学生日記

三毛猫

第1話

「飯!」

 と声がしたのは、父がそう叫んだからある。

 私はその声で眼を覚ました。いつになく身体のだるい朝だった。

 最近は毎日夢を見た。

 そのほとんどが恐ろしい悪夢だった。

〝悪夢〟と言葉に出来ても、どんな悪夢だったかはよく覚えていない。幼いころの嫌な記憶のようでもあった。

 それだけ断片的にわかった。

 その夢には必ず母親が出てきた。

 ――夢の中でマザコン。――御恐ろしい。


 家出娘と付き合っていることがあった。その娘は夜な夜な忍んで家の庭に現れて、私の部屋の窓を叩いた。

 一晩話すと大抵どこかへ消えてしまう彼女は、私を誘うような素振りで夜のうつらうつらしている頃に来ては言うのであった。

「暇、あるか?」

 そんな彼女と花見に行く機会があった。大勢人が集まって、私と彼女も学校の知り合いと会った。綺麗な桜の花を見るでもなく酒を飲んで話をした。その時私は酒を飲み過ぎたので、帰り途中の駅のベンチで寝そべったりして、休み休み帰ろうとしていた。すると、彼女が心配したらしく、女友だちの家で私と彼女で休ませてもらえるようにしてくれた。

 私を見兼ねたその彼女の友人は、私にお粥を作ってくれた。出汁の素を入れすぎた雑なお粥だったが、いや、助かった。

 私がお粥を食っていると、その友人は煙草を吸い始めた。

「やめたんじゃなかったの?」

 彼女は嫌気がさしたかのような言葉尻で、友人の背中に向けて棘のある言葉を突き刺した。

「吸わないと手首切りそうになる。」

 その友人は力なく、けれどもはっきりとそう言った。

 私はこの萌黄色の温もりのある絨毯に、血飛沫が汚す瞬間を想像した。

「お粥、うまいね。」

 その友人は無理に私に微笑んだ。心にはその微笑みはないようだった。

 その日彼女はその友人の家に泊まり、私もその傍で寝た。

 また私はその友人の血飛沫のそれを思い起こした。その時、とあることを思い出した。最近よく見る私の夢はそんな恐ろしさに似ていると何となしに思ったのだ。


 ロフトみたいな板の間の二階が寝床になっている。

 目覚めた時、私はそこにいた。

 屋根から飛び出た窓が一つある。その窓から注がれる光の筋をぼうっと眺めた。埃が舞って散っているのを目に焼きつくほどに見て、何か湿っぽい空気と一緒に煙の匂いがしてくるのに気がついた。恐らく父がこの山小屋の外に在る竈で朝食を作っているのだろう。その匂いが窓から這い上がってきているらしい。あんまり煙が入ると臭うので、私は急いで窓を閉めた。私の腹は何気なく空腹を伝えていた。

 一階の床はコンクリートで固められただけの土埃の酷い所である。一枚板の上等なテーブルが一つ真ん中に楚辺って、マルタの椅子がちょんちょんちょんと、その周りを囲っている。それ以外には厠があるのみであとは何もない。管理人はいないが、登山客がいれば泊まれると言ったところである。そしてそんな我々が登山客であった。

 小屋から出ると確かに父が竈に向かって食事を作っていた。

 私と父の中で挨拶と言うのは交わしたことがなかった。私は黙って持参したポリタンクから水を捻って出して、顔を洗った。

 父は飯盒で米を炊いて、レトルトのカレーを温めている。その姿は何だか子供が外で遊んでいるのと同じような無邪気さを醸している。飯盒が火からずらされて置かれているので、私はその火の上に鍋を置いて湯を沸かした。

 父は目を細めて私の鞄から箱をとって、そこから煙草を一本くすねた。火をつけて一本呑んでいる。

 ――また勝手に吸いおるのか。

 それを見ながら思った。

 父は何かを威圧するような態度で立ち上がり、薬缶に火を当てているところを見ている私を見降ろして言った。

「やっぱり山では予報はあてにならん。早く下りないと雨になる。」

 ――昨日の予報は確かに晴れだった。

 ラジオからは今日の予報が繰り返し流れていた。私は沸かした湯で珈琲を入れた。父もくれと言うので二つのコップにインスタントの粒を入れる。湯で溶かすとプクプクと泡が少し湧いて、それから焦げ臭い珈琲の匂いがした。気がつくと辺り一面霧で、視界がなかった。

 私は純粋に感嘆した。

 風が強く吹いている。起きた時の湿っぽい空気はこの霧のせいかも知れなかった。早くしないと本当に雨になるかも知れない。

 しかし、これは面倒なことになったと思った。

 下りるのに雨とは思わなかった。――とかひとりでに呟いた。それで、何となく私の友人fがしばし威勢よく言っていたことを不意に思い出した。

 

 ――なぜ、山に登るのか。

 fはいつも唐突にその言葉を口にした。彼も山に登る男だった。自分で言っていて面白いと思っているらしい。山の話をすればいつもそればかり言っていた。私にはそういう思い込みの激しいfが面倒臭くて莫迦らしかった。そのためか一々こうして記憶に残ってしまっているのだった。だが、こういうfの莫迦らしさが、この時は私の言葉としても浮かび上がってくる感情のこもった言葉のようにも思えた。

 ――私も父もなぜ山に登るのだろうか。

 死ぬためかな。

 何となくそんな事が頭をかすめた。それ以外にこれと言った決め手のある理由が見つからなかった。

 ――或いは人間ではなくなるためか。

 fの回答は本当に莫迦らしい。

『そこに、山が、あるからさ。』

 

 しかしfの野暮ったい繰り返しの語が、この時だけは素直に頭に響いたのだから私は不思議だった。確かに山に登ると言うのは、そこに山があるからであった。そしてそれ以外に何もないからということなのも確かなことだった。そういう意味でfは間違ってはなかった。然しそれを突き詰めずにただ言葉を口にしているだけなのだから、結局fは、阿呆としか言いようがなかった。

 fは兎も角として、私と父はこうして時折山に向かって旅行をした。それは習慣みたいなもので、毎年夏になると山に来て、人の営みと言うものを忘れた。

 ――生きていたって。

 私は山に登るたびにそう言う思いをずっと繰り返した。そしてそれ以上を言葉として訳さなかった。


「母親からまた手紙があったな。」

「なんで。」

「俺の誕生日だったから。」

「それで?」

「なにも? ――ただ、神様に導かれ日々どうのこうの言ってて、結局俺の事はどうでもいいらしいね。」

「へへ。」

「何のために連絡よこしたんだか。」

「気持ち悪いな。」

 父は飯盒から米を出して皿によそった。レトルトの袋を破いてその米にかけて食べはじめた。

 私もそれを見て同じようにした。

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