八.エルファ

 バイクを受け取るため十九郎の店に向かうと、表の入口は閉まっていた。先程立ち寄った時には開いていたはずなのだが、今はしんと静まり返っている。そういえば、十九郎は何か言いたそうにしていた。そのことと何か関係があるのだろうか。

 考えても仕方ない、と裏口へまわると、店内からひそひそと話す声が微かに聞こえてきた。

「ジャンク?」

 裏口には鍵がかかっていて、灰次は訝しげに店主の名を呼ぶ。この店はいつだってオープンで、店が閉まっていることは珍しい。増して、裏口までしっかり施錠されていることなどこれまでなかった。

「誰だ」

「俺だ。灰次だ」

 ドア越しに十九郎の声が聞こえて、灰次は少しほっとする。彼自身の身に何かあったわけではなさそうだ。

 ガチャン、と音がして鍵が開く。そっとドアを開けて周りの様子を窺ってから、十九郎は灰次とカラーに入れ、と指示した。

 言われるままに中に入ると、そこにはリャンがいた。

「あんた、どうして」

「無事だったか。良かった。とんでもないことになっちまったみたいで、すまん」

「いや、気にするな。問題ない」

 灰次はリャンに、ロイのことを話した。ロイの噂は既に耳にしていたようで、ロイがコガドで姿を消したことを伝えると。そうか、と呟いて俯いた。

 リャンはエスリーが保管されていたイエモト設計図を見つけた晩、騒ぎを聞きつけてすぐにリンスキーの元を訪れた。頭に血が上ったエスリーとその工房の職人たちが勢いのままマラドへ向かうのを見て、このままではまずいと桐生院工房の仲間を集めたのである。

「俺と何人かはエスリーを止めるために追ってきた。残りは工房にいる」

 残してきた連中がロイの噂の件で面倒に巻き込まれてなきゃいいが、とリャンはため息をつく。

「まあ、灰次が来たんだ。なんとかなるだろ」

 十九郎がリャンの肩を叩く。

「お前らだけでもここで匿えたんだ。よかったよ」

 直談判の話や良くない噂が急速に広まっている城下で、ハリロクの職人があまり人目につくのはよくないと、十九郎も判断したのだろう。急いで彼らを匿い、店を閉めた。この判断は、恐らく正しい。

「エスリーは城に留まっていると聞いたんだが」

 灰次の問いに、リャンは複雑な表情をした。

「ああ、城というか、まぁ、教会にいるよ。訴えに参加したエスリーの工房の奴らも、リンスキーもな」

「騎士団監視下でしばらくは過ごすそうだ。護衛半分、監視半分ってとこだろうよ」

 十九郎が補足する。なんにせよ、職人たちはすぐに暴動や戦争を起こすことはないということだ。その点は自分とバージの予想どおりで、少しだけほっとした。

「なぁ、エール・ファーって言葉を知ってるか?」

「久しぶりに聞いたな。急にどうした」

 灰次の急な問いかけに、十九郎が驚いたように返す。十九郎だけではなく、その場にいた職人たち全員が、その言葉の意味を知っているようだった。

「職人見習いはみんな、工房や酒場でその話を聞かされるのさ。知らないやつはいない。腕利きの風来坊、ひとりぼっちの風来坊、どこか遠くへ飛んでった、ってな」

 どんな話なのかと聞けば、なぜそんな話を今聞きたがるのかと怪訝そうな顔をしながらも、十九郎は語ってくれた。

 その話は、ハリロクの職人なら誰もが知っている。実話か否かは不明であるが、職人たちの間に語り継がれている物語のひとつだ。

 昔、ハリロクにある男がやって来た。名も無く、屋号も無い。どこにも属さず、誰とも慣れ合わない不思議な男。男の腕は確かで、誰もがその技術を認めざるをえなかった。

 ひとりぼっちの男のもとには、ぽつぽつと仕事が舞い込んだ。腕は確かなのだから、誰も文句を言うことはない。ハリロクの職人たちにもプライドがある。屋号無しだからというだけで街から追い出すことはできない。なにより、男は腕利きだ。特に慣れ合うことも除け者にすることもなく、男の存在を黙認していた。

 けれどいつしか、男は仕事を受けるのをやめてしまった。何も作らず、何も売らず、何もしない。そんなことが続いたある日、男はふらりと姿を消した。どこへともなく消えてしまったのである。

「ひとりだったからこそ、自分と向き合い磨き続けた技術があった。ひとりだったからこそ、誰かと切磋琢磨してさらに高みを目指すことができなかった。だから男は姿を消した」

 そういう話だよ、と十九郎は懐かしそうに笑った。

「腕利きの風来坊、ひとりぼっちの風来坊、どこか遠くファー飛んでったエール。エール・ファーになれ。誰かと比べて技術を競うもんじゃない、自分自身と向き合え。エール・ファーになるな。ひとりではなく、誰かと共に、切磋琢磨しろ。そういう教えなんだ」

 だから語り継がれているのだ、とリャンが言う。自分自身を磨き続けることと同時に、誰かと共に進むことも大切だと知っているからこそ、職人の技術は日々進歩していく。そしてまた、志を同じくする者たちと共に、新たな工房が生まれていく。

「ハリロクの職人なら誰でも知ってるんだな、その話」

「ああ。新参者には必ずこの話をする。誰からともなく」

「ロイにも話したのか?」

「ロイ? ああ、もちろん。あいつがうちへ来てからしばらくは、毎日のように誰かしらが酒を飲みながら絡んでたもんだ」

 ロイもこの話を知っている。知っていて、彼はエール・ファーと思わしき名を名乗っている。桐生院工房の職人であるにも関わらず。

 彼はいつか、桐生院を出ていくのだろうか。桐生院世界きりゅういんモンドの一番の弟子だと評価されながらも、彼の心はそこにはないというのか。

「流れ者、風来坊、ね」

「こんな話が何かの役に立つのか?」

「たぶんね。聞かせてくれてありがとな」

 疑問符を浮かべる十九郎に礼を述べ、灰次は隣に立つカラーのほうを見た。

 早く行こうとその目が急かしている。行くったってどこへ、と小さくため息を吐いて、灰次はリャンに向き直った。

「取り急ぎ、おたくの師匠にお会いしたい。今はハリロクにいるのか?」

「ああ、今は外に出ていて」

 またか、と灰次が思った瞬間、リャンの言葉を遮るようにドアのほうから声が聞こえた。

「ジャンクさん! 俺です、ユガです!」

 裏口のドアを強く叩く音が響き、部屋の中に緊張が走る。

「どうした」

 十九郎が扉を開けると、店でよく見かける赤髪の少年が飛び込んできた。ユガ・シューラという彼は十八歳で、十九郎の一番弟子を自称する、明るく温厚な青年である。だが、普段の穏やかさとはかけ離れた様子に、十九郎も戸惑った表情を見せた。

「今、ガレージのほうに、鳥が、来て」

 差し出した水にも口をつけず、肩で息をしながらユガは言葉を続ける。

「桐生院先生が、コルテに、行ったと」

 息を切らせながら途切れ途切れに発した言葉に、その場にいた全員が絶句した。

 桐生院先生というのは、桐生院世界きりゅういんモンドのことであろう。

「事実なのか、ユガ」

「これが、桐生院工房からの鳥です」

 ユガはようやく水を口にし、震える手で書簡を差し出した。

「そんな、嘘だろ……」

 それを読みながら、リャンの顔がみるみる青ざめていく。書簡によれば、コルテへ行くという旨のメモが、手紙鳥で桐生院工房に届いたのだという。そこには世界モンドの署名もあり、それを見つけた留守役の職人たちがこちらへ早鳥を寄越した。タイミング的にはリャンたちがエスリーらを追ってハリロクを出た直後だったようで、彼等は十九郎の店宛に鳥を飛ばしたらしい。それを、つい先程ユガが受け取ったのだろう。

 世界モンドから届いた鳥にはナーシャのタグがついていたとも書かれている。仕事で国境付近へ行っていたらしいが、どうやらそのままコルテへと向かったらしい。手紙鳥の速さと時差を考えれば、恐らく世界は既にコルテに入国しているだろう。追おうにも、今は出国制限がかけられている。

「なんで、こんなタイミングで」

 リャンの声が震える。

 鳥の速度から考えても、恐らく出国制限のかかる前に彼はコルテに入っている。もしかしたら、灰次たちと同じ頃にあちらにいた可能性もある。

 偶然であろうと思いながらも、このような事態になるのをわかっていたのではないかと勘繰りたくなるタイミングだ。

 もし、今回のスパイの件に彼が関与しているとしたら。技術スパイはロイではなく彼の師匠である桐生院世界きりゅういんモンドだったのか。それとも、スパイの素性を知っていて、自ら報復に向かったのか。

 憶測の域を出ないが、いずれにせよ現在この国の技術の最先端を担う男が、技術スパイの疑いで出国禁止となっている隣国に今現在滞在しているということだ。何も起きないとは言い切れない。


 〈桐生院世界きりゅういんモンドは自国の技術をコルテへ持ち出し、その秘密を知る少年を殺した〉


 灰次はポケットに入れたメモを握りしめた。バージの寄越した情報は、やはり、色味が違った、ということだろう。

 ロイの容疑が晴れたわけではない。それに加えて桐生院世界きりゅういんモンドまでもが怪しい。寧ろこのふたりが共謀してスパイ行為なりをおこなっていた可能性すらある。それでも、灰次はまだ信じたくなかった。それは個人的な感情もだが、隣に立つカラーの瞳が、これはまだ嘘だ、と告げているからであった。

「嘘が、いっぱいある。でも、もっと、ちがう嘘がある。そこに本当がある」

 カラーが静かに呟く。

「カラーには、わからない。どうして嘘つくのか、わからない。けど、ロイは、悪くないよ。ロイは、さみしいだけ。悪者じゃない」

「カラー、お前」

 リャンが泣きそうな表情で、カラーを抱きしめた。それなりの力が込められていたが、カラーは苦しいとも痛いとも言わなかった。暗い、赤い瞳がじっと灰次を見つめている。

「行くぞ」

 その瞳に返せる答えは、それしかなかった。カラーは頷いて、リャンの背中をそっとなでる。リャンは体を離すと、未だ泣きそうな顔のまま、カラーを正面から見据えた。

「リャン、だいじょうぶ。かなしまないで。灰次とカラーがたすけるよ」

 カラーの赤い瞳が、今度はまっすぐにリャンを見つめる。

「ロイも、ししょうも、たすけるよ」

 吸い込まれそうな深い赤色が、リャンの心を不思議と落ち着かせる。

「こいつがそう言うんだ。まあ、助けるしかないわな」

 根拠はないが確信はあった。桐生院世界きりゅういんモンドも、ロイ・エルファも、この事件の首謀者ではない。恐らく、黒幕は他にいる。カラーの瞳がはっきりとそれを告げている。

「じゃあ、またな」

 灰次は裏口の扉を静かに開けると、カラーと共に外へ出る。暮れにはまだ早い。急げば間に合うはずだ。

「バイクはどうする?」

 後ろから十九郎が声をかける。

「身軽なほうがいい。もう少し預かってくれ」

「ああ、わかった」

 その返事を受けて、灰次は後ろ手に扉を閉める。

「クルスの加護を」

 扉が閉まる瞬間、誰かの言葉が聞こえた。



 灰次は桐生院世界きりゅういんモンドのことをほとんど知らない。

 腕のいい老齢の職人であり、キャボンのような新素材を産み出すような頭脳と技術の持ち主。そして、多くの弟子や職人たちに慕われているらしいということ。桐生院門下ではない十九郎のじっちゃんという呼び方も、敬意を込めてのことだろう。

「ロイエより桐生院の調査を頼むべきだったか」

「ししょう、ロイのこと、知ってるかな。……ロイは、だいじょうぶかな」

「どうだろうな。……まぁ、あんまりいろいろ考えんな」

 ぐしゃぐしゃと、少し乱暴に頭をなでてやる。

「ごちゃごちゃ考えてていざってときに使えないんじゃ、困るだろ」

「……うん」

 乱れた髪を両手で整えながら、カラーは頷く。

 あまりこの猫に温もりを与えてはいけない。情を教えてはいけない。彼は契約で結ばれた相棒であり、自分のペットだ。そしてそれは、灰次自身が生き抜くための手段であり、道具なのだ。

 多少の心の成長は微笑ましく思えても、あまりそこに深く浸らせてはいけない。うっかり忘れそうになるけれど、度が過ぎれば自身の破滅を招きかねない。

「お兄さん、危ないよ」

 メインストリートの往来でつい足を止めていた灰次は、後ろから声をかけられてはっと振り向いた。幌のついたジープから、運転手らしき男が顔を出している。

「ああ、すまない……ん?」

 ジープには、ヘビを象った紋様が描かれている。これは、ナーシャ・タウンにある学術施設のエンブレムだ。

「研究院の術師か?」

 ナーシャ・タウンは術師の街で、先代の時代に築かれた国家研究院がある。穏やかな気候と緑に囲まれた長閑な街であるが、その実、ジャッシュきっての学術都市でもあった。

 男の羽織る白いケープマントは術師の装いで、かつエンブレムの入った立派なジープに乗っているとなれば、恐らくその研究院の関係者であろう。

 灰次はそっとカラーを自分の後ろに隠した。意図を察したのか、カラーは灰次の荷物から灰緑色のマントを取り出した。フードをすっぽりと被り、黒い髪と赤い瞳を隠す。前をぴたりと締めると、首元のチョーカーが見えなくなった。

「荷はなんだ?」

「え? ああ、全て、術書と薬だが……」

 他に術師は乗っていないらしい。しめた、と灰次は言葉を続ける。

「ナーシャに戻るのか? どのくらいで着く?」

 矢継ぎ早に質問してくる灰次に怪訝そうな顔をして見せるが、その勢いに気圧されたのか、気弱そうな男はその全てに答えた。

「ああ、戻るよ。そうだな、まぁ、暮れの鳥までには」

 前回コルテに向かったときに乗った輸送ジープと同等か、それよりも速そうだ。

「アルツトは、今、ナーシャにいるか?」

「メイディ師長? ああ、もちろん。お兄さん、師長のお知り合いかい」

 ナーシャ・タウンにいる知己の名を出せば、男は怪訝そうな顔を崩して、そう答えた。計算通りの反応だ。素直な男のようで助かった。

「ああ。古い知り合いなんだ。それで、ちょっとお願いしたいことがあるんだが」

「なんだい」

「うちの弟が病弱でね。アルツトにも定期的に診てもらっているんだが、急に具合が悪くなって。王都じゃどうにもならないようなんだが、馬もジープも手配できなくて困っていたところだったんだ」

 ナーシャの術師の中には、昔から治癒術や医術に長ける者も多い。近年は、研究院での医術に対する研究も随分と進んでいると聞く。王都にも当然医者や術師はいるが、ナーシャはその中心であり最先端だ。重い病を患った際には救いを求め訪れる者も少なくはない。

「なるほど。乗せてやりたい、が……」

 身元不明の男を貴重な術書や薬と同乗させるのは、さすがに快諾できないのだろう。ましてや灰次の身なりは貴族や商人といった類のそれではない。どちらかといえば、ゼロストリートの外れにでも住んでいそうな、不逞の輩といった風体だ。

 その判断は正しい。灰次は彼の危機管理能力を頭の片隅で褒め称えた。

「身分証明は、これでいいかい」

 灰次は姿勢を正し、胸元から王国印のプレートを取り出す。これは国が身柄を保証・管理している証だ。あまりこういう使い方はしたくないのだが、仕方ない。この程度であれば、問題はないだろう。

「王室関係者の方でいらっしゃいましたか……! 失礼しました。よろしければ、こちらのお席へ」

 男は慌てて運転席から降りると頭を下げ、助手席に乗るよう促す。名前や所属の確認をされたら気は進まずとも詐称するしかないと考えていたが、そこまでの必要はなかったようだ。

「いや、荷台でじゅうぶんだ。すまない。恩に着るよ」

 灰次はマントにすっぽり包まれたカラーを抱えると、幌を被ったジープの荷台へと滑り込む。それを見て若干戸惑ったようであったが、わかりました、と男は答え、すぐに運転席へ戻った。

「では、急ぎますよ! 少し揺れますので、弟君のお加減が悪くなるようでしたら言ってください」

「ああ、ありがとう。頼む」

 灰次は荷台のいちばん後部寄りの位置にカラーを座らせる。

「あまり動くなよ」

「うん。いいひとだね。カラー、ちかづかないよ」

 ジープはメインストリートを抜け、マラドをあとにした。

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