第6話

 夕食は山小屋の方から少しばかり出せると言うので、頂く事にした。

 ご飯に山菜のお浸しと味噌汁が付いた。

 御馳走を言って部屋に戻って、あとは持参した菓子などを食らった。

 私はほとんど口を利かなかった。そして、お茶を啜りながら本を読んでいた。

 父はまた風呂に入ると言うので、私は放っておいた。

「お前は行くか?」

 父は大抵二回目の風呂を誘うのである。

 私は振り向きもせずに、本を読みながら返した。

「いんや。行かんよ俺は。」

 この人はいつもそうだ、欲張りで風呂に二度入る。

「本当にいいのか?」

「ああ、行かないよ。」

 ――そしてしつこいのである。

「俺は行くからな。」

「いってらっしゃい。」

 然し本を読んでも読めない事があるのだ。書かれている文字を追いながら頭では別の物語を自分の中で考えていたのである。それは無性に湧き出る血の騒ぐ事だった。寝転がりながら本を読んでいるようで、目の前の壁を見ていた。

 私には眠れない時があった。それは本を読めない時の様なものだった。現実は私の意識の中でしか働かないと言う事だ。眠れない時は分からない事が起きた時に限っただろう。これは曖昧にしか判断できない。私も欲深い人間である。けれども求めているそれ自体は茫漠とした実態のないものだった。あの光沢のある芋虫みたいな動きの無機質な物体がムニョムニョと言うのだ。

 ――あれは、何だ。あれは、何だろう。

 そうした塊が私の眠れない原因の塊だった。

 その変な塊は大抵失望感と共にやってきた。

 私は二日に一辺しか眠れない時があった。大学四年になってから数カ月はそんな感じだった。私は病気なのだと思って、けれども自然治癒を待つ事にした。精神科になんか行きたくなかった。私は眠れない時は眠れないとは思わずに眠らないと思った。自分の身体が眠りを欲していないと言う事を受け入れて、分からない事を分かりそうになるまで思いを巡らせながら、その記憶の中で言葉を拾い歩いた。

 そんな事で私は私の生きている世界を理解しようとしていたのかも知れなかった。

 ――やはり死んでも死にきれないらしい。

 私は無我である時、何に向かっているのだろう。考えても一向に答えは出ないだろうと分かってはいるのだけれども、そういうふうに考えて、又、頭は空っぽになっていた。不思議な感覚である。


 花梨ちゃんが私と関わろうとすればするほど私はそこから逃げたくなった。それは演研の手伝いなどないのに、それを口実に私を呼び出すからであった。無論、そんな事であれば、私は自然ではなかった。緊張があった。――何だろうと考えざるを得なかった。それは、別段慣れ合いでも、深い仲になりたいと言う感じでもなかった。

 花梨ちゃんは床に置かれたコンロの上にフライパンを乗せて、その前に正座して、お焼香でもしているみたいにチャーハンを作っていた。私は演研の資材の入った段ボール上に腰かけていた。

「それ、座ってると怒られるよ。」

「あ、すみません。」

 私は隣のダンボールに座りなおした。

「駄目だったらダンボールの上は。」

「そうか。駄目だったら、か。」

 私は地べたに座るのは嫌だった。けれども仕方がないので、地べたに尻をついた。

「ご飯は作るの?」

「作ります。」

「今朝も?」

「パンとサラダとヨーグルト。ハムエッグ。」

「自分ひとりで?」

「ええ、母はいませんから。」

「すごいねえ。」

「普通です。簡単です。」

「昼は?」

「食堂で」

「それなら楽だねえ。」

「でも、お金が減ります。」

「自腹なの?」

「一部、小遣です。」

「お父さん?」

「そう。穀潰し。」

「え、普通でしょう?」

「そう言われます。」

「酷いお父さん。」

「もう、慣れました。」

「これ少し食べる?」

「い、あ、いいです。」

 花梨ちゃんはどこかで私を好いているのだと思った。けれども迷惑だった。私の気が許さなかった。理由もなしに人を拘束するなんて失礼な話である。私はペットではないのだから、こんな正攻法でないやり方は気にくわなかった。話があるなら、そちらから出向けばいい話だった。そんな関係だとしたらサヨナラしたかったのである。私はそんなに優しい人間ではなかった。もっと必死で息をしていた。死んだ方が楽だと思うぐらい生きたいという本能と葛藤している中で、私は人と関わっていた。

 又、別のある日、私はまた演研から呼び出された。面倒と言う事しか頭になかった。

 演研に行くと挨拶もなく、又、一も二もなく、こう切り出した。

「貴女は人を口説くのが下手ですね。」

 私は莫迦を言っているのは分かっていた。けれどもこんな莫迦な状況は、莫迦になって莫迦にするしかなかった。

 花梨ちゃんは度肝を抜いて私を見ていた。顔にそう出ていた。然し何を言われているのか分かっているようだった。その事が逆に私を嫌な気分にさせた。けれども花梨ちゃんは明らかにショックを隠せないのだと思った。

「忙しいので、今日はこれで帰ります。」

 私は言いたいだけ言って帰ろうとした。

「待って、待って。」

 呼び止められたのは意外だった。

「なに。」

 呼び止めるのはいいけれど、花梨ちゃんから言葉は出なかった。花梨ちゃん自身、自分の心と言うものを考えた事がないのだと私は思った。自分が思う事は思うままに思う人だった。だから予想できない事に対応できない人だと私は思っていた。

 この時のこの反応はその通りだった。

「何もないなら――。」

 と言って私はその日は何も交わさずに帰った。

 翌日、私が昼前に研究室に顔を出すと、花梨ちゃんが今朝、研究室に来て、私を探していると伝言を頼まれた、とヒゲが言うのである。

 私は、

「そうですか。分かりました。」

 とヒゲに言って、花梨ちゃんは放っておいた。

 私は疲れていた。わざわざこちらから出向く気は起きなかった。

 夕方、花梨ちゃんは再び研究室を訪れた。

「こんにちは。」

 その時私は、丁度ヒゲに出された課題をこなしている所だった。

「あ、ごめん。ずっと忙しくて。――用があるって訊いてけど、何?」

 わざとらしかった。私はわざと、わざさとらしかった。

 花梨ちゃんは訊ねたはいいけれど、唇をかみしめたまま、まだ言葉を考えている様だった。

 見兼ねて、

「あっちへ行こうか」と資料室の方に誘って、二人で話す事にしたのだった。

「俺が言いたいのはね――、」

 私から切り出した。

「どうして、俺ばかり構うのかっていう話なのだけどね。」

 こう言う時、――嫌だな。と思うのだった。言いたい事は私は言ったのだから、それ以上に私の言葉を聞かせると言うのは、骨身を削るような気分だった。それは人付き合い以上の会話になってしまうからだった。私自身の生の言葉であるからだ。その言葉で場合によっては人の心を駄目にしかねないと思いながら言うしかなかった。

 そして、

「私は、貴方の話し方が好きだったの。」

 言葉を探りながら、けれども堂々と話す花梨ちゃんが怖かった。

 ――そうですか。

 身体がうずいた。私は何をしているのだろうとか思ってしまっていた。これだけ親切にしておきながら、この面倒を招いたのは自分だと知っていた。けれどもこの面倒がなければさらに面倒なのだとも思った。なんだか難しいのだ、思考の表出が単純な人の言葉を汲みとるのは。今度は私が言葉を失くしてしまう。

「それだけの、理由、なの?」

「私は好きにすればいいと思うの。」

 放り投げたられた。――相撲で言うなら引き落とし。

「どうしたいかは自由じゃない?」

 私が悪かったのか、――ずるい人だ。

「だから嫌なら来なければいいと思うの。」

「誘われて、断る理由がなかったら行くでしょう。」

「それも自由じゃない?」

 私はがっかりした。笑う事も出来なかった。

「花梨ちゃんは亜子さんじゃないからなあ。」

 ――亜子さんも演研だった。私はもともと亜子さんとの伝手で演研に出入りしていたのである。

「悪かったね、亜子さんじゃなくて。」

「悪いね。亜子さん、人の事、よく分かる人だから。」

 花梨ちゃんはあからさまに嫌な顔をしていた。私の言葉で嫌な気にしてしまったようだったからである。その顔、そして反省しない人柄、けれども、

 ――彼女は彼女なりに。

 と、私は前向きだった。

 悩まないのは能力である。自分の莫迦さに気付く事、自分の莫迦さを認める事は、仕方ないのである。

 そして根岸高男を思い出した。

〝俺にはプライドがある〟

 我然、笑えた。

「良かった。もう私と話してくれなくなるのかと思った。」

「話したければ、研究室に来ればいいよ。大抵ここにいるから。」

 私は、よく分からないままに、言っていた。

 そして、

 ――もうこれきりだろうな。

 と思った。

 時間はあっという間に過ぎて、いつごろ就寝したのかは記憶になかった。

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