右手に連れる闇

 一度別のところに掲載したものです。


―――――――――


 目覚まし時計を止めようと闇の中で手をばたつかせる。左手が不器用にぶつかって音がやんだ。私の人生に変わったことはない。貸家の一室を出て、中央広場の近くの税理士事務所に通勤する。そこで雇い主の税理士の書類整理や来客の取次、掃除などをするだけだ。

 出がけに肩が凝っている気がして、なんとなく首を回した。回した拍子に、玄関の右手に掛けてあった暦が目に入った。普段細かい日付など家では気にしないから、先生の顧客からの貰い物をそんなところに適当に掛けてあるのだ。そうか、あれからそんなに経ったか、と気づく。


 江西の街が内戦でほとんど封鎖状態にあったとき、私は別の町にいた。心臓を病んで倒れた親戚の老婆の介護に行っていたのだ。老婆は彼より長生きした。

 彼は内戦の始まった時、江西の義勇軍には加わりたがらなかった。「俺には戦うことなんて向いてませんよ」と言ったし、実際そうだったと思う。身のこなしがどことなく不器用で、一日に一度はどこかに身体をぶつけているような人だった。

 背が高く、色が木蓮の花のように白くて、猫背がちの人だった。

 ひどく繊細で、傷つくと困ったように微笑む人だった。

 あんな人を戦わせてはいけないと思った。内戦が始まる前からそう思っていたのだ。かつて、江西のバス事務所に勤めていた私の後輩だった彼を、私は幾度となく職場での小さな諍いから守った、ような気がする。今となっては、思い出は、曖昧に半分だけ闇に沈んだままだ。


 彼は内戦中に命を落としたわけではなかった。ほかの生き残った義勇兵たちと同じように、中央の兵士に残酷に処刑されたわけでもなかった。彼が内戦中に失ったのは右眼だけだった。少なくとも見た目上は。

 内戦が終わり二年経ち、すっかり元気になった老婆を置いて私が戻ってきたとき、彼もまたバス事務所に戻ってきていた。「もう運転はできないんですよ」と笑っていたが、その笑いも右側は引き攣れて、どこか不気味になっていた。黒い眼帯の下がどうなっているのか、私にはわからなかった。

「もともと、運転よりも事務仕事のほうが好きだったでしょう」私は励ますように言った。

「そうですね」

 彼は相変わらず木蓮の花のように白くて、猫背は戦闘で負った傷のせいかやや深くなっていた。ああ、戦わせてはいけないものを戦わせるから。

 私がせっかく、大事に守っていたのに。


 その日から私は彼を誘って、終業後、街のあちこちに出かけた。彼はついてきてくれた。私は彼の左側に立って、彼の手を引いて歩いた。彼と見る世界は、以前と同じように、何倍も繊細さを増して美しかったけれど、私も彼も、心から楽しんでいるのかわからなかった。私は必死だった。壊れてしまったものを自分の愛で直せないかと。壊れてしまったおもちゃを、簡単な糊で直そうとする子供のように。

 その年の暮れ、バス会社がすべての運航を終えて年末年始の休みに入った後、彼は一人で倉庫に入り、一番古い型のバス、会社が処分に困っているまま走らせているような一台に乗り込んだ。真夜中、右側の視界を失ったまま彼はバスを走らせ、人気のない海岸道路でスリップを起こし、右手の深い深い闇の中、冷たい十二月の海の底に突っ込んだ。


 鈍く熱い空気の中を歩きながら、今では慣れ親しんだ私の右手の闇を今日はことさらに感じて歩く。彼のことを思い出す今日の日付は、不思議と年末のあの日付ではなく、終戦のほうの日付だ。あの時私は、江西にさえいなかった。田舎で愚痴ばかり言う老婆と見つめあっていただけなのに。

 それでも彼を失った日付は、きっと今日なのだ。

 海岸の事故からわずか数年のことだった。私の右眼は突如病に侵され、はじめ右側の視界は白くかすんで、やがて完全に闇に沈んだ。どの町の医者でも手の打ちようがなかった。私は私の右手の闇を、海に沈んだ彼からの贈り物のように受け取った。バス会社を辞め、税理士事務所に転職した。私にとってそれは、償いの機会にほかならなかった。

 埃っぽい路面の、右の歩道を歩く。それでも車の音がしないか常に注意を払って歩いていると、なぜだか、スペースのないはずの右から足音が聞こえる。時々聞こえるのだけれど、今日はその日だからね、と私も納得している。

 彼は私の右側を、今でも歩いている。

 少なくとも、私の闇の中では、ずっと。

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江西奇譚 @mrorion

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