、力任せに投げた。
凄まじい勢いで飛んでいき、居間の壁を突き破り、屋敷の外へ転がりでる。
「ぐッ、ぅ……化け、もの……」
「脆い。指導者を討った一族とは思えん」
吸血鬼はアディフランツにはまるで興味を示さず、瀕死のエヴァリーンのもとへ。
壁の穴から外へ、歩いて近寄っていく。
と、その時、エヴァリーンの後方、人影が現れた。
「死ぬにはいい夜だ。そうは思わないか、吸血鬼」
「……。狩人か」
銀色のオールバック。夜に溶ける黒い外套。
アディフランツはようやく彼の名前を思い出した。
「アヴォン、グッドマン……」
筆頭狩人が参上した。
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