第2話

 ここのところ毎日見ている母親の夢は、覚えていることが何一つない。しかし母親の夢であることは確かで、こうして毎日それを追っていくと、やがて私は子宮の中に帰るのかと思う気もしていた。けれどもそういう気がすると何故だか私はプールに飛び込むところを思い起こした。そのまま息もしないで深く潜水して、そのうちプールの底は底無しの大きな水溜りに変わって、私はどこまでも潜る事が出来るような気がして愉快になった。

 いつしか見たスコットランドの映画に、麻薬中毒の男が間違って便器に薬を落としてしまい、それを取るために便器の中に飛び込んだら、そこはどこかの海の底だったというシーンがあった。そんな感覚にも似ていた。便器の中で薬を取り戻すと男は声にもならない喜びを叫んでいた。

 ――それは水の中だから声にはならないだろうが。

 私は、食事を済ませてから小屋に戻りしばらく無造作に本を読んでいた。

 戦後、日本で既婚の老女が米人に雇われて春本の翻訳をしながら、若い日を思い出し、その翻訳の手伝いとして雇った大学教授の男と家の前の坂を眺めながら、逢引をする話であった。そして、それをそのまま小説にして老女は夫に復讐を果すと言うものであった。

 然しそれを読んだとして私に何一つとして考えは生まれなかった。前にも後にもイメージは起こらなかった。ただ読んだだけで空気の体積でも確かめるかのように慎重に息を吸って、その味を確かめた。

 そして呆然としていた。

 父が一生懸命に飯盒の容器を洗っていた。それを見ていた。私に何か思う事があっただろうかと。

 やがて心臓の鼓動だけが気になった。それを思って、不図、この本の世界にどっぷり入り込んで、そのまま記憶もおかしくなってしまいたいと感じた。

 けれども依然として、そういった感情はフツフツとわき出てくるだけのことで、頭は空っぽだった。

 私は、この小屋を眺めれば眺めるほど、そのうち平衡感覚を失っていった。

 そして段々自分が何をしているのかも分からなくなって、そのうち悪夢は現実で、今が夢の中なのではないかと言う風にも思えてきた。

 そんなことに現をぬかしていると、私は生きたって死んだってあまり変わらない様な気がするのだった。

 ――もしそれが自由だと言うのだったら。

 生死なんていうものは誰も構いはしないだろうと思った。こうした飛躍はどうにもならない。自分自身もどうすることもできない私を気付かせた。しかし私は依然として何の感慨も浮かばなかった。揚句、自分で自分を嘲るように笑った。

 私はこの不毛さの先っぽで俄然、笑いが込み上げたのだ。


 自称秀才と呼ばれた男がいた。根岸高男と言った。彼はその渾名に似合わず俗な人間だった。なのに、こう、いつも、高飛車なのだから可笑しかった。自分の認める物が世界で一番と言いたいような論理が彼の言葉をいつも作り上げていた。

 根岸と私は同じ研究室で知り合った。私は折角同じ研究分野で大学を卒業していく仲なのだからと思って、根岸を良い奴として見ていく他はないと初々しく接していた。然し彼はいつも私の話には何だか明後日の方を見ていたので、私は別で彼の親しい友人に彼の事を聞いてみることにした。

 答えは噂通りだった。

「よくあんなのと一緒に居られるね。」

 そう答えたのは、然し彼の最も親しい友人であった。けれども険もなく言えるその台詞を聞いて、その人は彼を友人とも思っていなかったらしいと私は思った。

 ――こわい、こわい。


 根岸は人からデブと莫迦にされていたが、彼自身は気付いてはいなかった。洗いが足りないのか、いつも服からカビの臭いがした。甘ったるい音楽を聴くし、聴かせたがるし、音楽の話をよくしたがって面倒な人間でもあった。日本の音楽なんてサブカルチャーもいいところなんだけれども、それが大層お気に入りらしく、とても素晴らしい代物を見せつけたかの様に聞けと強要してくるので、私は心で嗚咽しながらもよく話を聞いていた。然しそれは彼が自称秀才と言われるだけあって、自分がすべて一番という人柄そのものであった。そして渾名を謳い文句に許してやる他なかったのも事実だった。

 ――まぁ、自称秀才だから仕方あるまい。

 と、こう言った感じである。


 根岸はどうやら自身曰く、何に関しても通であり、特に強調して言うのが音楽の素養があるということだった。詳しくは彼自身が語りたがらないから分からないが、自分で自分を評価しているところがまず面白い。

 私はある時ジャズバンドを聴いていた。そこで思い付いて結構良いからと勧める様にかるく根岸に聴かせてみた。

 少し聞いて根岸は

「ただの室内音楽じゃん」と言って予想通り聞く耳も持たないで莫迦にした。

 それで私は

「ジャズバンドだからね。」

 と言って根岸を遠回しに諫めた。

 そして加えて、

「でも、アナタはそれほど良いものを聴いてきたんですね」と言った。

 根岸はにかにかと笑った。

 ――ほめられたとでも思ったのだろうか。

 私はため息だけついて黙った。


 そんな根岸の家に行くことがあった。

 然しこれはマズかった。

 その時根岸は、自分の部屋で好きな音楽を聴きながらライトノベルなんかを読んでいた。そしてそう言ったものの本を何故か執拗に私に薦めてくるのであった。よく見ると彼の部屋の本棚はゲームの取り説と攻略本の他はほとんど漫画かライトノベルだった。

 初め私は根岸に二の句も告げさせないようにして断った。

 それは根岸の薦め方が余にも乱暴で強要するような態度であったためだった。それからこの私と合いそうもないその趣味に圧倒された。ゲーム機の横でソフトが山積みになっている。壁じゅう本棚になっていて隙間なく本が敷き詰められている。絨毯は埃っぽくて体じゅうが痒くなりそうだ。洗濯物がカーテンレールに無造作に掛けられていて、部屋は湿気っぽい。ブラウン管が青く光っていて、それだけ妙に時代から取り残された感じである。パソコンはノート型で、その横にはコンパクトディスクがケースに入ったまま山になっている。ベッドには猫がいて、毛だらけになっていた。t君はその猫と一緒に横になって本を読んでいる。私は六畳だろうワンルームの片隅に座って、本よりもこの狭苦しい部屋にどことなく嫌悪感を覚えた。

 ――彼の部屋だ、彼の部屋がここにある。

 しばらく沈黙した後、然しそれでもまた、同じようにとりあえず執拗に薦めてくるので、私は仕方なしにその薦めてくる一頁だけ読ませてもらうことにした。

 ――だけど、こんな気だるい、幼い読み物。

 嫌だと思った。お伽話に毛が生えたように見えたこの文章が、この時は眼に痛かったのである。そして私はやる事もないので、その部屋の隅で蹲るようにしてこの時の情景を記すことにした。

(身もだえそうです。この音楽も、この部屋も。彼は幸い本に夢中なので、私はそれ以上の事はありませぬが。)

 通の根岸が良いと言う甘ったるい女の歌と、このいやったらしいほどの軽い音楽は、私の腐った部分をくすぐる様だった。唾液の粘っこいような、そんなふうな歌が部屋中に響いていた。

「お前は、仕事は探しているのか。」

 根岸は急に話を変えてきたので、私はびっくりして眼を見張った。

 が、即座に、シリアスに

「いや、まだ何もしてはいない」と答えた。

「俺は、就活はしない事にするよ。」

 彼の言葉に私はさらに目を見張った。彼はしばらく私の言葉を求めるかのようなそぶりを見せたが、やがて本の世界に戻った。

(ただ、仕事を探さないと宣言されて、何も言えませんでした。)

 然しそうした拒絶したげな感覚を突き付けられて、そう言えば私は、今こうしているのと同様で、何か漠然とした世界に身を投じているのと同じ様に、その存在の認識もされずに消滅しようなどとも考えているのかも知れないと、この時考えた。

 ――生きていれば楽しいこともあるか。

 不毛な事を考えていてそこまでたどり着けば、私は正気をとりも出せた。それから、それだけを感じることが出来る時だけは、生きることは、心地よかった。思えば、そう言う時以外は死んでいくことだけを思っていた。その時間、また自分は何をしているのかも分からないまま呆然と時を過ごしていることも知っていた。朝起きて気分が良ければ吉、あとは一生懸命になる他は今私が読んでいる本の中身の老女のように、自分が思うままを夢想する。そして、しかし実際は、自分の体調の事ばかり考えていなければいけなかった。

 眼が覚めたから、起きようと思う。

 腹が減るから、飯をこしらえて食う。

 疲れたから、風呂に入る。

 眠いから、寝る。

 本当の毎日はそれだけだった。

 そして眠る前にはfが言っていたこう言う言葉を思い出した。

 ――今死ぬも一興、明日死ぬのもまた一興。

 ここのところ毎晩、頭の一片でそうした事を考えながら同じことを繰り返して、疲れて寝た。しかしもう一片では、確かに感じることのできない生き恥を何処かで宿しているのに気付いていた。それは、別段、死ぬことは考えられたとしても、それに向かう事は出来ない様であったからである。

 ――他人も同じことかな。

(たぶん、恐らく。)

 私自身、人間として、同じ土俵にいたいと言う気持ちだけはある様だった。

 根岸の家に招かれてから数カ月後の事だった。卒論の中間提出で私たち四年はみんなが忙しい時期になった。私もそれであたふたした日々を送らなければならない時期になった。

 根岸はそんなある日、今日飲みにでも行かないかと言って私を誘ってきた。私は忙しさのあまりににべもなく断ると、彼は私の姿を横目に流して去った。私はみんな忙しい時期に何を考えているのかと不快に思った。けれども、すぐに忙しさでそんなことは忘れた。

 

 卒論提出には先生の印が必要だった。

 そのために私は研究室に先生を訪ねる機会があった。

 私は、そこで根岸に会った。根岸はt君と先生と三人で酒を飲んでいた。

 ――そう言えば根岸は酒にも通だと自分で言ってたな。

 私は先生の赤くなった顔を見ながら瞬間感慨に耽った。そして思わず、

「おい、提出は済んだのかよ」と根岸に向けて言った。いや、この場合は言ってしまったに等しかった。

 だから私はすぐに、しまった! と思った。

 ――人の事に構っている暇はないのに。

 酔って機嫌よくなっている根岸は、

「大分前に済ませた」

 とか、先生にも確認を促すように言って

「そういうお前はまだなのか」とか他にも

「のんびりやってるんだなぁ」などと、偉そうにして説教くさく語りながら

「俺にはプライドがあるから、」と言った。

 私はその一言に驚いた。

 ――で、次の句はなにか。

 と思わされて思わず唖然として構えてt君を見た。

   焦ったりはしない?

   人よりは優れている?

   俺は秀才?

 いずれにしても、変な臭いを醸す言葉なのは確かだったので、

 ――莫迦?

 と、言いたかった。

 先生も何だか困ったような顔をして私を見ていた。

 私は落ち着いて肩の力を抜いてからt君には次の言葉はないのだと気がついて

「俺には君の言ってることの意味が分からない」と言った。

 そう言われた根岸は私を、まるで汚い物を見る様に睨みつけてただ黙っていた。

 私は背筋を伝う冷ややかなものも感じ取れる気がした。しかしそれはほとんど感じ取れずに萎えた。

 つまり、余にもばかばかしくて、

 ――何だ。プライドって!

 なるほどしかし、みんな忙しい中、こいつだけそれを俯瞰したいがために、そう言う事を言うのか。

 私はこれ以来根岸とは口をきかなかった。

 話す度に何か失望させられる気になるのが嫌だった。

 然し、いずれにしても人が生きるのだったら誇りだけは持っていたいと思うということなのだろうと根岸の事を思い出す度に思った。

 私はそう言い聞かせて納得するしかないような気がするのだった。

 父はいつの間にか飯盒の洗いを終えていた。そして私の弄んでしまった本を取り上げて鞄に押し込んでから言った。

「早く支度しろ。」

 そして私と父は山を降りる支度をした。

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