第8話

 岩場の道を行くのは楽である。岩のその外に何もないから。

 砂埃が舞わない様に滑る様に下りる。一々足を踏みしめていると日が暮れる。歩調は作るのではなくて合わせるのである。その道の形に。

 岩場を暫く行くと又森へ入った。地獄谷はガスを噴出していて、その区画だけ樹木が育たない。

 昨晩泊まった山小屋の周りだけ禿山である。

 濃霧で迷って死んだりするのは、谷に下りてしまうからである。父に言わせると素人のする事だと言う。

 岩場は本当に少しばかり歩いただけで、山道は森へと深く続く。森の中を行くのは、道が安定しないので岩場を行くのとは反対に面倒である。木の根が張っていて躓かないかを考えなければいけない。それから苔蒸していたり、道が湿気っぽいので、強く踏ん張ると滑る事がある。殊に昨日の雨で水溜りやぬかるんでいる所が多く、歩調を考えるのは難しい。そのため山道を歩く時は、足の踏み場を探すために下ばかり見ている。

 時に山道を蛙が横切った。

――小さな青蛙!

 私は踏みそうになり、足を踏み下ろす寸前で体勢を捻って避けた。蛙は潰れずに飛んでいった。それを見届けて又歩き出す。それ位に足元に注意を払って道を行くのである。

 もう半分は下りていた。木は大分高い所まで伸びて、空の様子は殆ど伺えない。

「あれは――、」

 父が急にぼやく。

「――どれぐらいで手紙をよこす?」

 私は知らないふうでいて、けれども応えた。

「どれぐらい?」

「月一回ぐらいか?」

「ああ、年二回。」

 それから又黙った。

 昨日の雨で、そこらじゅうが湿っていた。木や岩に手をつくと泥や木屑がついてきて、汚らしく感じる。なるべくならば、手は使わずに歩く事が良いのである。その方が無理な姿勢にならず怪我をしない。手を使えば重心が足から手に移るので危険な事があるのである。

 けれどもそんな事はもうどうでも良い事だった。もう既に大した道ではなかった。鞄の重みだけが煩わしくて、鎖骨の辺りに親指を入れたりして時々痛みを和らげた。ザック擦れにでもなったらしかった。

「そんなに重いなら、水を少し捨てろ」

 私はそれにはあまり反応せずに歩いた。

 銀蠅が地を這うように先を飛び、カナブンが転がっていた。虻が人の気に魅かれて体にバチリと当たった。

 

 卒業まであと半年と言う研究室には、後先ないような人たちばかり揃っていた。私はこうなるだろうと思っていたから、彼らに、昔の自分の話はしなかった。

 その日最初によった場所は演研の裏方部屋だった。山ちゃんが久しぶりに顔を出していた。

「よおぉ」

「ユメいる?」

「ああぁ、広場だな」

 山ちゃんは私の目を見てにかりと笑った。彼はいつも怪しげだから何も気にもしなかった。

 花梨ちゃんはいなかったから私はホッとしていた。ユメは私に珍しくメールをよこしてきたので、メールの通り私は部室棟へ寄ることにしたのだが、とうのユメちゃんは不在だった。広場だと少し学部棟へ戻らねばならない。

 私はひとりでにため息をした。


「燃やせ燃やせ!」

 広場にはユメちゃんがちゃんといた。

 やっぱり爆弾野郎、恒例の炊き出しである。部活の備品で要らなくなったやつを何でも燃やす行事だ。

 ――マズい。

 構内は火気厳禁だが、昔リベラル派の学生が占拠した部室棟は何をやってても誰にも咎められない。

 ユメちゃんは炎の前で演研で使っていた台座やら小道具を燃やしまくっている。煙が柱のように立っている。そんな光景を見ると呼び出された事に少しばかり嫌な予感がつきまとってきた。

 ユメちゃんは私を見つけるやいなや――

「よお! 久しぶりだな、悪いけど演研行って山ちゃんから演研のゴミ教えてもらって、ここ持ってきてくんないかな」

 ――やっぱりそうきたか。

 山ちゃんの怪しげな笑いに気づくべきだったが、もう、遅かった。

 私は最後まで演研に雑務をやらされることになってしまった。


 そして夕方、私が資料室に行こうとして裏方組の部屋から出ると亜子さんが丁度私たちの裏方組の前を通り過ぎて行く所だった。

「こんにちは。」

 私が挨拶すると、亜子さんは不審そうな顔をして近づいてきた。

 私の顔色が悪かったのか、亜子さんは立ち止まって私を見ていた。私は歩いて亜子さんの傍を通り過ぎながら然し亜子さんの事を見ていた。

「元気?」

「いや、疲れてます。」

 私は家から離れる時はいつも疲れていた。この倦怠感は何だろうかといつも思っていた。

「どうして?」

 私はその言葉を聞いて立ち止まってこう言った。

「求めてしまうのは悲しい事です。」

 この時確かに時間が止まった気がした。〝ハッとした〟私ははぐらかさずにこの人に話すのだと思った。私の事を、私が腹に抱えている言いようのない言葉を、口にするのだと思った。

「何かあったの?」

 女の人は時たま本当に驚くほど潔白な言葉を言うのだ。私は羨ましかった。有無を言わないそういう純粋さが欲しかった。

「何が何で、どうもこうもありませんよ。」

 亜子さんは少しばかり驚いたそぶりを見せて、だけどもそれは演技のようにも見えた。

「疲れているのはいつもの事です。」

「どうして?」

「兄が死んだのです。去年の春の頃に。」

 亜子さんは黙った。あの家が崩れて行く様を見た時と同じように、黙って私の言葉を待っている様だった。今度は真っ直ぐ、私の眼を見ていた。私は恐くて窓から射す夕陽を見ていた。

「母が、殺したのです。」

 亜子さんのその強い目がずっと私を見ている様だった。パチパチと瞬いて、でも明らかに驚いていた。唯、けれども真剣に私の言葉を待つだけしかないのだと思ったらしかった。

「それから大学と、家の事と、両立して、やっと何とか。」

「お母さんはどうしてるの?」

「刑務所に居ます。たまに手紙がくる。いつも最初の所だけを何となく読むけど、一度も読み切った事はありません。」

「どうして?」

 母が犯罪者になったからだろうか、それとも前々からそうだったろうか、私は何にしてもやる気を削がれてしまったのだった。と、その事まで話してしまったら、私はどうなっていただろうかと思うのである。あの快活の良い亜子さんが、すれてしまった冷たい私に興味を持ってくれている事は有難かったが、私にはそれに応える誠意はなかった。けれども亜子さんのその明るさを見ていると、裏切る事も出来ないのだった。

「求めてしまうのは悲しい事です。」

 私は二ヤリと笑った。

 ――私は酷い人間だ。

 亜子さんはため息をついて、けれども思い出したように言った。

「どうして話してくれたの?」

「貴女、いつもそうやって〝どうして〟って訊きたがるでしょう? だからですよ。」

 今こうして思うと、みんな嘘だったと分かった。すべて演技だった。私は家出娘を別段、好いてはいなかったと分かった。ただ、恐らく意地だったのだ。根岸高男が自分の世界に私を引き込もうとする事とか、クマと亜子さんの事とか、ノンの男癖の悪さとか、花梨ちゃんの芝居じみた誘いだとか、fの冗談みたいな人生だとか、私が亜子さんに本当の事をお話してしまった事とか、もう何が本当の事なのか分からなくなっている事とか……。

 ある日、私が目覚めて朝食にしようとリビングに向かうと、食器棚に金属バットが突き刺さっていた。恐らく振り下ろしてそのままそこに放置されたのである。ガラスや食器の破片が床や壊れた棚に散りばめられていて、テーブルには朝食の代わりに預金通帳があった。

 母とはそれ以来会っていない。いや、私にはもともと母などいなかった。母がいた事は結果、嘘だった。

 あの日、食器棚のすぐ下にはガラスの破片と一緒に兄の身体が横たわっていた。キッチンの隅には、泣き疲れて死んだような顔の母が血塗れになって蹲っていた。

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