第9話

 山を降りて、荷物を片づけながら私は思う事があった。父が私をどうしようもないと言うのだから、父にとって私は今のままでは駄目なのだろう。だからと言って私はこれ以上どうすれば良いのか分からなかった。やる事はやってきたつもりだった、けれども私にはこれ以上どうすればいいのか本当に分からなかった。

 兄が死んでから父も変わってしまった。

 ――そうかこれが息子って言うことか。

 そういうふうに思ったのだった。

 兄が死んでから父は私に強く言うようになった。早く自立しろだとか、お前のやっている事は何の役にも立たないだとか、お前は間違って生まれてきただとか。

 そこで私は母に意味の分からない手紙を書いた。何となく誰にも何も言えない事が私の腹の中で蠢くのだから、私はそれを吐き出したかったのである。


 拝啓、お母様

 貴女が死んでからもう二年になります。お元気でしょうかとは言いません。死んだ貴女に機嫌など関係ありませんから。ただあの時貴女が死んだのは、貴女の所為なのだと言う事だけは分かっているのでしょうかと聞きたいのです。答えはないでしょう。死んでいるのだから――。

 二年前、貴女は死にました。それは段々私の眼には貴女が死んで行くのが分かっていて、二年前のあの日が丁度その時だったと言う事です。兄にベッタリとくっ付いて離れようとしない貴女と、大人になれない兄が衝突して、けれども兄に家を出て行く度胸はなかったのでしょう。そうした親子喧嘩を見ていて、同じ事で何度も繰り返し喧嘩をして、段々貴女と兄は私の中で死んで行きました。

 それでも私はこの無意味な質問を繰り返さなければならないのです。貴女は悪い事をしたと言う事が分かるでしょうか? 私が人間であるのと同じように、その背負わされた責任に対して応えるのも貴女の義務です。然し貴女はそれを蔑ろにしてしまった訳ですから、私は貴女に関する物事に触れる度にこの質問を繰り返さなければならないのです。そのため、貴女の写真はアルバムからも、家の中の写真たてからも抹消致しました。時折貴女からの手紙が届きますが、もうお止め下さい。死んだ人から神の声がどうとか、言葉を貰っても、私の神は私自身だけです。貴女の神とは違うのです。

 貴女が狂っていると言う事は知っています。本当にマザーコンプレックスでおかしくなっていた兄に、云百万の手切れ金を渡して、これで終わりにしてくれと言うふうに言っていたと言う事は、私も父から聞いていて知っています。それでも納得していない、家から出られない彼を撲殺したことに関して、私に残った感慨は、それでも私はこうして貴女の所為で産み落とされてしまった塊なのですから、何が何だかも分からずにこうして穀潰しを演じていなくてはいけないと言う事だけなのです。私は貴女や家族の事で世間に対して、恨みをぶつけようなどとは思いません。もしそうなる事が予期されたら、そうなる前に私は死にます。

 兄を貴女が殺した日、貴女と兄の間に何があったなどと言う事は、もうどうでも良い事でした。貴女はいつも通り美味しくもない手料理を作っている所に兄が文句をたらたら垂れて、非常にうっとおしい気分になった挙句に、納戸の箪笥の中にある金庫から預金通帳を持ってきて、それを兄に投げつけて、「出て行け」とでも言ったのでしょう。あれは貴女の金ではないのに、そうやってやりたい放題に勝手に使って。もうあの時は貴女も兄も人間ではありませんでした。貴女たちはそうやって、毎晩私が眠りたいと思っている頃に狼の如く吠えまくっていたのですから、私には人間だとも思えませんでした。毎晩「死んでください」と願っていました。

 思えば貴女は、料理は下手だし、洗濯も風呂掃除も週に一度しかやらなかったし、食器も三日にいっぺん洗うだけ、掃除は埃なんかあっても死にはしないとか莫迦な事言って、母親失格と言うよりもヒトデナシでした。兄もそういうふうに貴女を言っていました。私もそれは分かる気がします。今になれば私がこうして家の事をやるようになってから、この家は貴女がいた頃以上に家らしい機能を果たしている事と思います。けれども、そんな貴女と結婚した父も父です。両親揃って大莫迦者だと私は思っています。

 然し、貴女だけでなくても、人間とは莫迦な生き物だと思います。貴女たちと同じように。どんな事だって許される世界に居るはずなのに常識とか言う言葉が息苦しくて、貴女たちみたいな人を生み出して、許すという言葉をみんな忘れてしまっているのですから、それはそれで仕方ないでしょう。まともな人間などありません。立派に働く父でさえ、私を間違って生んだと言い捨てました。もう死んでいいという意味だと私は思っています。私に生きる意味があるでしょうか――。でもそんなこと、誰も決められませんよ。

 親近間のお話はもう止めましょう。貴女からしてみれば私の言い分は言い分、貴女の言葉の方がすべてなのですから。それよりも貴女には私に起こった最近の事件についてお話します。

 先日、中島と言う人から連絡がありました。それは私がある事故を起こしてしまった時の被害者の方の名前です。私は、その中島と言う男の停車している車に資材を誤ってぶつけてしまったのです。事故を起こした責任は私に在りますが、けれども私は、大学の行事であやまって事故を起こしてしまった事なので、破損などの賠償は学生保険でまかなえました。被害者の方も保険の方で賠償してくれると良いと言うふうに言っていたので、その方で話を進めていたのです。私にあと出来る事があるとすれば菓子折り物を持って謝罪に伺う事だけでした。が、被害者の方は態度を一転して、私の謝罪の訪問に関しての連絡を一切受け取らなかったのです。仕方がないので私は〝お忙しい事と思います〟と先ず申し上げた上でのその謝罪文と共に、菓子折り物をお送りしました。今回の事に関してそれで始末をつけようかと思っていたのです。然し、被害者の方はそれも受け取らずに付き返してきて、車の売値が下がったからという事で保険会社の交渉を蹴って私の方に直接電話で連絡してきました。先生を出せと言うのです。しかもその時、私のした謝罪のための連絡にもわざと出ないようにしていたとか、それから判例とかも調べて、もっとお金が出るだろうとかぬかしたのです。これはもう半狂乱でした。まともに相手に出来た事ではありません。私はチンピラみたいな人を相手に論破しようなどとは思いません。法に任せるだけの事です。私は仲介人なしで余計な交渉が出来る訳もありませんから、すべて保険会社に任せていますと言う事だけ申し上げて置きました。然し、それでも被害者の方は事故の事で私に金を払えと脅してくるのです。事故費用と、車の価値が下がった分と、合わせて六〇万ほど。極端ことを言えば、怪我もしていないのだから大した話ではなかったのです。けれども被害者の方はしつこく私に迫って来て、電話もありましたが、私の家に直接押し掛けてきて請求書を私に押しつけたのです。私は同じく保険会社にお任せしていますと言うふうに言って、請求書をつき返しました。

 ――気持ち悪い。その時、男はにかにか笑いながら私にお前が事故を起こしたのだからお前が悪いと言いました。請求書が送られてくるまでこうして愚図愚図引き延ばしていたのは被害者の方が悪い訳で、私はちゃんと謝罪のために連絡もした訳ですし、菓子折り物も用意していた訳です。それを拒否したのは被害者の方が悪いのですから、私はこれ以上どうしようもないじゃありませんか。それを分かっているのか、この被害者はずっとにかにか笑って私に必要以上の責任を負わせようとするのです。私は結局保険会社に電話して、弁護士先生をつけて、交渉と訴訟のための準備をお任せする事になりました。

 どうしてこんな人が出来たのでしょう。私には分かりません。何がそうさせるのでしょう。国を騒がす事故ならまだしも、一般で起こる事故に法が必要以上の金を出すはずがないではないですか。私は謝りたいと言っているのに、どうしても許さないと言うのですから、もうどうしようもありません、

 けれども貴女もこんな人と変わりありません。家を捨てるような形で、兄を殺して、家もそのままにして、その始末を私たちがしなくてはいけないと言う事が分かっていたのでしょうか? 私には考えられません。貴女には何があるのですか。貴女には何が残っているのですか。貴女の大切なものはいったい何だったのですか。私には貴女の生きると言う意味が分かりません。だから私は、貴女は死んだものと思っているのです。貴女は人間ではありません。死人です。

 後は私を許してくれる人を探して生きて行きたいと思います。貴女も家族も友も他人も、私の死を願っています。私に生きると言う術を奪って雁字搦めにして人間からそうでないものに滑り落そうと、毎日貴女と同じように目論んで居るのです。然し、それでも私は生きなければいけないのです。笑ってしまいます。

 では、さようなら。

敬具


 そして私はこの手紙を、宛先も書かずにくしゃくしゃに丸めて、ポストに捨てた。


「俺は駄目だ。」

 この年の冬のfの口癖であった。

 彼はもうあぶれ者だった。又卒業できないのである。

 彼だけではない。その他、一人ひとりの一言ひとことを切に感じる度に私は失望する他なかった。どんなに勝ち気になって偉そうにしていても、出来なかったらどうしようもない。

 根岸は進学を考えていて、書類提出の期日を守れずにあぶれた。

 亜子さんもその他の人たちも、私の知っているみんな、ちゃんとした仕事にも付けずにフリーターをしている。

 ――もう嫌になった。

 時たま飲み屋で私は、この人たちと飲んだりするのである。けれども私はゼミの同窓会と称して、幸せそうに宴会を楽しむのとは裏腹に、私と関わった人たちは何だったのだろうと考えざるを得ないのである。

 揺り籠から墓場まで、大莫迦者たちの相手をし続けるなければいけないのだとしたら、私の取り巻く人物の前から死んでしまいたかったのである。

 人の話の聞き手にまわれば回るほど、具体性の帯びない漠然とした悩みに私自身でも気負いして何処までも失望の色を隠せなかった。

 そうした中で呆然と、人間なんぞ下らないと私は思っていたのかも知れなかった。

 何をするのにも気持ち半分適当に済ませた。

 真剣になるだけ腐るしかなかった。

 ――誰も本気にさせてはくれない。

 そんな風な妙な甘えが常に心に蔓延っていた。

 しかし誰をどうしよう、そういう野心が人間に在ると言う事もまた、私にとって気持ちの悪いことだった。

 良い奴、惹かれて、惹きつけて。

 或いは、あいつは嫌だ。撥ねつけ、罵る。

 などなど。

 それで、あとは、何が残るというのだろう。

 私は相変わらず、何も分からないのである。 

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