36.むしろお側にいたいので……囲い込んで、ください?
ブラフとはいえ神霊級魔法に手を出した侯爵閣下はすっかり消耗し、髪の色は真っ白になって一気に老けた見た目になってしまった。
隣国の皇子殿下に手を上げたとは言え、王国の侯爵だ。面倒なことになるかと思いきや、あの後すぐ駆けつけた王国兵に拘束された。
わたくしは恐れ多くも殿下の滞在なされる館に運ばれ、手当を受けて身なりを整えた。すっかりぼろぼろになってしまった一張羅から、シンプルなデザインのドレスに着替えると、殿下がやってくる。彼もお出かけの時のパリッとした姿から、私服に着替えていた。見慣れぬ姿に一瞬ドキッとしたが、すぐにそんな場合ではないと意識を改める。
客間のソファに腰掛けて、殿下はわたくしに話をしてくださった。
どうやらデュジャルダン侯爵は、違法呪術――相手の心を操るような魔法の研究に手を出していた疑いがあったが、王国の有力貴族ということでなかなか捜査が進められなかったらしい。
だから殿下がここ最近姿を消したのは、彼の悪事の証拠を集めるべく動いていたということになる。王国の人間だけではどうしても躊躇する相手ゆえ、彼自身が参加する必要があったのだとか。
努力の甲斐もあり、いよいよ裏が取れて、さてあとはいかにして元凶を取り押さえよう……と様子を見るつもりだったが、今日わたくしが屋敷に向かったと聞いて、急遽自分だけすっ飛んできたのだそうだ。
「……ごめんね。デュジャルダン侯爵が危険な男だと目星はついていたのだけど、彼は手駒も多いし、きみに知らせたらかえって刺激してしまうかと懸念したんだ。それに、きみはどうやら彼を信頼していたみたいだったし……それはそうだ、十年来の付き合いで、しかも侯爵夫人に指名してきた相手だったんだから」
皇子殿下は申し訳なさそうな顔でそう説明してくださった。
……すぐに心当たりが浮かぶ。きっとあの魔道具店でのことだろう。
殿下はわたくしに眼鏡を贈ってきた相手の悪意について示唆し、けれどわたくしが深入りされたくなくてはぐらかせば、それ以上の追究を避けた。
「なのに、ただの疑いだけで知り合いの悪口を吹き込むようなことは……嫌だなと思ってしまったんだ。僕は公正であるべきだから、この目で確かめてもいないことをみだりに口にしてはいけないと考えた。でも、やっぱり注意ぐらいはするべきだった。おかげできみを危ない目に遭わせてしまった」
あのときのわたくしが、臆さず一瞬でも疑いを抱いたことを言っていれば、彼もわたくしに忠告ができただろう。
そうでなくとも、わたくしがもっと慎重に振る舞っていたのなら。殿下のいない間にこそこそと清算してしまおうなんて浅知恵を巡らせていなければ……。
「殿下がわたくしに謝罪なされるようなことは、何も。今日のことは、すべてわたくしの失態です。わたくしが殿下に後ろめたいことがあって、隠し事をしようとしたせいで、あなたまで巻き込んでしまった」
――さあ、いよいよ恐れていたその時がやってきた。けれどここまで大事になってしまったのに、話さないわけにもいくまい。
皇子殿下はぎゅっとわたくしが噛みしめた唇を見てか、困ったように眉を下げる。
「シャンナ、言いたくないことなら……」
「言わせてください。……わたくし、眼鏡の話が出たとき、もしかしたらと思うことがありました。それなのに、あなたに話すこともしなければ、侯爵家にのこのこ赴くという、危機感のない行動まで取ってしまいました」
そしてわたくしは、自分の罪を懺悔する。
「殿下、ずっと偽りの名であなたを欺き続けてきたことを告白いたします。わたくしの本当の名前は、シャリーアンナ=
あなたに知られたくなかった。それで、あなたのいない間にこれ幸いとばかりに片をつけようと焦った。
鏡を見る度見つめ返してくる二つの翡翠。
ずっと忌まわしいと言われ続けてきた。その目で見るなと嫌がられた。
だけどあなたは、あなただけは、この目を好ましいと言ってくれた。いつまでも見ていていいと笑って、実際にどれほど視線を向けても、一度もうっとうしがることがなかった。
――嬉しかった。
たとえ錯覚でも、その意がなかろうと、自分なら悪女の娘であっても気にしないと、言われたようで。
そう、わたくしは悪女の娘と暴かれる瞬間を恐れながらも、気にしない、関係ない、と声をかけてくれる存在に憧れていた。
だが、それも終わりだ。
皇子殿下はわたくしには手の届かない所にいる人。
嘘つきで卑怯なわたくしが、これ以上側になんて、望んではいけない相手だったのだ。
ぎゅっと目を閉じ、断罪の時を待つ。
――長い、長い、永遠に続くかに感じられる沈黙。
「……シャンナ? もしかして今、自分は悪女の娘と告白したから、罪人扱いされるとか思ってるの?」
「…………。えっ? あの、はい」
んんん? 流れが変だぞ? 怪訝に思って思わず目を開けてしまった。
皇子殿下は相変わらず困ったような表情で、首を傾げている。
「きみがマノン=ザンカーの実の娘であることで、どうして僕がきみを責めなければいけないんだい?」
「――――」
――今度こそ、絶句した。
これは夢ではないのか。なんだこの言葉は。都合が良すぎる。頬をつねる。しっかり痛い。なんで。
「それに、その……ごめんね。僕、これでも一応皇室の末席に連なるものだから、関わろうと思った相手の素性って、大体すぐにわかっちゃうんだ。本人が打ち明けなければ、知らない風にしているけど」
あっはいそうですよねそうでしょうね、皇国の諜報部は優秀って聞いているし。
なんだろう理解はできるけど処理が追いつかない的なこの、つまりわたくしは混乱している。
え、ええ? だってこう言っちゃなんですが、必殺が約束されている超特大地雷ですよ? 出したら絶対修羅場な隠しだねなのに(実際デュジャルダン侯爵家ではがっつり修羅場になったのに)、元々知ってたけど気にしていませんでしたって……えええええ、そんな、そんなことってあるの!?
「……ええと。なんかもっと、驚いた方が良かったのかな? わあそうだったんだシャンナ、まさかあのマノン=ザンカーの娘だなんて――」
「いえ、お構いなく。ありのままの殿下が一番です」
おまけに謎の方向に気を遣われてしまった。
こ、この……人生賭けた決死の自白が、約束されし避けられぬ断罪ネタが、「うん、知ってたけど、どうしたの?」で返されるって! 全身から力が抜けていく。
――でも、ああ、そうか。本当に、その程度のことだったのかもしれない。
マノン=ザンカーは王国では誰もが知っている悪女だ。だけど隣国では所詮、「隣の国を騒がせた女」程度の存在なのかもしれない。
もし仮に世間ではあり得ない奴扱いなんだとしても……皇子殿下は公正で、証拠がなければデュジャルダン侯爵を悪とする噂すら話すのを厭うような方だ。
なんだ。そうだ。結局人に偏見を持って心を閉ざしていたのは、わたくし自身だったんじゃないか。
こういうとき、どういう顔をすればいいのかも何を言えばいいのかもわからない。じわじわと羞恥心がこみ上げてきた。穴があったら入りたい。
「シャ、シャンナ? ええと、とにかく……デュジャルダン侯爵はこれから裁かれるだろうし、きみも調査はされると思うけど……」
「はい」
「でも、きみは彼に勝手に執着されていただけだから、心配することはないだろうし……」
「はい」
「…………。だ、大丈夫……?」
「わたくしはいつでも元気です」
「そっかあ……」
なんか本当、すみません。何から何まで、すみません。「皇子殿下がいなくても一人でできるもん!」とか言っておきながら、ご配慮の塊で窒息しそう。
「いただいたご恩は忘れません。一生かけてお返ししますので」
本心から言ったのだが、皇子殿下が珍しく真顔になった。彼はわたくしの手をそっと取る。
――デュジャルダン侯爵に触れられたときは嫌悪でぞわっとしたけれど、殿下に触れられるとどきっと心臓が跳ねて体が熱くなる。
「シャンナ。きみはいつも、僕から貰ってばかりだと思っているみたいだけど。僕はこの国に来て、きみと会って、皇室で優等生を演じるだけだった時より、自由に好きに振る舞えて……本当に楽しいんだ。それに、命の恩人とか思っているなら、貸し借りはゼロだよ」
わたくしが目を上げる。翡翠の視線を向ければ、蕩けるような笑みを、いつも通りに彼はふわりと浮かべた。
「だってほら。デュジャルダン侯爵の詠唱の種類を言い当てて、助けてくれたでしょう? 僕、空の方に意識が行っていたから、シャンナが直前に教えてくれなければ、きっと今頃は侯爵の操り人形になってしまっていたよ。……ね? きみはきみが思っているよりずっとすごい人なんだよ」
「――いいえ」
わたくしの口からするりと言葉が漏れる。
今度は殿下が目を見張り、わたくしが笑う方だった。
「貸し借りゼロではありません。わたくし、また殿下に助けていただきました。ですから、その……この不肖の身がお側に侍ることを許していただけるのであれば。この先も階段の分のご恩返しをさせてくださいませ」
殿下が嬉しそうに目を細めると、わたくしも心が幸せでいっぱいになる。
――もうなんか、建前とか、しがらみとか、全部アホらしい。
最初は身分違いの相手に迫られて、不釣り合いだと逃げ出したかった。
途中は一緒にいることが心地よいことに気がついたけど、わたくしの秘密を知られればと思っていた。
今はもう、何も憂えることはない。
この人の側にいたい。胸を張って。いや――他の誰からそぐわないと言われようと、お側に侍りたい。
「それでその……ええと。今後のこと、なんだけど。これはその本当、きみが良かったら、なんだけど……シャンナ、今回のことが色々と一段落したらさ。
やりたいこと、なりたいことなんてなかった。浮き草みたいに流されて、適当に生きていればそれでよかった。
でも、わたくしは日陰にいながら、光にずっと憧れていた。「わたくしなんか」って手抜きをしながら、「わたくしだから」と言える日が来ないかなと夢を見ていた。
皇子殿下は高嶺の方。何から何まで違う人。
だけど自分の気持ちに――憧れに正直に、この人を追いかけてみよう。
チャンスをもらえたのなら、すがりついてみよう。できると言われるなら、その言葉を信じて空だって飛んで見せよう。
「はい、喜んで……ハインツさま」
手を取った瞬間、思いのほか結構強く握り返されて、「よし言質取ったぞ、もう逃がさないからね」って笑顔の中に何か垣間見えた気もしましたが。
それも悪くない……むしろ、いい。
わたくしは応じるように手を握り返し、翡翠色の目をまっすぐ殿下に向けて、にっこり笑った。
理不尽に抗議して逆ギレ婚約破棄されたら、高嶺の皇子様に超絶執着されています!? 鳴田るな @runandesu
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