30.稀代の悪女の物語
マノン――それは王国では、伝説の悪女の名前として知られている。
けして悪人でなかった。策謀を巡らせ、誰かを陥れたわけではない。彼女は常に、愛されて愛していただけだった。
だがおかげで結構な人数の男性と、その関係者の女性を不幸にした事実は否めなかった。
そしてついには、王国一とも呼ばれるスキャンダルを巻き起こし――報いを受けて断罪された。
平民からあやうく王妃まで上り詰めかけたそのドラマティックな生涯は、一代成り上がり記、及び没落記として、庶民には非常に人気の題材であると聞く。
一方で、王国の貴族階級では、マノンの名前はタブー中のタブーだ。何ならマから始まる名前を女児につけることすら、相当忌避されていたぐらいである。
マノンはふわふわした桃色の髪に、魅惑的なまなざしだった。きらきらして吸い込まれそうな、非常に印象的な緑色の目を持っていたのである。
元々は、田舎の村娘に過ぎなかった。だが幼女の頃から遺憾なく愛される才能を発揮した。その結果、十六の年には、男爵令嬢として社交界に出てくることになった。
洗練された美男美女揃いの宮廷でも、マノンの愛らしさは飛び抜けて目立ったらしい。
その緑色の目に見つめられたが最後、誰もが夢中になって愛をささやかずにいられない――そういう女性だったと聞く。
だが、マノンには欠点として、物事を深く考えない性質があった。おまけに倫理観が欠如していた。
天使のような見目の女は、自分を気持ち良くしてくれる存在であれば、誰でも本気で愛した。
一応かろうじて年齢の下限制限はあったようだが、老若は十代から死にかけの老体まで、男女はどちらでもNGなし、身分? 気にしません。見た目? 多様性っていいわよね。配偶者? 恋にそんなもの必要でしょうか――まあそんな感じで、本当に徹底した来る者拒まず主義だったらしい。
たとえそこに悪気や悪意なかろうと、痴情のもつれメイカーと言えよう。
彼女を巡っての恋のさや当ては次第に過激さを増していき、ついには「結婚するために今の地位・身分を捨てる」と言い出す男まで出てきた。
よろしくないことに、このうちの一人が王子殿下であらせられた。しかも次期王候補として、最も有力視されていたお方だった。
そしてさらにまずいことに、彼は階級国家たる王国の頂点に立つ男のくせに、田舎の元平民女との婚姻に対して、かなり本気だった。王妃として迎えられぬならと、駆け落ち計画まで練るほどに。
関係者はこの洒落にならない大恋愛を知ると、まあ当たり前だが激怒した。
そしてさるやんごとなきお方が、一言おっしゃられた。
「いい加減あの淫乱ピンクに引導を渡す時期では?」
――こうして王国を揺るがせた悪女は、華やかな世界から追放されることになった。非常に評判の悪い貴族との、即時強制結婚という形で。
破廉恥女の人生の墓場に選ばれたザンカー伯爵は、御年アラウンドフィフティーのご老体だったらしい。冷徹で残忍な性格をしており、おまけに病が原因で、化け物じみた容姿をしていた。人間不信の彼は金と権力に任せて何人かの女性と結婚したが、いずれも長続きしなかったそうである。
マノンはそんなお手本のような悪徳貴族に無理矢理嫁がされ、散々なぶられた後、誰にも知られずに衰弱死した。
これが表向き、というか庶民に伝わっている悪女マノンの物語の最期、である。
しかしこれは誰かが面白おかしく広めた噂であり、事実は少々異なる。
何しろこの親子以上に年の離れた夫婦、誰にも予想できなかったことであるが、存外うまくいってしまったのである。
“気持ち良いが正義”がマノンの宗教だったことはもう述べたが、世間的に見ればどう考えても“あり得ない”ザンカー伯爵すら、マノンにとっては“愛せる人”の範囲内に余裕で収まっていたらしい。
偏屈老人は、嫌悪や嘲笑等、負の感情を向けられることには慣れていたし、財産や権力目当てのおべっかにも耐性があった。が、ガチ恋猛アタックには、免疫が皆無であらせられたらしい。
最初こそ新妻いじめに精を出そうとしたが、半年後にはすっかり、メロメロのデロデロになっていた。人里離れた場所に夫婦専用の別荘を建て、最低限の使用人だけに世話をさせるほどに。
そこは老いてもさすがの切れ者系悪徳貴族、悪女を貞淑な妻にさせるには、物理的遮断が最も有効と理解できていたのだろう。他に選択肢がなければ、マノンは実に一途な妻だった。
察するに、庶民の間でマノンは死んだ、という説が広まったのも、ザンカー伯爵が流布していたのでは? と推測される。彼は外界を隔絶することで妻と自分を守り、幸福な理想郷を築いた。
だがここで、年の差夫婦めでたしめでたし――という終わりにもならないのだ。もう少しだけ悪女の物語は続く。
つかの間の平穏から数年後、ご老体はまだ二十を過ぎたばかりの妻を残し、眠るように息を引き取ってしまった。元の不摂生がたたったのか、妻との幸せすぎる生活で精力を出し過ぎたのか。
何にせよ、若すぎる未亡人のみが取り残された。夫の莫大な財産と共に。
だが彼女はこれ幸いとばかりに華やかな社交の場に戻ってくるかと思いきや、夫が与えた僻地の別荘にこもりきりだった。
一つ。マノンは王国貴族階級では、社会的に殺された女である。これはもし万が一マノンが社交界に復帰しようものなら、次は本当に命を狙いに行く、という意味合いでもあった。ザンカー伯爵はその旨しっかりと、妻に言い聞かせてはいたのだろう。
だがもう一つ。これが悪女が大人しかった最たる理由になる。
密かに未亡人を口説きに来てそのまましれっとしけこむ、そんな不届き極まりない夜這い人にきりがなかったのだ。喪中だったにも関わらず。ザンカー伯爵は草葉の陰で泣いていたに違いない。
さて入れ替わり立ち替わり男が通ってくるタイプの引きこもり生活を続けた何ヶ月か後、未亡人はようやく自分の体の異変に気がついた。ご懐妊である。
誰の子か? 父親自身はもちろん、マノンだってわからなかった。何なら期間的に、ギリギリ亡夫の執念の成果な可能性すらあった。
さらに半年ほど時が経過し、マノンは無事に出産を終えた。
……おわかりいただけるだろうか。
そう、この悪女が産み落とした父親不明の一人娘こそ、わたくし――シャリーアンナなのだ。
わたくしは概念上の父であるザンカー伯爵と同じ黒髪を持ち、そして母からは緑の――翡翠色の目を継いだ。
ただ、それ以外は両親のどちらにも似ていない。
ゆるふわ系稀代の悪女を母に持つ娘――これほど生まれてくる環境に恵まれないことってあるだろうか。割と生まれた時点で人生詰んでる。
ただ不幸中の幸いだったのは、マノンに理想的な母親でない自覚があり、かつ彼女が苦手分野を外注するという選択肢を知っていたことだろうか。
わたくしはすぐ養子に出され、シャリーアンナ=リュシー=ラグランジュという名を与えられた。
そして物心ついた頃、たまーに会う一見綺麗で優しいお姉さんこそ、自分の真の母親であると悟ったのである。
「ほーんと、全部似なきゃ良かったのに。見た目も、中身も本当によくぞこれだけってぐらいいいのにさ、これだけはあたしから持って行っちゃったのよねー」
そうわたくしの目元を指さしてころころ笑った、悪女のうっかり発言によって。
そして思考停止したわたくしを、天真爛漫な稀代の悪女は愛おしそうに抱きしめて面会室を出て行き――それが彼女を見た最後になった。
数日後、別荘近くの川に落ちたらしい。
死体は今も見つかっていない。本当に死んだのかも定かではない。
――だから、翡翠色の目はずっと嫌いだったし、見るなと言われる度にそうですよね、と同意しかなかった。
ずっと俯き続けていたのは、誰かがいつか、「これ、マノンと同じ目の色じゃない?」と言い出すのが怖かったから。
母はあっけらかんとした人だった。誰に後ろ指を指されようと、きょとんとして、ころころ笑って――どんな悪意を向けられたとしても、「でも、あたしはあなたのこと、好きよ?」とにっこり微笑んで本心から答えられる才能。だから誰からも愛されたのだろうと、幼心にもわかる人だった。
わたくしは違う。
四方八方から悪女の娘と指さされる人生は、耐えられない。
ラグランジュ家の娘でほっとした。何者でもない自分で良かった。目立たず、騒がず、誰にも注目されず――それで良かった。
それで良かったと、思っていたのに。
あの日、階段から落ちて、人生がひっくり返った。
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