第3話

「モノ。なんですかそれ」

「モノクロ、とかいうでしょ? そのモノ」

「単色、単品、単体。ひとつの何か」

「そう」

 高田は説明を続ける。人の負の感情が形になったもの、それがモノ。ひとつの意志だけで動く負の生命体。

「苦しい、悔しい、悲しい、憎い。形は様々だけれど、何かひとつの感情がああいう風になってしまう現象、そしてそれによって現れる個体を我々はモノと呼んだ」

「我々?」

「当時の岡本ゼミの連中のこと」

 岡本ゼミといえば、現在この大学で名誉教授になっている岡本英匡おかもとひでおみのもはや伝説となりつつあるゼミのことだ。

 何が伝説かと言われればその実態はよくわからないが、数十年経った今でもここでその名を知らない学生はいない。

「高田先生って岡本ゼミだったんですか」

 比呂が驚いたように言うと、高貴は今知ったのかよ、という表情で彼女を見遣った。もともと、自分の好奇心に触れるもの以外にはあまり興味を持ちたがらない性質である比呂にとっては当然のことではあったのだが。

「で、消したはずなんですよね?それ」

 伊坂が話を戻す。恐らく、この中で最もこの事態を憂慮しているのは彼であろう。

「一応はね。岡本先生はモノの存在を知って、僕らゼミ生にそれとなくその話を持ちかけた。若かった僕らは先生の話術にまんまと乗せられて、いや。まぁ、そうは言っても自発的にやったことですからあまりそういう言い回しはよくないんでしょうけど、モノ退治をすることになりました」

 岡本は、独自のモノ対策用のシステムを構築。詳しい構造は文系学生であった高田にはよくわからない。だが、使い方だけはみっちり教え込まれた。

 それらを自身の信用できる学生たちに託し、武器システムの開発やバージョンアップを重ね、現在、高田のパソコンに眠るモノ対策のシステムを作り上げた。

「高杉の使った小刀二刀も、正直、使えるかどうか半信半疑だったんですが」

 システムが起動するかもわからない上に、比呂は突然の実戦だった。果たしてその武器が彼女に合っているかすらもわからなかったが。

「広井も見えるって言うし、適合者がこんなに近くでふたりも見つかるとは思わなかった。しかもこのタイミングで」

 だから、お前たちを巻き込むことになるけれど、と高田にしては珍しく言いにくそうに告げた。同じように、伊坂と美恵にも。

「僕は構いません。できることがあれば」

「私だって協力は厭わないわよ。何かできることがあるならね」

 伊坂、古谷の返事はすぐだった。モノの話をしたことがあったからというのもあるだろう。

 問題は、今回、当事者となる学生たちだ。ふたりが了承してくれなければ、モノとの戦いは無理だ。モノを消し去るには、彼らの力が必要不可欠となる。

「僕は構いませんよ。やります」

 意外にもあっさりと、高貴は答えた。

「私もやります! 誰にでもできるわけじゃないんでしょ?」

 比呂も元気よく叫んだ。

 学生ふたりの快諾に、表情にこそ出さなかったが、高田は胸を撫で下ろした。

「じゃあ、早速だけど話を進めたい。ふたりとも、この後は?」

 もう授業は終わっている。できるならばこのまま具体的なことまで説明してしまいたいと、高田は逸る気持ちを抑えつつふたりに確認した。

「僕は特に。高杉はバイト?」

「今日はない。ただ、悠平と一緒に帰ろうと思ってた。あ、あー。メール返さなきゃ」

 悠平とは、比呂と付き合っている文学科三年の時任悠平ときとうゆうへいのことである。美恵のゼミの学生で、近代文学を専攻している。大学院の進学を希望しており、頭脳明晰、常に冷静な青年。それがどうして比呂のようなタイプと付き合うことになり、しかもそれが二年以上も続いているのか、と高田も不思議に思う。

「時任くんと?」

「今日は五限までだから図書館で勉強して待っててくれてるんです」

 六限目の授業が終わってそろそろ三十分近く経つ。悠平は、それでも図書館で彼女を待ち続けているのだろうか。

「だったら時任くんも呼べばいいじゃない。あの子が仲間になればこの上なく心強いわ」

「いや、古谷先生」

「だめです」

 適合者かどうかもわからないのに、と続けようとした高田の言葉をさえぎって、比呂は強く言った。いつになく真剣な表情に、一瞬、その場にいた全員がたじろぐ。

「悠平が自分からやりたいって言うならいいと思う。でも、あいつの邪魔になることだけはさせたくないです。本気で修士目指してるんです」

「わかったわかった。勝手なことはしないわ。時任くんが真剣なの、私も知ってるしね」

 美恵の言葉に、比呂は子どものようににっこりと笑うと、大きく頷いた。が、すぐに、その顔がさっと青ざめた。

「先生、これ、もしかして」

 自身も嫌な感じがして、高田はモニターに目を遣った。開いたままの探索システムに、先程より速いスピードで動く赤い点滅が見える。

「広井、今度はお前がやってみるか」

「わかりました。モノってこんなに頻発するものなんですか?」

「いや、ペースが速すぎる。さっきのに触発されたかな。何十年ぶりに出てきたわけだからね」

 高田は言いながらパソコンの前に座ると、伊坂先生、と声をかけた。

「そっちの棚に、グローブ、ああ、黒い手袋が入っていると思うんで、それを広井に」

「わかりました」

 言われた場所を探せば、すぐに目当てのものは見つかった。ごく普通の、黒い革製の手袋。見た目は普通だが、手にすれば何か仕込まれているのだろうとわかるくらいの重さがあった。

「僕はコレですか」

 早速グローブをはめると、握ったり開いたりしながら感触を確かめる。

「小柄で動きの速い高杉は、攻撃力は低いけど速さを活かせる小刀二刀が向いてると思った」

 キーボードをたたきながら、高田は続ける。少しずつグローブが熱を帯びていく。熱くはないが、味わったことのない感覚。

「広井は体も大きいからね。無駄に道具を振り回すより、そっちの方が向いてると思うよ。何も考えなくてもいいから。ただ、こっちで指示する相手の弱点に一発、ぶち込んで欲しい」

「わかりました」

「その前に高杉、スロープに行って。広井は登りきったとこ。三十二号館の前あたり」

「はい」

 既に普段の調子を取り戻した比呂は、先ほどの小刀を両手に持つと研究室を飛び出した。

「うわ!」

 飛び出した瞬間、比呂の声とドン、という音が研究室内に響いた。見れば、そこに立っていたのは息を切らせた悠平で、その胸に勢いよく比呂がぶつかったようだった。

「ここにいた」

「え」

「帰るぞ」

 悠平は有無を言わせない様子で比呂の腕をグイと引いた。そこで初めて、比呂の両手に小さな刀が握られていることに気付き、目を見開いた。

 言い訳を考える。何とかして自分は外に出なければ。あれを食い止めなければ。高貴も後ろに控えたままだ。早くしなければ。

「あ、うー、なんていうか、これは、その」

 その時、背筋に冷たいものが走った。目の前にいる悠平の顔も一瞬青ざめたように見えた。

「速い! 悠平の後ろ!」

 しまった、と高田が気付いて叫んだ時には遅かった。

 悠平がやって来たことでモニターから目を離したほんの数秒の間に、モノはそこまで迫ってきていた。

 比呂と向き合ったままの悠平の後ろに、黒いモヤが中途半端な形を成していた。

「高杉、伏せろ!」

 高貴の言葉に、とっさに比呂は悠平を押し倒すようにその場に伏せた。

「先生!」

 高田はハッとしてキーをたたく。瞬間、バチバチと音がして高貴のグローブに閃光が走った。

「上からたたけ、広井!」

 支持された通りに、力いっぱい上からの衝撃を加える。ドン、と重い音がして、確かな手応えがグローブ越しに伝わった。次いで、風船の割れるような音。キラキラした何かがその場に舞ったように見えて、一瞬で消えていく。

「消えました」

 高田の言葉に全員がほっとしたのも束の間。

「で、どういう状況なんだ?」

 押し倒された状態のまま落ちそうになった眼鏡を直す悠平の問いに、比呂はえへへ、とごまかすように笑うしかなかった。

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