32.命がけの(までは行かずとも確実に何か大切なものがかかっていそうな)追いかけっこ実況中。白目

 まずは転がるようにして、侯爵閣下きけんじんぶつと距離を取る。その際、せっかくの紅茶やケーキを引っかけた感触やら音やらした気がするが、もうそんなことには構っていられない。


 ソファを盾にできたら、急いでバッグの手荷物を漁る――よそ行き用のドレスには制服と違って便利なポケットなんてないもの、良かった没収されずに済んでいて!


「マノン? 急にどうしたんだい。気分でも悪くなってしまったのかな?」


 甘ったるい声にぞぞぞぞぞっと肌が怖気立つ――ええい、ままよ! わたくしは握りしめたものをそのまま侯爵閣下の方に放り投げ、間髪入れずに扉の方へ向かう!


「プレゼントかい? 悪いが趣味に合わないな――」


 でしょうね! 気に入ってもらえるとは全く思ってません、多少の時間稼ぎにでもなれば上々!


 ……しかし背後から聞こえてきたチューチュー音の断末魔からして、今投げたのはミーニャ撃退に使った鼠のおもちゃっぽいですね。


 いや、なんでそんなもの、侯爵家に持ってきたんだよって? な、なんというかこう……お守り……?  だ、だってほら、初めての戦利品というか勲章というか。わたくしだって一人で問題を片付けられるもん! って自分を奮い立たせるための装備品としてちょうど良かったというか……。


 実際役に立ったのだからよしとしましょう。まさかこんな形とは全く想像できませんでしたけども! 鼠将軍の殉職に敬礼。


「どこに行くつもりだい、マノン?」


 勢いよく後ろ手に閉めた扉の向こうでバチって言った、今バチバチバチって言った!

 たぶん魔法だ。そして直撃したら絶対ただでは済まないし痛い奴。膝が笑いそうになりますね。


 わたくしは駆け出しながら素早く左右を見渡し――手近な窓に飛びつく。

 このときほど、「貴族令嬢らしくない」自分を肯定的に実感できたことはない。


 料理や洗濯などは使用人に任せるが、掃除やお使いはわたくしの担当でもある。

 そして学園へは乗合馬車の使用を挟むこともあるが、基本徒歩通学だ。わたくしは日頃から割と歩き回る生活をしていて、肉体労働にもさほど抵抗がない。


 だからこそ、殿下と一日街を歩き回っても、バテることもなくついていけたのだ。

 殿下は気が回る方だから、わたくしが疲れてもすぐに気がついて、休みを取るなり迎えを呼ぶなりしただろうが……。


 つまり何が言いたいかと言うと、殿下は素晴らしい。じゃなくて、こういうホラー展開に遭遇した際に身をすくませるお上品な反応以外の選択肢がとれて、つくづく良かったってこと。


 ここがはめ殺しじゃなく、かつ開け方がすぐにわかる窓なのも幸いした。

 どういうことか? こういうことですよ――わたくしは背後から気配が近づいてくる前に、思いっきり開けた所から外へと飛び出す!


 階段ダイブの時は不意打ち背面落ちだったのでなすすべありませんでしたが、近くに結構背が高くてしっかりした木があるならば――頑張れ風魔法、出力最大! 枝に飛び移る補助!


「あまねく空に満ち渡る精霊よ、我が祈りに応え、我を守護せよ――」


 詠唱した途端、ぶわっと汗が噴き出す。普段は使わない、ちょっとわたくしの身の丈以上のランクの詠唱ですからね――でも手応えは……あっ、しまった魔力消費のせいでうまく力が入らない、枝からずるっと手が離れる!


「わ――わああああっ!?」


 ……目論見ほど華麗に着地とまでは行かず、盛大に枝を揺らしながら落ちていくことになりましたが、結果的に多少のかすり傷程度で地面に到着できたので良しとしましょう。

 何しろ一度落下死未遂の危険に遭ったわたくしですからね。復習はばっちりだったのですよ。もう少し具体的に言うと、受け身の練習を少々……。


 徒労感は全身にあるが、なんとか立ち上がることはできる。この日のために気合いを入れた髪も服ももうボロボロですが、人命にはね。変えられないからね。あの侯爵閣下、割と直接的な身の危険を感じさせるお方なんですもの。


 そしてそんな人と、相手のホームであるところの屋敷の中を追いかけっこしたら、なんというかすぐにバッドエンドが見えそうだ。地の利も取られているし、使用人を召集なんてされたらあっという間に袋の鼠。


 となるととにかくこの場を去ることでまずは安全を確保するという目的達成のためには、スタイリッシュ(には決まりませんでしたが)お邪魔しました戦法という、大胆な賭けでもしてみるほかなく――。


「かくれんぼかい? いいよ。きみがどこにいても見つけてあげる」


 ――あああ、上から歌うような声が聞こえてくる! 状況と立場が違えば、ええ、侯爵閣下は年齢的にはおじさまですが、妙に若々しい美貌の持ち主ですからね。ちょっとぐらいはときめいたかもしれない。今はあのねっとりボイスに一生分の恐怖しか感じないけれども。


 わたくしは震える体に気合いを入れ直し、急いで広い庭を駆ける。……というかなんですかこの生け垣、迷路みたいなんですけど。選択したルートがまずかったか。正面の門から屋敷に来たときには、こんなところ来なかったはず。


 ああでも良かった、屋敷の広さの割に人手のない家で。おかげで誰にも邪魔されず、なんとか外壁っぽいところまで辿り着けました。それにしめしめ、これはおそらくちょっと暗くて狭い感じからして、裏門という奴ではないですか? さすがわたくし、日頃の行いの良すぎる女。神様ってちゃんと見ているんですよね。ちょうどいい、目立たずに屋敷を出て行くことが――。


 …………んっ。

 えっ。

 あれっ!?


 ここに来てすがりついた門がどれだけガチャガチャしても開かない、ですって? そんなお約束はいらなかったなあ! さっきちょっとばかり調子に乗ってしまったのが、お天道様の気分を害してしまっ――。


「マノン。今行くよ。必ずきみを見つけるよ。大丈夫、私は心の広い男だから、きみがどうしようもない淫売で尻軽でも許してあげるよ。だって最後には私の所に戻ってくるって、ちゃんとわかっているんだからね――」


 あああああ、絶望の歌声及び足音! これはまずい!

 あとお母さま、あなたって本当に見境ない人だったんですね、これだけヤバい人を引っかけて爪痕残していくとか何してるんですか、大馬鹿ものー!


 わたくしは急いで取って返し、迷路のようになっている生け垣の中に再び舞い戻る。


 どうしよう。どこに逃げればいい? 裏門だから駄目だった? 表門?


 ――溺れるものはわらをもつかむとは言うけれど。逃げ道を求めて惑うわたくしは、吸い寄せられるように、視界に入った扉に飛びついた。

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