第3話

 父も私も、合羽を用意して山小屋をあとにした。

 霧の中、視界の届かない世界に少しずつ歩みを進めながら私も父も黙っていた。山道は少しずつ下っていた。道の周りには苔桃の木など腰ぐらいの背丈の植物しかまだなかった。虫や動物の気配も感じられない。不思議な世界であった。

 雨は周りの木が身長を超えたぐらいで少しずつ降り出した。

 父も私も用意してあった合羽を着た。

「滑らないように気をつけろよ。」

 父が言った。

 然し黙って私は道を降りた。

 忘れた事を思い出していた。それは忘れてしまおうと思って忘れたことだったが、どうやら忘れきれずに覚えていたらしかった。

 やがて山道はぬかるんで、足を下ろしていく度に滑りそうで怖かった。父も黙って一生懸命下りている。延々続く道を行くと言う事の何が良いのだろうか、私には分からないが、こうしての山登りをしたのだから下りなくてはいけないのだった。ただ樹木の匂いと、冷たい空気が心地よかった。

 そして山道と自身の歩調と葉に当たる雨音と、鳥の声と前を歩く父とでリズムが出来た。そのリズムを追いかける私は、それを無心に取り組む他に、考える事があった。

 然しそれがどうして考えているのか、分かった事ではなかった。

「なぜ山に登る?」

 ――そこに、山が、あるからさ。 

 つまり、山に登るとfを思い出してしまう訳で、――とりあえず、それだけの事だった。


 fと初めて話したのは学科の資料室だった。資料室は学科の研究分野の専門書が一応揃っている所だった。私は先生に印刷を頼まれたので、偶然資料室を訪れてfに会った。

 その時、机に本が塔のように、身長よりも高く積み上げてられていた。その傍の椅子にfが座っていた。fは酒を飲んでいた。

「君、一杯どう?」

 私はfに言われるがままにビールを受け取って乾杯した。

「ご機嫌ですね。」

「いやもう参っちまった。これ終わらないわ。」

 よく見ると机には原稿が散らばっていた。表紙には卒論と明記されていた。

「大変そうですね。」

「いや、無理だよ。助けてくれ、君、手伝え。これ書くの。」

 私のいる大学ではレポートを手伝わされるのはよくある話だったが、卒論まで付き合わされるなんて言う事はなかったので、私は顔をしかめるだけして、それを返事にした。

 fはそれを見て、

「嫌だなあ。面倒くさい。」

 と、平気で言った。

 私はこんな先輩もいたのかと呆れたので積み重なっている本を見て、

「だけどよく積み重ねましたね。こんなに読んでるのに、書けないものですか」

 と話を逸らした。

「いや、これは、何となくつまらないから、積み重ねてみただけ。ヒゲの真似。」

「ああ、ヒゲさん。」

 ヒゲとは先生の渾名である。

「うん。」

「は、はぁ。」

 ヒゲは五〇代半ばのメタボである。ヒゲがコロッケみたいな形をしているのでヒゲコロッケと言う渾名だったが、なんせ髭が黒いので黴が生えたコロッケみたいだと言う話になって、気色が悪いのでヒゲだけ渾名になったという経緯がある。

 確かにヒゲの研究室にはいつも本が塔のように積み重なっていた。けれども、

 ――何だろう、この人は。

 それがfの第一印象だった。

 それからそのあとfと会ったのは、私が四年にあがった時だった。私はヒゲの研究室のゼミに入った。そしてfはまだ、ヒゲの研究室で学生をやっていた。つまり、あの時あのまま、卒論でこけたのである。

 亜子さんと私で、資料室で話をしていた。亜子さんは、別の研究室の先輩で、サークルの演劇研究会で知り合った仲だった。私は演研にいた訳ではなかったが、大道具仕事が上手だと言う事で手伝いとしてよく呼ばれていた。

「あいつは冗談で生きているから――、」

 私がfのことを言った言葉である。

 その言葉に亜子さんが笑った。

「そうじゃないですか?」

 と加えて言うと、亜子さんは頷いて

「あいつはねえ……。」と何か思い出すように又、笑った。

 亜子さんもなんだか納得しているらしかった。

 

 研究室には自称秀才の山岸を除いてはfぐらいしかいなかった。他にもゼミ員はいたけれども、ほとんど顔を出さなかった。私はt君には見切りをつけて大学ではfと話すようになっていた。又、あつこさんもfの事をよく知っていた。fは亜子さんのいる研究室にも顔を出していたからだった。

 ある日、fは先生になじられていた。

「文献を読まずに論文は書けませんよ。」

「ああ、へえ。」

「それに、説得できるほど資料がそろってないけれど? 本当に分かってる?」

「いや、しかし、探す時間がないもので。」

 先生は鼻でため息を漏らした。これ以上何も言えないと言う感じだった。

「とりあえず、まず、本を教えてあげるから。」

「いやあ、良いですねえ。ありがとうございます。」

 fは調子を違えて言ったので、

「貴方ねえ。何考えてるの?」

 こんな会話を私と亜子さんで廊下を通っている時に耳にしたのである。

「自分の研究を、何だか分かっているのかなあ?」

「さあ、どうなんですかね?」

「彼、漫画にかなり詳しいけど、あれじゃあ、現実にギャグ漫画だよ。」

 私は口を押さえて笑った。

「それから気障なんですよ。変に。」

「気障ね。」

 

「踊る阿呆に見る阿呆。」

 と言う阿波踊りで唄われるよしこ節があるが、これをfがいつもぼやいていた。


 しかもそれを誰に対しても言っていて、その言葉が人をどういう気にさせるかなどfには関係ないようだった。

 誰彼構わず、自分を慰めるように言っては、ダメな自分に開き直っていた。

 彼の言葉はいつも空を掴んでいた。人に対して言っているのではないと思った。自分に言っているのだと思った。自分が阿呆で、それを見ている君たちもどうせ阿呆。そんな感じの言い方だった。俺にかまうなと言いたい様にも思えて気障だった。

 

 その他fは、何をしていても、それはいやだ、だめだ、むりだ、つまらない。と、それだけを喚くので、時折私は堪え切れなくなって、

「じゃあ、あとは、もう、……。」

 ――死んでしまえ。

 と、私は言ってしまいたい事がしばしあった。

 そして、これ以上、fに私が言える言葉はなかった。それがfにとって一番の慰めで、最良の言葉のように感じていた。

 けれども、流石に私でもここまでは口には出来なかった。

 黙っていればつけあがるfは、駄目な方に駄目な方にと話を進めて行くので、私たちのテンポを少しずつ乱していった。だから彼が生きていることは冗談なのだと言うしか私たちには出来なかった。そういう認識でいなければ私たちがおかしくなってしまう。fはそういう人間だった。

 私たちはそれぐらい彼が生きているということが恥であるように思っていた。

 

 それでも私が彼と付き合いがあったのは、同じ研究室に居るt君が、余にもつるみたくない人物だったからと言う事もあった。

「莫迦だなあ、俺は、本当に莫迦だなあ。」

 そんなこんなで、私は、大学最後の一年間をこう言いながら過ごさなければならなかった。

 また、fが冗談と言うのは、彼の様相と生まれからも言えた事だった。

 まだ若いのに髪の毛が白髪だらけでバサバサとしていた。さらに下の前歯の一本が抜け落ちていて、上の前歯はさし歯で一見綺麗にそろっていたが、fが笑うとその歯は飛び出してしまう事があった。そのせいか笑い方はぎこちなく、言いようのみすぼらしさを感じさせる。そして、座敷童子のように、居るのか居ないのか分からないこの世のものではない様な見た目は、私たちにとって、何処か不快だった。また、小さい頃から歯はあまり磨いたことがなかったと言うぐらいであるから、初めは相当貧相な家に生まれたのかと私は思っていた。

 然し彼の家は案外に裕福だった。

 ――冗談だろう。

 と思った。

 彼の母は昔、フォークソングを唄っていた。当時はかなり有名だったらしく、印税と時折来る出演の依頼で食っているのだと言う。あとは国分寺の駅から坂を降りたところでカフェだかバーだかやっていた。

 私はそんな彼のツイッターでこんな呟きを見た時に噴いた事があった。

「帰れ! お前ら! 女もいねぇのに店を開ける意味はねぇ!」

 

 そう言えば、気が付くと洒落た服を身にする彼であった。

「あいつは裕福だよ。」と、亜子さんが言った。

「そうなの?」

「だってそこの紫陽花、買って来たの、あいつだし。」

 資料室の窓際には洒落た三つ程の毬のような紫陽花が鉢から顔を出していた。それがさらに三つ並んでいる。赤、青、白。

「あんなの買ってる余裕、私たちにはないよ。」

 そして亜子さんも卒論が出来ずに留年した先輩の一人だった。

 私たちはそれでも彼が生きているということが恥であるように思っていた。

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