第13話

 高貴から連絡を受けた高田はすぐにモノの探索を開始した。しかし、どこにも反応がない。

「高杉がモノを背負ってこっちに歩いてきてます」

 冷静に状況を語る高貴の声に焦りや不安が滲んでいるのが電話越しでもわかる。

 モノの反応はない。だがモノは出現している。こんな例はなかった。記憶にも、記録にも。

「とりあえず向かいます」

 高田はそう言って電話を切ると、悠平と凛子の方へ向き直った。

「モノが出ました。運動場。すぐに追いかけるから先に行って」

 ふたりは頷くとすぐに研究室を出た。

 比呂はモノに縋られて乗っ取られでもしたのか。モノにひとりで立ち向かってやられたのか。可能性をいくつか考えてみるが、どれも腑に落ちない。モノが出現すれば反応がすぐにあるはずだ。出現時のアラートもなかった。それどころか、高貴と洋太郎が視認しているのにこちらにはモノの反応はない。もしかしたら厄介なことになったかもしれない。

「古谷先生、バックアップ用のノートパソコンを持ってきてください」

 美恵に急いで連絡し、同様に伊坂にも連絡を取る。自身も運動場へと急ぎながら、高田はこの事態についていくつもの仮定を浮かべては消し考えては否定し、ひとつの結論に行き着く。

 そもそもモノは、人の負の感情から産まれるもの。負の感情だけが具現化したのがモノであるならば、他の感情は? 悩み、泣き、苦しむことさえも抱えて笑える。彼女なら。

 仮定に過ぎないが、恐らくこれが正解だろうと高田は確信した。

 運動場に着くと、自分以外はすでに揃っていた。誰からともなく、どういうことですか、と声が上がる。その向こう側には焦点の合わない瞳でこちらをまっすぐ見ている比呂がいた。

「恐らく、高杉自身がモノです」

 なぜ、自分はこんなことを冷静に言えるのだろう。いや、冷静ではなかった。高田自身、こんな現象は初めて見た。モノは本来、人間の負の感情だけが集まってできた存在。他の感情と切り離された悲しみや苦しみ、憎しみなどがいくつも集まって、その感情単体で動くようになった存在である。本人の中に残ったまま具現化するようなことはありえない。

「可能性としては、高杉の中の他の感情と一緒になったまま負の感情が大きくなりすぎたということが考えられる。彼女の感情の多くを占める何かが、負の感情と直結している」

 高田の言うことは推論に過ぎないが、そうでなければこんな現象は起こらない。比呂の心の中にある何かしらの大きな想いに負の感情が生じた。しかしそれは彼女にとって単純に悲しさや苦しさとしては割り切れなかった。自分の中の嬉しいことや楽しいことと直結していて、どちらともつかない感情が産まれた結果、こうなった。

「比呂を倒せってことですか?」

 凛子の声が震えている。高田には何とも答えられない。黙って美恵から受け取ったノートパソコンを起動させる。

 凛子は険しい表情のまま深呼吸をひとつすると、比呂に向かって歩き出した。

「藤吉さん!」

「大丈夫です、古谷先生。モノはこれまで、私たちに攻撃してきたことはないから」

 強い言葉で凛子は言った。一歩、また一歩。ふたりの距離が縮まっていく。

「比呂。わかる? 凛子だよ」

「わかるよ」

 目はうつろなままだが、比呂は笑った。だがそれはいつもの笑顔のように明るくはなかった。泣き笑いのような中途半端な表情。声も確かに比呂のものだが抑揚がなく静かな口調だった。

「どうしたの? なにか悲しいことがあった?」

「私、悠平が好きなの」

 凛子の話を聞いているのかいないのか。比呂は淡々と話を続ける。

「でも悠平は私のこと好きじゃないかもしれない。私が悠平を好きでいたら、悠平は嫌なのかもしれない。だったら私、悠平のそばにいちゃいけない。悠平が好きだから。迷惑かけたくない。嫌な思いさせたくない。でもそばにいたい。だって、悠平が好きだから」

「比呂」

「好きなのもそばにいるのも幸せ。でもそのことが悠平を苦しめているなら悲しい。私、どうしたらいいんだろう。好きなのに、好きだから、悠平は私のこと嫌いなのかな」

 姿も声も比呂のものだが言葉に抑揚もなく無機質にしゃべり続ける。それが怖いというよりむしろ凛子には悲しく感じた。彼女の感情を多く占める何か。それは悠平への想い。いつも明るくて、何を言われても何をされても笑顔で彼のそばにいた。その内側に多くの葛藤を抱えていたのだ。

 それがわかってしまった凛子は、胸が痛くなった。どうして彼女がこんな風になってしまったのか。悲しみの次にこみ上げてくるのは怒りにも似た苛立ち。

「悠平!」

 振り向いて叫んだ凛子の表情は険しくも悲しげだった。

「ちょっと来て話して」

 いつになく強い言い方の凛子に悠平は素直に従った。比呂の方へ近づいていく。

凛子より一歩前に出たところで立ち止まると、溜め息をついて声をかけた。

「お前なにやってんだよ。みんなに迷惑かけて」

 いつもの悠平の言い方だった。比呂の表情が崩れる。笑顔を保とうとしているようだが、今にも涙がこぼれそうな悲しい顔。それでも悠平は顔色ひとつ変えないままだ。

「なんでそういうところは鈍いのかな。頭いいくせに。ばっかじゃないの」

 その様子にいてもたってもいられず凛子が口を開く。普段は人を貶すような言葉を滅多に口にしないし怒ることもない彼女の様子に、悠平だけでなく後ろにいた全員が驚いた。

「聞こえてたでしょ? なんでわかってあげないの?」

「なにをだよ」

「だから、比呂は悠平のことが大好きなの! でも、自分が悠平を好きでいることで迷惑をかけているんじゃないか、嫌われているんじゃないかって不安なの!」

 比呂の負の感情は、悠平への恋心と切り離すことができない。自分が彼のことを好きでいることが幸せなのか、それとも悲しみなのか。切り離せないからこそ比呂の中に残ったままモノが具現化してしまった。

 さすが女の子ですね、と感心したように高田は息をつく。こんな悠長なことを言っている場合ではないのだが、いつもあのくらい頭がきれていれば卒論指導もしやすいのに、と思った。

「女の子の恋心は複雑なのよ。頭が良ければわかるってものでもないの」

 自分にも苦い恋の思い出があるのだろうか。美恵の言葉には深みがあった。これ以上余計なことを言ってはいけない気がして高田はそうですか、と一言返してノートパソコンの画面に視線を戻した。

「感心している場合でも、思い出に浸っている場合でもないんですけどね」

 シャッターを切りながら伊坂が緊張した声で呟く。モノは本来目視できるものではないはずなのになぜ写真に納まるのか、伊坂はいつも不思議に思っていた。しかし、自分の教え子がこうなった今、そんなことを考えている余裕はなかった。原因は凛子のおかげでわかったかもしれないが、ここから先の対処法は? 比呂ごとモノを倒すしかないのか。それとも比呂からモノを分離させて倒すことができるのか。あるいは、比呂の感情を抑えればモノも消えるのか。

「少し本人たちに任せてみましょう」

 根拠もなく、ただ何か確信があるかのように高田が答えた。

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