第7話

 夏期休み前、卒論の中間報告を終えると試験期間に入った。ヒゲは私の中間報告を見て、

「まあ、良いだろう。」

 と曖昧な表現をした。然し、とすれば、私は順当にいけば卒業は出来ると言う事だと思った。ただ私の気分は重かった。四年目になると学業には大分慣れたし、肩の力もそんなに要らなかった。殆ど資料室の快適な椅子にどっぷりと座りこんで、自分のパソコンの前で論を展開している他は何にも苦にはならなかった。それよりも私が気にしていたのは先の事だった。私は何にもならないでいた。

 その翌日、私は朝早くに駅前にいた。今日は講演会の手伝いがあって、いつもより早い時間に大学に行かなければならなかった。

 私は駅前でクマに会った。

 クマは私を見るや否や近付いて来て、両肩をズドンと叩いて言った。

「君! 今から新宿に行かないか。」

 クマと私も一応知り合いだった。

「何を言うんですか、今から僕は大学に行かなきゃいけない。」

「そんなもん。もう出なくったって大丈夫でしょう。」

「m先生のお手伝いですよ。」

「そうか。」

 クマはそう言ってそのまま駅に向かおうとした。

 ――強引な奴。

 と思ってから、私は振り返って、それを見ながら亜子さんの事を訊いてみたくなった。

「久保さん!」

「ん?」

 クマは振り返った。

「今、何回目ですか?」

 クマはニヤリと下司な笑いを浮かべた。

 ――きたねえ顔だ。

 そう思った。

「――七回目。」

 私はクマに手を振って、大学に向かった。

 ――二週で七回。

 私はそんなに出来る時間と場所があるだろうかと思って、そういう考えはすぐに捨て去った。

 三途の河を渡りながら私は空を見ていた。地獄みたいだと思った。

 風が強く吹いていた。背中を押す強い風だった。私は変な天気だと思った。土埃が酷く舞って、空が赤茶けて、黒く雲が光っていた。その黒い雲は私が行こうとしている方向の一点に向けて流れて行った。私は血の匂いを感じた。唇がさけて、パックリと赤い血をのぞかせているのだった。

 大学に着いて、資料室で、講演に読んだ先生の資料と、レジュメを印刷した。まだ朝も早く、誰も資料室にはいなかった。私は明かりも点けず、薄暗い中でコピー機の黄緑の画面に向かいながら心を落ち着かせた。

 講演が終わると私は試験に出た。この日私は最後まで大学にいた。忙しい日だった。然しパスすれば学位に足りるのだった。私はこの月殆ど寝ていなかった。寝る暇がないのではなくて、眠れなかったのだった。

 試験は呆然とする中であっという間に過ぎた。出来なかった訳ではなかった。ただ、緊張も動揺もせずに、ゆらりと答案に回答したまでだった。

 最後の試験の答案を書き終わると

 ――終わった。

 と思った。これで終わると思ったのだった。

 無性に臓腑の焼けるような感覚が襲った。目まいがして、けれども堪えながら、私は再び資料室に向かった。

 資料室にはm先生がいて、酒を浴びていた。

「遅いね。」

「ええ、試験だったので。先生も御苦労さまです。」

 私がそれを言うと先生は両手で顔を覆って伏せった。

 私はそれを見てから本を探した。

 先生は言った。

「いや、女の人の話を聞くのは疲れたよ。」

「へえ。」

 先生は何を言っているのかと思った。先生はそれだけ言うと黙ってしまったので、そう言えば講演の先生が女の人だった事を思い出して、なるほどと思った。私はそれで、調子を合わせる様にして言った。

「私もです。」

 先生はニヤリと笑った。

「貴方の歳でそれは不味いんじゃない?」

 私は本棚の本を追いかけながら先生と同じようにニヤリとした。

「そうでなくても、――ここにきて、私と合う人はいませんでしたよ。なんて言うか、連れ合える奴と言うか。」

「俺も大学では友達なんかいなかったけどな。」

「先生は友達多いじゃないですか。――仕事仲間。」

「仕事仲間は仕事仲間だよ。仕事終わったら俺には何にもねえよ。」

 先生は仕事人間だった。大学の業務以外でも五から十は仕事を受けていた。殆どが評論だったり、誌面の添削だった。

「そんなもんですか。私もこの大学で行事やイベントを幾つか加わって、いろいろ立ちまわったりしましたけど、それでも話が合う人はいませんでしたよ。」

「貴方みたいな人と合う人、いないんじゃないの。」

 私は笑うだけしてそれに応えた。

 ――確かにそうだ。

 と思って、もう諦めがついているのだと私には分かっていた。私は本棚から一数冊、本を手にとって資料室を出た。

 廊下に出るとそこには亜子さんがいた。

「おおお、遅いね。今日はどうしたの?」

「テストがあって。」

「そうか。」

「そう言えば今日、次郎ちゃんに会いましたよ。何かお仲がよろしいようで。」

「何?」

「仲良くやってるみたいで良かったな、と思って。」

 亜子さんは一瞬止まってから不審な表情になった。

「もうそういうのじゃないよ。」

 私はそのまま返す言葉も分からないで唖然とした。

 亜子さんはそのまま行こうとしたので、私は咄嗟にこう言い放った。

「それ又、どうして。」

 亜子さんはそのままそれには応えずに行ってしまった。

 研究室に行くとfがいた。

「ようようよう。」

 私は阿呆みたいな挨拶だと思った。

「五年生が、今日は論文ですか? 大学にはもう殆ど用はないでしょう?」

「嫌味だなあ。――いやあ、外国語が二つ足りなくてねえ。試験受けてきましたよ。」

 私はがっかりした。

「未だ単位、取り切れてないんですか?」

「本当にねえ、参っちゃうよね。」

 私の方が参りそうだった。

「そう言えば、亜子さんクマと終わったって聞いたけど。」

 私は話を逸らした。と言うよりfにこの話をしてみたかったのである。

「ああ、聞いた? クマも莫迦だわな。」

「莫迦? 又何かした訳?」

「あれえ? 知らなかったの。じゃあ終わった事だけ聞いたんだ。」

「ええ、さっき。亜子さん本人から。」

「クマあれだぜ――。」

 それからfは顔を乗り出してきて、秘めたような口づかいで言った。

「亜子さんのアルバイト先に乗り込んで一悶着やったらしいぜ。」

「また何かぶっ壊したの?」

「いやあ、そこまでは――。」

 ――だいたい想像の付く話だった。

 その後、夏期休みはすぐにやって来て、私は亜子さんともfとも暫く会わなかった。

 それから私は、家でのんびりと過ごした。傍ら、卒論に手を駆けながら、もう一方で仕事を探す事を考えていた。けれども私にも仕事に就くという動機が今一つ分からないのであった。

 それを考えるといつの間にかt君の事を思い出していた。あれも親に、なんて説明しているのか知れなかった。あの家のあの部屋で、いつも何が出来上がっているのだろうとか考えていた。t君は猫好きで、携帯の待ち受け画面もパソコンのデスクトップも猫の画像だった。けれども彼にとって猫が何であるのかは私には分からなかった。ただ、この時なんとなく不思議だと感じただけの事だった。それでもその感覚は印象に深く、あの時、彼の家にいた猫が私に何かを思わせるのだった。

 ――私も猫を飼っているではないか。

 この頃は毎晩家出娘の相手をしていた。夜這いも逆は何と言うのだろうとか、家出娘の髪を撫でながら思うのだった。この時の彼女は盛りの猫みたいだった。その生活空間は自由だろうと思った。好きな時に好きな場所で好きな事が出来るのだから。

 父がその事に気付いているのか、知らないのかは分からなかった。でも私には父の事はどうでもよかった。

 そしてこうした時間を延々続けて行くと、段々感覚も鈍って来て淡白な営みになって行った。そのうち退屈した。毎晩の事で疲れがピークに来ていた。私は日中いつも目をこすっていた。

 ある晩、いつものように庭に彼女がいた。私は窓を開けて言った。

「今日は駄目だ。」

「え、なんで?」

 怖いものだった。慣れてしまうとそれが当然と言うぐらい図々しくなるのだから。

「暫くこう言うのはやめよう。」

 小声の後、虫だけが返事をしていた。

 彼女は黙っていた。

 だいたい、私が悪かったのだ。花見の日の事があってから、私が彼女を許してしまったのだから、今度はそれを咎めなければいけない程、私の方に余裕がなくなってしまったのだから。

「そろそろ家に帰りなさい。」

 彼女も私と同じで片親だった。彼女は母子家庭だった。彼女の母は幼いころから子供を居酒屋に連れ出して、酒を飲んでは、そのまま夕飯をそこで食べさせていたと彼女は話した。毎日そんな生活だったと言っていた。彼女の父は、レストランの経営をしていた。家にいる事はほとんどなかったと言う話だった。それで両親が分かれたと言うのだが、彼女の母はその前から、居酒屋で知り合った男を家に出入りさせて、泊らせたりする事もあったと言うのだった。

 私は想像を絶していた。私の中でそういう家があるのかと思った。母は母で、気付けば唯の獣になるらしいのだ。そんな獣の娘がここに居た。まだ小さな猫の様であるけれども、いつかは大きな獣に育ってしまう事もある。そうした妄想は私を裏切らずに続いた。この家出娘が私の他に誰かと繋がっていてもおかしくはなかったからである。

 私は言った。

「でなければ、しばらく距離を置こう。」

 私はどうせ他に行くところがあるだろうと思っていた。

 家出娘は虚ろな顔をしていた。

「そんな事言うなんて、酷いと思わない?」

 私のは考えている事は外れていたのかとも思った。だとすれば私はこの時の彼女にとっては冷酷に見えたのかも知れなかった。唯それは私のためでもあれば、彼女のためでもあるのだと私は思っていた。私はこの人の事を考えているよりも、自分の事を考えなければいけなかったのだ。

 そしてそんな事に気を取られているうちに、夏がやって来て、父が今年も山へ行こうと言うのだった。私は返事をしなかったが、勝手に行く事になっていた。

 目が覚めた時、朝の光を一身に受けて、私は起きずには居られなかった。そこは大自然の中なのだ。

 ――ああ、朝か。

 と思った。その時はその他に、何も思わずに部屋の窓から山の景色を眺めた。あの岩肌をこれから行くのである。私は気分が良かった。父は先に起きて、俺は風呂に行くと言って、部屋には私一人だった。

 遠い遠い景色まで見渡せる朝だった。あの嵐がすべての霧とすべての雲を連れ出してしまって、空には何もない青が広がっていた。岩肌の山道の向こうには沢山の森と、沢が見えた。それからさらに向こうは山が続いていた。更に遠くを眺めていると山が連なって、段々遠く、薄く重なって、青くなって、そのうちに空と一緒になって、ああ、あれが穂高で、槍ヶ岳とか、目で見た事を思い巡らせながら、一瞬ありきたりな事を思った。

 ――自由だな。

 と。

 私が私で何であるのだと思うのだった。人の言葉も人の眼もあったものではなかった。誰に何が分かるから何なのだろうと言いたかった。日射しの強い日だった。私の身の周りは、無駄な事ばかりがあった。私は全部捨てしまえば良い。全部捨ててしまうのだ。

 そう思って私はまた父と山を降りるのであった。

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