第4話

「また莫迦な事言ってる。」

 そう言ったのは亜子さんだった。

 それが亜子さんと私が初めて会話をした最初の一言だった。

 私はそれに笑いで応えた。

 この人ぐらい私の事を的確に言える人を私は他に知らないだろうと、この時思った。それ以来この亜子さんと言う女性と私は懇意の仲だった。それは私が三年にあがった時の話で、私がサークル棟の掃除を手伝っている時だった。

 私とサークル棟との付き合いは、山岡と言う肥満児、山ちゃんと、夢河と言う爆弾野郎、ユメとの付き合いから始まっていた。山岡も夢河も私と同期で、学籍が私、ユメ、山ちゃんと言う順だったために、三人は一年からの腐れ縁だった。そして、山ちゃんとユメは演劇研究会の裏方組だった。演研は脚本組と役者組と裏方組で別れていて、裏方組が私にとっても最も気楽だったのだ。それは山ちゃん、ユメがいたからという事もあったが、亜子さんがいたからと言った方が良かった。

 亜子さんは面倒見が良かった。私が演研を訪れた時、あまり口を利かない私に良くしてくれたからという経緯があったことからも言えた。

 亜子さんが私に何を感じたのか知らないが、話した時から亜子さんと私は何か通じるものを感じていた。それは何だったか分からないが、その時話をしてから二年音沙汰なしだったのを、私が三年になって、研究等に出入りするようになってから、度々資料室で会うようになっていた。そこからあの時の新人歓迎会の時の関係がよみがえってきたのである。

 裏方組の新歓では恒例の台作りがあった。台を作るだけの事だったが、それを早く綺麗に作るのが問われるのだ。私は山ちゃんとユメ、二人の付き合いで行ったので、あまりやる気がなかった。けれども大工仕事は心得ていたので、ユメ、山ちゃん、とその次に私が台をささっと作ってしまった。


「なんか懐かしい人がいる。」

「あ、お久しぶりです。」

「今度講演あるんだけど裏方で残ってるのってあの二人と私ぐらいなんだけど、今度手伝いに来ない?」

「もっといませんでしたっけ?」

「案外みんな忙しくなってきちゃったし、最近の子たちみんな出来ないのよ。」

「そうなんですか。」

 と、そういう具合だった。


 私が丁度暇なfを捕まえて、一服しながら雑談に耽っている所に急に割って入ってきた一言だった。私はこういう大胆だけど嫌味のない調子で物を言える人が好きだったのかも知れない。

 家出娘の事を考えなければ、その身体に触ってみたいとさえ感じることもあった。

「今ですね。ヒゲを磔にして、そのまま三途の河に流そうかっていう計画を立ててたんですよ。」

 三途の河とは大学に来る途中にある河で、私はその川をそう呼んでいた。本当はs川と言った。

「そうそう、先ずベロベロに酔わせてね――。」

「やっぱり莫迦な事言ってる。」

 亜子さんはそう言うと煙草に火をつけて呑んだ。

 彼女はライター志望だった。然し彼女の文をどこで見た事があっただろうか、私は知らなかった。実際のところ私は、彼女が何をやっている人なのか、ほとんど知らなかった。居酒屋で夜に働いていると言う事と、あとは腹の据わった恰幅良い女だと言う事だけの認識しかない。他には煙草が似合わないのと、fに尻を追いかけられていると言う事だけだった。

「山本はさ――」

 fの姓名である。

「――もう、いいよ。」

 私は亜子さんの呆れた顔を見て笑った。

「だって彼は甲斐性無しじゃない。なににしても。」

「確かに、すぐに何かに依存する癖がありますね。」

「それでも先生には気に入られてるんだよね。」

「可愛いもんなんじゃないんですか?」

「先生も会話の相手が欲しいからね。」

「亜子さんも別の意味では可愛がられてるじゃないですか。」

「そうかな。」

 彼女はそうかなと言いながらも嬉しそうだった。

 亜子さんの快活のある女らしさが先生に気に入られていたのだと、私は思っていた。けれども私は亜子さんのそうした快活の好さとは違う、もう一つの顔を見る事があった。私はそれの所為で亜子さんが壊れるのではないかと思う事もあった。

 久保次郎と言う男がいた。クマと呼んだ。その名の通り、クマみたいに体が大きいのである。亜子さんが〝クマさんみたい〟と言ってから、そう呼ばれるようになったのであった。

「mゼミの。クマと付き合ってるなんて、信じられないよね。」

「うん。」

「え――」

 と言ったのはm先生だった。

「――あいつ、久保次郎と?」

「先生、誰だかわかったんですか?」

「だってうちの研究室で男がいないって考えたら、すぐわかるじゃない。」

 私はそれを聞いて、

 ――そんなに飢えてたか?

 と思った。

「どう思う?」私はfに向けて言った。

 資料室にいた。m先生と私とfで、m先生の研究室は亜子さんの所属ゼミの研究室である。つまりm先生は、彼女の先生だった。この日はm先生が私たちに酒を奢ってくれると言うので、御馳走になっていた。

「なんか、モテない同士というか、寂しい同士でくっついちゃった感じだよな。」

「うん、でも次郎ちゃんは最悪だと思うなあ。」

「5回目だって」

「は?」

「だから、クマ。俺に言うんだよ。」

「5回目?」

「だから、……回数。」

「莫迦じゃないの?」

「嬉しいんでしょ? 初めてだから、クマ。」

「何の報告だよ。」

「あいつ、殺しても良いかな?」

 m先生はそれを聞いてへらへら笑った。私も苦笑するしかなかった。

「久保次郎にも困ったもんだな。先月なんか下のトイレに落書きして。あれ、あいつがやったんだってな。」と先生がそれに付け足す様に言ったのだった。

 私も、fもそれは知らなかったが、クマが女に諄い事はよく知っていた。

「亜子さんどう思っているのかね。クマのその言葉。」

 と、私は何となく興味があってfに聞いてみた。

「大木、隣でそれ聞いてたけど、別に何とも思ってなかった感じだったなあ。」

 ――大木とは亜子さんの姓名である。

「そんなもんかあ?」

「あいつは、それよりも精神的安定を求めてるから、」

 ――精神的安定?

「本当かあ?」

 私にはその精神的な安定と言う言葉が的確ではないように思われた。寂しい同士と言う言葉に関しては何となく分かっていたけれども、彼女の寂しさは、行き場のない寂しさではなかったように思っていたのであった。

「知ってるか、次郎ちゃん、n研究室の給湯室ぶっ壊した話。」

「ああ。」

「亜子さん、気がふれたのかな。」

「もう言わんでくれ。」

 そのfの言葉に、私も何だかちょっと悲しかったのだと不意に気付いたのだった。

 久保次郎が給湯室の洗い場を壊した件は、aと言う女にその時言い寄って振られたからだった。

 aはその給湯室でクマに襲われそうになったので、

「あんたとは無理だから。あんたとは、無理だから!」

 と、そう言って振り切って逃げたのである。それで動揺したクマは、その洗い場を蹴りあげてぶっ壊したのだと言う。しかもn先生の教弁の最中に。

「莫迦だねえ。女に免疫のない奴。」

「ああ、莫迦だ。」


「着いたぞ。」

 風も強く、霧も早く流れて、私と父は岩場の道を歩いていた。私たちはいつの間にか高い木立の森を抜けて、岩肌のゴツゴツした斜面を下っていた。父は下の方を指さして言った。

「右、気をつけろ。落ちたら死ぬぞ。それから道を見失って谷に下りると、ガスで死ぬからな。地獄谷って云うやつだ。あそこ、見ろ。黒い影が見えるだろ。あれが黒沢の湯の山小屋だ。」

 谷には本当に少しばかりの川が流れていて、下の方を手繰っていくと黒い建物がもそっと霧の下に辛うじて見えた。

「今日は、あそこに泊まるの?」

「ああ。多分、こんな感じじゃあ下りられないだろう。」

 二人して強風なので、大きな声で一つひとつ確認するかのように言葉を交わしてまた歩いた。雨は足元からも吹きぬけて襲ってきた。もう何もかも水浸しで身体は冷え切っていた。

「着いたらすぐ、ひとっ風呂行くか。」

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