31.階段事件以来の大ピンチのようです

 あのとき、殿下があの場にいなかったなら、わたくしはそのまま死んでいただろう。殺されても仕方ないと、どこかで諦めていた所があったような気もする。特にミーニャ=ベルメールが相手となれば。


 今思えば、当初執拗にわたくしを攻撃してくる女学生に、やり返してやろうという気持ちに全くなれなかったのも、母のことがあったからだろう。


 ふわふわした桃色の髪――巷にも広く流布されている、悪女の最も有名な身体的特徴だ。

 王国にはもう、「ピンク色の髪の女は淫乱でだらしなく頭が空っぽ」という強いステレオタイプができてしまっている。


 だからこそ、黒髪に生まれられたわたくしは、運良く悪女と結びつけられる機会が少なくて済んだ。悪女のもう一つの特徴、「蠱惑的な緑色の目」は、ピンクの髪ほどは有名でなかったから。


 一方で、髪の色合いがピンクに見えるというだけで、不当な扱いを受けるようになった無辜の女性も大勢いる。


 ミーニャ=ベルメールもピンク髪の少女で、しかも平民なのだ。髪を染めることだってできただろうが、彼女は自分の色を存分に使って生き抜くことを選んだ。あるいは、そうせざるを得なかった。


 男の人に媚びを売り、関係者を困らせる――あの態度は好きにはなれなかったが、「お前はそういう女だ。なぜならマノン=ザンカーがそうだったのだから」と言われ続けてああなってしまったのだとしたら……。


 だからわたくしはミーニャに断罪されていた時、マノンのせいで人生を狂わされた大勢の人から責められているような気持ちになっていたのだろう。


 いや、わたくし自身だって、ミーニャを見下してはいなかったか? あの子はピンク色の髪の女の子なのだから、人の婚約者にわざわざちょっかいをかけてくる仕方のない子なのだ、などと。


 ――それでも、だけど。

 だから全ての責任を取って死ね、と言われたなら、納得はできなかった。それほど悪いことを自分はしたのだろうか。そうは思えなかった。


 なぜ、父親もわからない娘を産み捨てただけの母親の影に、いつまでも俯かなければならないのか。

 わたくしのせいじゃない、と言い返してしまいたかった。

 そのくせいざ対峙すれば、「その目つきが気に入らない」という言葉にすら何も反論できなかった。


 緑色の目は、マノンとわたくしを結ぶ唯一の共通点。この目が好きになんて、なれるはずがない。


 ただいつもいつまでも、下を向くばかり。どっちつかずのまま、流されて、ゆらり、ぶらりと――。


『――わっ!?』

『驚いたなあ。王立学園って、空から女の子が降ってくる所なの?』


 ――漂うばかりの人生が、しっかりした腕に受け止められた。

 あんなにもあっさりと距離を詰めてくる人は、はじめてだった。


 攻撃されて壁を作ることにも、壁を作られて無視されることにも慣れていた。

 だけど、作った壁をことごとく破壊しつつ親しげに近づいてくる人なんて、どうすればいいのかわからなくて。


『ぼくはきみと……そうだな、友達になりたいんだと思う』


 わたくしには何一つ、他人より優れている所なんてない。

 唯一決定的に一般人と違う点があるとすれば、王国一の悪女マノンの娘である――その一点のみ。

 糾弾されることはあっても、賞賛されることはけしてない。


 そんな後ろ向きな考えを、全部殿下のキラキラに吹き飛ばされた。

 いや、光に照らされてはじめて、そこまで自分がうじうじしていたことを自覚できた、というべきだろうか。


 わたくしはこういう人間で……そしてそこから、変わりたい。

 わたくし自身のためもある。だけど何より、殿下のため――見込んでくださった方のお役に、少しでも立ちたい。立てる人間になりたい。



 その覚悟をしてきたはずだった。そのための一歩だったはずだった。

 けれど母のことは、わたくしの想像以上に、わたくしにとって重荷だったらしい。名前を出されただけで、頭が真っ白になってしまうほど。


「本当に、ずっと……待っていた。きみが私の所に帰ってくる日を」


 猫を撫でるような甘い声に、ぞぞぞっと寒気が走って、ようやく自失状態から立ち直る。


 侯爵閣下はいつの間にかわたくしと距離を詰め、顎の辺りに指を添えていた。急所である喉の近くに気を許していない人の手があると、気持ち悪さでざわざわする。


 だけどソファに座った状態で目の前に立たれては逃げ場がないし、手を振り払いたい衝動もぐっとこらえた。笑みを浮かべるのは無理だけど、なんとか声を絞り出す。


「わたくしの名前はシャリーアンナです、閣下。どなたかと勘違いなさっているのではないでしょうか」

「しらを切ろうというのかな? それとも今日まで、ラグランジュ男爵夫妻が義両親だということを知らなかったの? マノン=ザンカーこそ、きみの本当の母親なんだよ、シャリーアンナ」


 どこか歌うような抑揚をつけ、妙に若く見える侯爵は言う。


 わたくしはきゅっとスカートを握りしめた。


 これはおそらく、かまかけではない。証拠も確信もあるのだろう。


「十年前になるかな。ラグランジュ夫妻に連れられてパーティーに来たきみを見て、一目でわかったよ。世間はきみの髪のことばかり言うけれど、きみが誰とも異なっていたのは、その異様で邪悪な目だった。ああ、すぐにわかったとも。全く変わらない、忌まわしいこの瞳……」


 侯爵の指が頬を上って目の下まで来そうになり、わたくしはとっさに全力でのけぞってしまう。


 まあ、最初からおかしい話ではあったのだ。

 デュジャルダン侯爵家は力のある貴族だ。だから本人が気に入った相手を身分問わず迎えるというストーリーであれば、まだ話はわかりやすい。


 けれどレオナールとわたくしの婚約は、このご当主様が決めた。わざわざ縁を持っても何のメリットもない、かといって昔恩を売ったわけでもない男爵家の令嬢を指名した。


 その理由が母で、母に未練のある侯爵が娘のわたくしを家に迎えたがっていた、というのは、腑に落ちる答えではある。


 瞳のことも、どこまで詳しく知っていたのかはわからない。だがあの眼鏡は偶然のプレゼントなんかではなく、閣下によってわたくし用に作られたものだったということになるのだろう。


「ああ、マノン。もしかして、息子の嫁という立場は不服かな? しかしわかっておくれ。私の後妻となると、いささか目立ちすぎるだろう。でもただの愛妾にするつもりはない。やはり夫という体裁は最低限必要だし、そうすると私では少し都合が悪い。それだけの話なんだ」


 彼がマノンにどうやら執着しているらしいことはわかってきた。だけどわたくしをどうしたいのかが、いまいち見えてこない。


「閣下、語弊を恐れず申し上げますけれど。あなはわたくしに、母の代わりに自分の愛人になれと今おっしゃっているのですか――」


 パン、と乾いた音が響いた。

 わたくしは驚いてきょとんと目を見張る。顔から眼鏡が飛んでいき、柔らかな絨毯の上に落ちていったようだ。

 頬がじんわりと熱を持ち、口の中に鉄の味が広がり始めてようやく、今横面を結構な強さでひっぱたかれたのだと理解した。


「そのような下品な言葉使いはやめなさい、マノン。きみは生まれ変わって、今度こそ清貧な女性になったのだろう? 私の誠意が伝わらないはずがない」


(……何が貴族の見本よ。この人全然、まともでも正気でもないじゃない――!)


 かろうじて、侯爵閣下がわたくしに母を重ねていること、母はなし得なかった彼の期待に応えることを望んでいるということぐらいはわかった。


 でもこんな……こんな、不正解選択肢を踏んだらいきなり殴ってくる人だなんて、全然そんな前情報なかったじゃない!


 いやまあ、レオナールの実の父親なのだから、あの息子にしてこの父親ありと言えばそうかもしれないが……。


(現実逃避している場合じゃない。しっかりするのよ、シャリーアンナ!)


 でもどうすれば。元々機転が利くような自分じゃない。殴られた時、頭が揺れたし、今もぐわんぐわん耳鳴りがしている。


 ああでも、駄目。呆然自失だけは駄目。考えろ。まずはなんとかして逃げないといけない。いや、逆上させないように立ち回るべきか。いやどうやってこの狂人の空気を読めと、結構空気読みに自信ありましたけどこの人の地雷は全然予測できませんよ――。


「ああ、かわいそうに、マノン……怪我をしてしまったね。すぐに治さないと」


 叩かれた拍子に口の中が切れたことが功を奏したのか、侯爵閣下はここに至っては不気味にしか見えない美麗な顔をしかめ、一度身を離す。


 その瞬間を逃さず、わたくしはぱっと走り出した。


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