第5話

「女は子宮で考えるって、」

 廊下ですれ違った亜子さんに突然、言われたのである。

 私は驚いて笑う事しかできなった。何があったのだろうと思った。

 ある日、三途の河を渡る手前で、亜子さんに会った。

「あら、お兄さん。」

「あら、お姉さん。」

 小さな緑の自転車に乗って悠々とやって来たお姉さんは、私の傍に寄って来て自転車から降りた。そして二人で並んで歩くことにした。

 ショベルカーが住宅の密集している何だか汲々としているような所を一台、一軒の家を崩していた。

「ねぇ、ちょっと待ってよ。」

「え?」

「あれ、面白くない?」

「ああ、家ね。壊してるんでしょう。」

 私は素っ気なかった。

 あんな物、壊れてしまったって、私には関係ないと思って見ていた。

 亜子さんが勿論そんな事を言いたいが為に〝面白い〟と言った訳ではなかったのは分かっていた。唯、その時の私には、その誰のものでもない様な家がショベルカーで崩されて行くと言う非凡な様が、何でもない様な事柄に見えて仕方なかった。

 タイル貼りの風呂場に浴槽があって、それがショベルカーに因って剥き出しにされてしまったとしても、もぬけのからのその家に人間味のある時間を見出す事への感慨は、私にとって崩れていくその一軒の家を見ているより更に無意味だった。

 そしてその浴室の隣の小部屋、凡そ四畳半か、六畳かの部屋の棚が何故か未だ残されていて、若しその中からハンガーに掛けられているその家のもとの家主の服が露わになって私の眼に付いて、その家の生活を想像させ得たとしても、又、廊下の壁の下半分が板張りで、もう上半分が壁紙の貼られた清潔感の感じる清らかな場所だとしても、私には関係ないと言いたかった。

 どうせこの家に不幸はないのだ。これで幸せに終わるのだ。私にはこの終わりがとても幸福なのだと思った。

 ――実際私に、何の関係もない。

 何の話にも汚されていないそのままの無垢な家が、こうして意味有り気に、不要なものとして壊されて行く。その瓦礫の落ちる瞬間を、一階を制しているキッチンのあの雑多な空間を、何の問題をも感じずに唯、そう、見ていたのである。

「中、ああなってるんだ。」

「本当だ。」

 その日、帰りも亜子さんと一緒になった。

「ねえ、お兄さん。お兄さんは人を好きになると、どうなるの。」

 それは突然の質問だった。

「ん。そうですねえ、」

 そう言ってからしばらく考えた。亜子さんは隣で自転車を押しながら私が応えるのを待っていた。出来るならばあまり答えたくない質問だった。然し彼女は黙って私が応えるのを待っている様だった。人の話の聞ける人なのだと思った。

 しかし、そう感心したのと共に私は彼女の意志が強いのを感じとって少しばかり驚いた。いや、実際のところは分からない。もっと不気味な何かを感じていたかも知れなかった。女の人は時折、こうして不気味に閉口すると知っていたが、快活な彼女がこうして黙して平静としている事は恐ろしかった。

 私は少しどもり気味になって話した。

「嫌だな、何か。人の事を好きに思う時は、悲しい歌ばかり聞いてます。」

「え、どうして? 私なんかうきうきするけど。なんか、楽しくならない?」

 亜子さんは俄然強く応えてきた。私はこうなれば正直なところの話しか出来ない様な気がした。

「いや、僕はいま、そういう事に責任持てないんですよ。」

「そうか。」

 亜子さんはずっと真っ直ぐ先を見ていた。その表情からは何も読み取れなかった。

「だから、そういうの考えると、悲しい歌ばかり聞きたくなりますね。」

「どんな歌なの?」

 私は苦しい顔をして亜子さんを見た。

 亜子さんは私のその顔を見て少し目を泳がせ気味になった。

「私、何でどうしてばっかり言って、いつも駄目だって思うんだけど、また言ってる。」

 ――この人は何を求めているのだろうか。

 それは亜子さん自身にも分からない事だったのかも知れなかった。

「うん。まあ、でも良いんじゃないですか。そういうの嫌いではないですよ。」

「でも教えてはくれないんでしょう。」

「分かってるじゃないですか。」


「御免下さい。」

 父が山小屋の引き戸を開けて言うと、一人の老人が出てきた。

「いらっしゃいませ。こんな日に、あらあら。全身濡れてますけど。」

「すみません。この嵐じゃこれ以上歩くのは大変で、まだ部屋は空いてますか。」

「こんな嵐じゃみなさん来ませんから、もちろん空いていますよ。」

 私はそのやり取りだけ聞いて靴を脱いで受付の前の椅子に座った。

 歩いている間はあんまり水を飲んでは疲れるだけなので、この時数時間ぶりに水筒を開けて水分を取った。末端は冷え切った身体でも芯の方は熱くて、咽喉を通った水は潤いと共に気持ちの良い冷たさを運んだ。雨は何処からともなく窓硝子を打った。

 私は窓ガラスの向こうの霧の中を伺っていた。霧は形を変えながら流れて行くのだけれども、いっこうにその向こうの景色を見せてはくれなかった。

 私と父は部屋に案内されてそこで服を脱いで、洗濯ロープに脱いだ服をかけて干した。鞄から新聞紙を出して敷いて、その上に鞄やら濡れたものを置いた。それからまた鞄からビニールに入った着替えを出して、着て、風呂に入る事にした。

 傍の地獄谷から硫黄のガスが噴いていて、温泉が湧いているので山小屋には珍しく風呂があった。脱衣所と湯船しかないと言う粗末なところではあるが、別段身体を洗う事を目的とはしていなかった。ただ、冷えた身体を温める事だけが私と父には必要だった。

 檜の風呂だった。湯で檜が白く変色していた。後は建物自体は黒々としていた。私は乳白色の湯の皓々としているのを眺めて、かけ湯を汲んだ。身体の汗と埃を流した。湯の滴る音は響いて止んだ。湧き出る湯の音だけがあった。

 ――今頃になってなぜ私は母の夢を見るのだろう。

 だが、不意に気が付いたのは、この嵐で吹き飛んでもおかしくはないだろうと思わせるぐらいキシキシと小屋は軋んで、風の音が不安を煽るように唸っていると言う事だった。

「女は子宮で考える、か。」


「あたし、頭弱いからなあ」で始まる自己紹介から、今に至るまで、このノンという女ほど嫌な奴はいなかった。

 その自己紹介の最後はこうだった。

「やだよー。男怖いよー。あたし、無駄に言い寄られるんだよー。」

 ――自信過剰か。

 だが、確かに、この女の周りには男の方が多かった。その分女に妬まれるのを恐れているのだろうと思った。

 しかしだいたい、先ず、頭弱いからなんて自分で自分を悪く言うというのは、大抵それで許されることを望んでいるのだと私は思った。それでいて、ある事ない事言われてもみんな、嫌な気にしかならないだろうと思って、

 ――こいつは……。

 と、それ以上は恐ろしくて考えにも起こさないように振り切った。

 ノンは 根岸と最も仲の良い友人のふりをしている例の人だった。そして根岸と同じで私と同じ研究室に居たのだが、彼女は幽霊ゼミ員だった。彼女がゼミに顔を出すとしたら、たいてい根岸が飲み会があるからと誘ってしまう時だった。この女は遊びにしか興味がないのだった。

「就活とか、へ! 卒業したら婚活だ! 玉の輿、玉の輿。」

 私はぎょっとした。

 この女の酔った勢いはひどかった。まるで独り言のように発せられた暴言だった。

最早お嬢様の域を超えた。

「はあ?」

 私は呆れる他なかった。

 根岸は高笑いでその発言を迎えた。

「玉の輿に乗ってえ。すぐに離婚して、その男の金で好きな事する。するぞー。」

 どうしてこう言う事が言えるのか私にはよく理解が出来なかった。幾ら男に言い寄られてばかりいるからと言って、体たらくな人間にそんなに気前の良い事をする人がいるだろうかと思った。

 ――驕っておる。

「貴女みたいな人が玉の輿なんて、ないと思うけど……。」

「うるせえ。」

 彼女は俄然汚い言葉を発した。

 私はそれに笑いもせず、言い返す事もせず、

「あ、そう」

 とだけ言った。興味がなかった。

「あたしの男、みんな下僕になるんだよね。男はみんな下僕だよ、下僕。」

 根岸ひとり、何故かへらへらしていた。

 そして、

「あれはな。」

 とか分かったような口で言うのだった。そういう根岸も下僕のようにこの女の言う事には忠実だった。だから私はこう言う根岸の言葉には虫唾が走った。

 話はその男とは、つい先日お別れしたと言う内容だった。

(この女の男など知った事ではない。)

 男を飾りのようにとらえているのではないかと感じた。しかしその割に大分しつこい未練がある様だった。

 けれどもだいたい私はこの二人の言葉を信用していなかった。言葉ひとつひとつは浅はかな様な気がした。

 それでも二人の会話は私に聞かせるかの様に続いた。

「でしょう? だけどアイツの家にナプキンが散乱してたのは驚いたわー、あれどういう意味なんだろー。」

「お前、まだ出入りしてんの?」

「だって、他にいないんだもん。」

 この女は大学から帰るのが遅くなれば、近くのアパートに間借りしているその前の男の家に泊まったりして、関係を続けているのだと言う。

 男好きの女というのはそういう関係でさっぱりとできないらしい。けれども私はその男も男だと思った。

 ――その下僕に一度は会ってみたいな。

 そう思って、けれども莫迦莫迦しい、と思いなおして気分が悪くなった。

 ――男とくっついていないと生きられんのらしい。

 そしてノンは卒論の中間提出が過ぎると、暫し大学にも顔を出すようになった。時折資料室にも顔を出すようになってノンは私にもちょっかいを出してくる事があった。

「君、面白いよね。」

 けれども私にはこの女が気持悪くて仕方がなかった。下僕扱いされるのも御免だったし、それよりもこの女は不潔だった。性に素直すぎるのだと思っていた。

「絶対顔立ちは良いんだから、もっと女子に気を遣いなよ。」

「なんで?」

「なんでじゃない。もっと女子には優しく。」

「君、女子だったの?」

「女子、女子。」

「へぇー。」

「へぇじゃねぇ。」

 私は笑ってしまった。そして家出娘を思い出しながら言った。

「女っていうのは付き合いだすと面倒だよな。」

「何が?」

「営みがないと気が済まないらしい。」

「あーでも、そんなもんでしょ。」

 私は外に出歩く方が好きだった。

「恋したいなあ。恋したいなあ。」

 ノンは勝手に話を続けた。

 ――あの男と元気にしていればいいのに。

「みんなセックスの後って何する?」

「話す。」

「え、何を?」

「何をって、話さないの?」

「え、尻取りするんだけど。」

「……。」

 そしてある日、ノンに意地悪く私は、こういう相談をした事があった。これは一種自信過剰なノンに対しての仕返しの意味を込めた。

「花梨ちゃんて、俺の事好きなんですかね?」

 夏前、私は花梨と言う人からしばし誘われて、サークルの公演やら、活動に参加していた。彼女は演劇研究会の部員で、大道具を指揮していた。梅雨に入ると四年は最後の公演があるからと言って、大道具の手伝いに私を引き入れたのだと言う事だったが、それが毎度毎度誘われるのと、余り忙しくもないのに駆り出されたりして、この花梨ちゃんの話相手ばかりさせられるので、私はどういう事なのかと思っていた。

 花梨ちゃんは細身の人で、けして力仕事が得意だとは言えない体格をしていた。それが何故、演研の大道具のボスをしているのか不思議だったが、彼女の身の振りの下手さときたら堪らない物があった。

 ――役者向きではない。

 と私も見た瞬間分かった。莫迦に当たり前のようにボケをかましてる所とかもみていると、単なる裏方の華なのだろうと思った。つまり無駄に男にモテると言う事なのだろう。ネジの遊びの部分みたいなものである。実際、大道具を指揮して引き締める事が出来ていたのは演研の部長であるようだった。

 つまり花梨ちゃんは演研の裏方の単なる華だった。そしてノンは元演研だった。

 事情は知らないが、花梨ちゃんとはいわばこの女の宿敵だった。

 ノンはキレた。

「花梨ちゃんは男をおかしくしくさせるのが上手いの。あんた莫迦なの?」

「別に私が誰を好きになろうと、誰と付き合おうと、貴女には関係ないでしょう?」

「じゃあ言い寄られたら?」

 ――それを聞いてどうする。

 私は呆れながら応えた。

「それは、そうでしょう。」

(断る理由はない。)

「あんた、イタイ人になっちゃうよ。」

 意味が分からなかった。

 ――ああ、ああ、私は貴女に素っ気ないですからね。

 と、思いながら笑ってノンの顔を見ていた。男なら全員下僕にしてみせたいのか、ノンは思った通りの反応を見せた。

「男ってなんでこう、みんな莫迦なんだろうね。」

 私は苦笑した。

「あれでしょう。花梨ちゃん嫌いなんでしょう。」

「分かる? あたし、分かりやすいでしょう?」

 ――嫌味のつもりだろうか。

「もしダメだったら、眼の前で思いっきり笑ってやんよ。」

 私はその言葉に関して別段何とも思わなかった。

 翌日、又私は資料室で調べ物をしたり、資料を刷ったりと忙しくしていた。

 そこにノンが入ってきた。

 私は低い声で軽い挨拶をした。

 ノンは何だか知らないが、黙って私を見てからこう言ったのである。

「お前みたいな奴はなあ!」

 ――なんだよ。

 私は声にもしないでノンを見た。女は黙って私に言おうとしている事を飲みこんでしまったらしく、ただ私を睨むばかりだった。

 ――嫌な奴だ。

 言いたい事があるなら、最後まで言え、と思った。その方がまだ私も張り合いがあると言うものだった。彼女の事を真に受けるのだとしたら、どうせ男を下僕と思っているのだ。私から優しく何か言おうならば付け上がるだけなのだから、この女の相手をする時は観察に徹する事しか出来なかった。どうせ構ってほしいが為に、ある事ない事言いまくっているのだから、言い分を聞くだけ聞いて、拾える言葉にだけ返答していただけなのに、その結果がこれである。


 天井を見上げると、蛾やら蠅やらが蠢いている。湯船の端に頭を乗っけて少しだけ力んだ。足先が顔を出す。

 ――疲れたな。

 力を抜くとそのまま乳白色の中に身体が埋もれてかき消えた。

 いろんな人がいて良いのだろうが、もっと安らかならば良いのに、何でこうも気を遣わなければいけないように仕向けてくるのだろうか。

 考えは要らない。変に思う事もない。ただ単にもっと目前の事に手を差し伸べていけば良いだけなのに、一人で大ぶりかまして三振アウトなんて、とてもカッコ悪い。

 けれども心のどこかでいい気味だとも思っていた。

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