九.不可視の天秤

 国家研究院のジープは、速かった。普段から急病人や怪我人の搬送などもあるのだろう。速くて丁寧な運転だった。

「着きましたよ。弟君は大丈夫ですか」

 男が心配そうに、ジープの幌を捲る。その隙間から、カラーを抱えて灰次は滑り降りた。

「ああ。助かった。ありがとう」

 暮れまでには着くと言っていたが、確かにあっという間に着いてしまった。王室のジープと遜色ないスピードだ。さすが国家機関、それなりの車両を有しているのだろう。そしてまた、運転技術も長けているということだ。

 男は研究院の目の前で灰次たちを降ろした。彼自身はこれから、裏手にある倉庫まで荷を運んでいくらしい。

「中までご案内しましょうか?」

「いや、そこまで世話になるわけにはいかない。あんたも仕事があるんだろう。すまなかったな」

「いえ。メイディ師長は本日は外出の予定はないと聞いています。入口で声をかけていただければ問題ないでしょう」

 丁寧にそう説明してから、男は『クルスのご加護があらんことを』と静かに頭を下げた。

「ああ、あんたにも。クルスの加護を」

 慣れない言葉を口にする。王室関係者でナーシャの師長の知人であるというのなら、加護の言葉を口にしないのは不自然であろう。

 灰次の言葉を受けて再び深々とお辞儀をすると、彼は運転席へ戻った。ジープは通用門を抜け、建物の裏側へ消えていく。

 それを見送って、灰次はカラーの様子を窺った。灰緑色のマントをすっぽりと被ったまま、腕の中で小さくなっている。

 彼は理解しているのであろう。研究院の近くには、当然、術師たちが大勢いる。彼等は女神クルスへの信仰が特に厚く、また、その加護の力も大きい。黒猫が近付くことは好ましくないのだ。ジープの中でもしんと押し黙ったまま、身動き一つせずに運転席からいちばん遠い位置にうずくまっていた。

「悪かったな」

 カラーを抱えたまま、灰次は研究院の建物とは反対側へ歩き出す。国境を隔てる関のある方向だ。

「あのひと、だいじょうぶだったかな」

「大丈夫だろうよ」

 あの男に何か悪影響を及ぼしてはいまいかと不安そうにこぼすカラーの頭をマント越しになでてやると、そう、と一言だけ返事があった。

 関が見えてくる。常であれば大きく開いている国境の門は固く閉ざされ、関の管理をする役員の代わりに鎧を着た騎士たちが立っていた。観光用の馬車も輸送用のジープも、皆そこで立ち往生している。

 灰次は抱き上げていたカラーを隣に立たせると、同じように門の前で足を止めた。いよいよ出国となれば、今度は王国印は使えない。関は大きな砦のようになっていて、国境沿いにはずっと高い塀が続いている。抜け道がないのは灰次も知っていた。この関から術師の力を送り込み、塀伝いに結界のようなものを張っている。ジャッシュの国境はそうして常に守られ、監視されている。

 遠巻きに門の様子を窺う灰次の背後に、白いコートを着た細身の男がひとり、現れた。フードをすっぽりと被っており、その隙間から一房、茶色の髪が伸びている。足音もなく近付くと、吐息が触れるほどの距離で彼は呟いた。

「藤堂灰次様でいらっしゃいますね? 振り向かず、そのままお聞きください」

 か細く小さな声で名を呼ばれ、驚いて振り返りそうになる。まったく気配を感じなかった。

「誰だ?」

「藤堂灰次様で、いらっしゃいますね?」

 男は再度尋ねた。その声音は少女のようにも聞こえるが、低く落ち着いた雰囲気のある不思議な声だ。そうだ、と前を向いたまま答える。男は手にしていた灰次の写真をコートの内ポケットにしまうと、少し離れて言葉を続けた。

「ズー・ディア所属、バランス頭領のルーラと申します。トウカ嬢よりあなたの援護を仰せつかりました」

「トウカから?」

「関の南方にございますニレの木にて、お待ち申し上げます」

「待て」

 言い終わらないうちに、男は消えるように去った。慌てて振り返ると、そこには誰もいない。薄っすらと残った足跡だけが、彼がそこにいたことを示している。

「灰次、これ」

 いつの間に仕込まれたのか、ポケットに一枚の紙が入っている。カラーはそれを抜き取り、灰次に手渡した。はたしてそれは、トウカからの手紙であった。

〈当方はロイエ・レヒェルン・アリストラクタについての調査員として、諜報・潜入部隊であるバランス頭領ルーラをコルテに派遣いたします。また、独自に桐生院世界きりゅういんモンドの動向を追いましたところ、出国制限前にコルテに入国していたことがわかりました。必要があれば、コルテ入国のお手伝いもルーラにお任せください。なお、今回はサービスですので、追加料金は発生いたしません。〉

 最後に、節気商の店印とトウカのサインがあった。

「国外調査は難しいだの言ってたわりに、仕事が速いじゃねえか」

 しかも、先を読まれている。灰次が再度コルテに入国しようとするであろうことも、彼女の情報網と的確な判断を持ってすれば、容易に導き出せるのだ。

 バージのメモと共に手紙をポケットに押し込むと、灰次はカラーの手を引いて関の南方にあるというニレの木を探して歩き始めた。


 高い壁沿いに街の南へ進む。建物が少なくなり、砂利道が続く。人の気配がほぼなくなった街のはずれに、ニレの木が一本、枝葉を大きく広げていた。

 この季節に青々とした葉を茂らせているのはどこか不気味で、灰次は近付いてその幹に触れた。恐らく壁の結界の術式が影響しているのだろうというのは、そういったことに疎い灰次でもわかった。この木には季節も時間も関係ないのだ。

「そのまま、こちらを向かずに」

 木の陰から、か細い声がした。ルーラであろう。

 灰次は何も言わずに幹に寄りかかり、言葉の続きを待つ。カラーも灰次と同じように木を背に向けて少し離れた場所に立つと、遠くに研究院の大きな建物が見えた。

「これより、壁に穴を開けます。長くはできません。術式への干渉を感付かれると厄介ですので」

「あんたも術師なのか」

「質問はお受けいたしかねます」

 抑揚のない声が、背中側から返ってくる。恐らく彼はこの壁に巡らされている結界の一部を解ける程度の術を持った術師なのであろう、と灰次は解釈した。

 ズー・ディアには元騎士団の小隊長もいるのだ。高度な技術を持つ術師がいても不思議ではない。それが、国を守る結界を破るすべを持っているという事実は、若干、問題があるのかもしれないが。

「準備がよろしければ、すぐにでも」

 闇に乗じて決行するのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。陽は傾いてきているとはいえ、日没にはまだ早い時間だ。

「準備はできてる」

「かしこまりました。では、穴を開けます」

 ルーラが壁に向けて手をかざす。目には見えないはずの結界が、波打つようにぐわんと揺らぐのが灰次たちにもわかった。

 カラーが何かを感じたように、身体をびくりとさせる。その肩を強く抱いて、灰次はじっと遠くを見つめた。

「……は、道である。……は……である」

 少女のような声が詠唱を紡ぐ。その声は徐々に低く響き、それに呼応するように結界の揺らぎが強くなっていくのがわかる。

 途切れ途切れに聞こえるこの詠唱を、灰次は聞いたことがあった。国家研究院の術師が使う言葉に似ている。正確には覚えていないが、自分の知る術師が似たような詠唱をしていた記憶がある。

 元研究院の術師かと聞いたところで、恐らくまた『質問はお受けいたしかねます』と返されるのが関の山だ。バージのように、何か事情があって今はズー・ディアでその手腕を発揮しているのだろう。

「……開きました。どうぞ、お通りください」

「ありがとう」

 詠唱を終えたルーラがこちらを振り向く。壁には人ひとりが通れる程度の黒い穴があった。カラーの手を引き足を踏み入れると、不思議な感覚が全身を巡る。気持ち悪くはないが、あまり気持ちの良いものでもない。

 二、三歩進むと外に出た。林のようだ。細い木々が茂っており、辺りに人はいない。

 ぼんやり立って辺りを見回していると、背後からルーラが追ってきた。彼が通り抜けると黒い穴は静かに消え、元の通り壁が現れた。

「すごいな。コルテ側の結界も破ったのか、これ」

「こちら側の結界の切れ目を通し、コガド・シティ郊外まで繋ぎました」

 質問しても返ってくることはないだろうと思いつつ問いかけてみると、意外にもあっさりと返答があった。

「そういうの、なんでわかるんだ? 相当な術師だろう、あんた」

「……お答えいたしかねます」

 言いながら、ルーラはそっと距離を取った。視線の先にはカラーがいる。

「ああ、悪い。あんたも術師なら、気持ちいいもんじゃないわな」

「いえ。トウカ嬢より黒猫の存在は伺っておりましたので」

「助かったよ。ありがとう」

「いえ。トウカ嬢より仰せつかっておりますので。では、私はこれで。クルスの加護がございますよう」

 相変わらず抑揚のない声でそう告げると、ルーラは背を向け木々の間に消えていった。

 残された灰次たちは、もう一度辺りをじっくり見回してみる。人のいない、静かな林の中。

 ルーラによればコガド・シティの郊外だという。国境を超えるどころか、王都まで二、三歩で着いてしまった。彼の術は一体どうなっているのか。繋いだ、と言っていたが、あの黒い穴は距離も時間も超越できるということだろうか。

 恐らく、いつでもどこでも気軽に移動できるわけではなく、何か条件があるのだろうが、それにしたって使い方を少しでも間違えれば国家を揺るがしかねない術だ。そんな術師を私兵として抱えている節気商の裏の顔は、相変わらず得体が知れず恐ろしい。トウカの父ハルアキも食えない男であったが、トウカもまた、若くしてそれだけの何かを継ぐだけの器があるということだろう。

「どこいく?」

「とりあえず、街の様子を見る」

「そのあとは?」

「流通所」

 林を抜けて大通りを目指す。人の往来が多い場所へ一刻も早く入り込みたい。

 ざわざわとした喧騒が徐々に近付いてくると、灰次はカラーを抱き上げた。

「聞こえたら教えろ」

「うん」

 カラーが目を閉じる。すう、と小さく息を吸って、全神経を耳に集中させる。

 喧騒の中で、道行く人々の声がはっきりと聞こえてくる。若い女の声、景気のいい男の声、元気に泣く赤ん坊の声、不安そうな婦人の声。そのひとつひとつが、カラーの耳に届く。

 灰次の腕の中で、その全てを聞き分け、今必要な情報を探す。ロイ、ロイエ、ハリロク、スパイ、桐生院……なんでもいい、手掛かりになるキーワードが聞こえれば、それだけでじゅうぶんだ。

「……ない」

 しばらく後、カラーはゆっくり目を開いて、小さくそう呟いた。

「一言も?」

「ないよ。みんな、きっと、うわさを知らない」

「どういうことだ」

 カラーの耳が捉えたのは、天気の話や作物の出来などの世間話、観光客向けの店の口上、路地裏の小さな喧嘩など、他愛ないものばかりだった。

 そのどこにも、不穏な噂の影など隠れていない。誰もスパイの話などしていないのだ。

「出入国の制限について話しているやつは?」

「それはいるよ。でも、ジャッシュの関で事故があったって、みんな言ってる」

「こっちじゃそういう話になってるのか」

 シーザの言っていたとおり、この国の王アグリコというのは聡明な王なのだろう。余計な混乱を招かないために、国境断絶の理由を当たり障りのないものにしている。

 時間が経てばその真実もいずれどこからか知られることになるのだろうが、今のところ、不穏な噂が立っている様子はないようであった。

「どんな話をしてる?」

 カラーの告げた噂の内容はこうだった。

 ジャッシュの関があるナーシャ・タウンで荷馬車の事故があり、巻き込まれた馬たちが逃げ出して暴れている。また、荷物が散乱し、行商に滞りが生じている。関は現在封鎖され、落ち着くまでは時間がかかることが予想されるため、しばらくは関の使用を停止している。リンゴの出荷に影響が出ないよう、王室は急ぎジャッシュと情報共有し、対応を進めている。

 幸いにも、ジャッシュ側に残されたコルテの商人などはいなかったということで、誰もがこの内容を信じているようだった。商売に影響が出ない限りは、大きな騒動を起こすこともなさそうだ。

 ジャッシュ側ではすわ戦争かという空気だったが故に、この状況に灰次は少々拍子抜けした。もちろん、それよりも安堵のほうが勝っている。与えられた猶予の中で真実を探りシーザに届ければ、コルテの王と話し合いで決着をつけることができるであろう。

「どうする?」

「流通所に向かうしかないだろ」

 オディオ・チ・ナイトはスパイの噂を聞いたと話していた。しかし街ではそんな話は聞こえてこない。ならば、その噂がどこから出たものなのか、確認する必要があるだろう。

 あるいは、なんらかの事情でナイトが嘘をついている可能性もある。

「あの男から嘘のにおいはしたか?」

「しないよ。でも、もっときもちわるい感じがした」

「弱いって言ってたな、お前。誰かに言わされている、とかそういうのは?」

「そういう感じじゃなかった。でも、いやな感じはした」

 灰次はカラーを抱き上げていた降ろすと、流通所に向かって歩き始めた。

 街は変わらぬ賑やかさと穏やかさで、マラドの雰囲気とはまるで違う。このまま何事もなく済ませられればいい、と灰次は先を急ぐ。

「灰次!」

 しかし歩き始めてすぐ、カラーは突然立ち止まり、声を上げた。

 ぐん、と後ろからコートの裾を引っ張られて、灰次はバランスを崩す。文句のひとつでも言ってやろうと後ろに立つカラーを見れば、彼の赤い瞳はどこか一点をじっと見つめていた。

「……なんだよ、いるじゃねーか」

 視線の先、路地の入口に、見知った少年が立っている。ロイだ。

 灰次と目が合っても、彼は今度は逃げようとはしなかった。

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