芋の埋葬

 週に一度、かさ張る野菜を買いに行くたび、私はあの人が死んだ広場を通った。内戦の時、この江西の街は、ただ自治を守るために戦った。そしてあっけなく敗れ、自衛軍を名乗った若者たちは広場で処刑されたのだ。

 長い間、その広場には名前がなかった。誰もがその広場のことを忘れようとしていたが、広場は街の中心の大通りの終点と港をつないでおり、街を一度更地にしてすべてを建て直すのでない限り、住民がそこを通らないで暮らす方法はなかった。だから私たちは、その広場の名前を忘れることで、処刑の光景を忘れることに代えた。

 買い物かごを沈ませる根菜の重さは、いつもあの人の死体のことを思わせた。ついぞ私が見ることのなかった、肉塊となったあの人の身体。

 あの人は私の夫でも、恋人でもなかった。あの人が死んだと聞いた時、私には泣く権利さえなかった。戦争が終わった時、私は真っ先にあの広場へ行った。まるで家族の誰かが死んだかのように、初めて黙祷した。他にも黙祷する人もいたが、目を逸らして通り過ぎた人もいた。

 黙祷したことで初めて、彼の死を、たとえ一部であっても、私のものにできた気がした。それから私は両親と妹のために、わずかに出始めた青物を求めて市場に行った。思えばあの帰り道に、私の無意識は、根菜と死体を結び付けたのだ。


 中央政府は長いこと、江西の街を野放しにしていた。まるで戦前のような平穏が戻り、あれから二十年が経った。

 妹は嫁いで、三児の母になった。両親は老いて、気難しくなった。数か月前、父は、私が買って帰った芋を庭に埋め、種芋にするのだと言い出した。

「それは食べるためのものだから。種芋にはならないでしょう」私が言うと、父は声を荒げた。「お前が無駄に金を使って芋を買ってくるからだ。育てれば済む話だろう」

 果たして庭仕事などやったことない父に、農作業など無理な話だった。芋はやがて土の中で腐った。

 私には行くあてもなかった。毎日朝から正午まで、江西大学の掃除をして賃金を貰うほかは、両親の世話をして過ごした。埋められて腐った芋と大差なかった。


 広場に名前が付けられるというのは、大学の学生から聞いた。文学部の中央校舎の裏手でよく煙草を吸っている小柄な青年は、私を見ると、投げ捨てたいくつかの吸殻をきまり悪そうに踏みつけて隠した。

「おばさん、元気かい」

「元気ですよ、あんたさんにお変わりはありませんか」

「ああ。そうだ、おばさん、ちょっとした懸賞に興味はないか」

 そうして彼は、広場の名前が公募されているという話をしたのだった。「考えた名前が選ばれたら、小さい銀の賞牌が貰えるんだと。そんなもの貰っても仕方がないが、いずれ熔かして売ったら多少の金にはなるだろうね」

「学生さんともあろうに、そんな考えでどうするんですか。街の人のために立派な名を残すとか、そういう気概はないんですか」

「おばさん、真面目だねえ」青年は笑って煙を吐いた。「俺の名前じゃなくて広場の名前を残したって、どうしようもないだろ。おばさんは試してみればどうだい」

 正午を過ぎて掃除用具を片付けると、私は大学の事務棟に行ってその張り紙を捜した。懸賞の要件を三度口に出して読み、丸ごと頭へ入れた。それから帰る道すがら、ずっと広場の名前を考えていた。


 港広場。賑わい広場。若者広場。広場の光景を思い浮かべても、広場自体が平凡なのだから、平凡な名前しか浮かばない。豚肉の塊を切り分けながらもう少し強く念じると、二十年前の曇り空が浮かんでくる。冷たい潮風の中、黙祷をする人々。処刑は一年以上前のことだったというのに、まだ残っていたような血の匂い。

 平和広場。追悼広場。記憶の広場。犠牲の広場。

 肉塊になったあの人は石畳の上に崩れ落ちたのだろうか。

 指を切りかけて、私ははっとした。この懸賞で、あの内戦を知っている江西の人たちは一人残らず、あの記憶と向き合わされているはずだ。巧みに誘導されているかのように。いったい誰が、そのようなことを仕組んだのだろう?誰がいまさら、あの広場に名前を付けようというのだろう?


 翌朝、私は再び事務棟へ行って張り紙を見た。張り紙の下部に大きく書かれた連絡先は市庁舎となっていたが、その下に小さく書かれた「協賛」の部分には、「教育振興省」の名前が入っていた。つまり中央の役所だ。江西の人間ではなく、内戦の勝者たち。

 ならばすでに、広場の名前はどこかでもうほとんど決まっているのだろう。江西とは関係のない、当たり障りのない、あるいは中央のスローガンに沿った、美しい名前。

「あれ、おばさん、本気なのかい」昨日の若者が鞄を抱えて後ろに立っていた。「まあ、頑張りなよ」

「ちょっと参考までに、あんたさんならどんなのにするか聞かせてくれませんか」

「俺のを盗んじゃいけないぜ、おばさん」

「もし私が銀の賞牌をもらったら、あんたさんに上げますよ」

「いらないけどもさ。そうだねえ、俺なら、『陽だまり広場』にでもするかな」 

 そう言うと少し照れたように、足早に去っていった。


 あの青年は、どこか別の街から来たのだろうか。江西の街に澱のように溜まった影を引いていない、不思議な明るさがある。

 そうでなければ、陽だまり広場などという名前はとても思いつくまい。言われてみれば、周りに高い建物はなく、高台からも離れているあの広場には、一日中太陽が当たっているはずだ。しかし私は二十年間、そのことを一度も意識しなかった。

 大学の帰り、私は広場に寄った。昼時で人が賑やかに行き来していた。西の入口から入り、円形の広場を囲むように並んだ菓子屋や文具屋、税務相談所などの前をゆっくりと歩き、それから中央に敷石を盛って作られた、市バスの停留所にのぼってバスを待った。内戦時、この敷石の島はまだなかった。まるで、処刑された者たちへのせめてもの墓石のように、この島は作られたのだ。影は足元に落ちている。勤め人や買い物客は広場にひしめいているが、バスを待つ人は私のほかにいない。小さな影の中で、敷石が一つ緩んでいるのに気づいた。

やがて東の入口から、小さな市バスがぐるりと優雅に入ってきて、私を乗せて北へと戻っていった。


 あの人と最後に話したのは、内戦が始まる前だった。あの人にはその頃もう、二人の子供がいた。指輪を外して、彼は花街の近くのカフェにやってきた。

 何を話したのかは覚えていない。相変わらず顔だけは優男だったのを覚えている。何で彼が自衛軍などというものに自ら加わったのか、私には今でもわからない。性別と若さの他、そのような義勇兵にふさわしい点など、彼には何一つなかったのに。

 行かないで、と私は言っただろうか。言わなかったという気がする。気が済んだら、しれっとした顔で、彼は帰ってくるだろう。そして私は、戦争のことなど忘れて、自らの不義の立場にまた苛々する日々を送るのだろう、と思っていたはずだ。

 そうであった方が、今の私は幸せだっただろうか。彼と結ばれる未来など、どこにもなかったであろうとはいえ。


 夜、両親が寝た後に、私は葉書とペンを出してきて食卓に座った。葉書の表に、市役所の担当課の宛名を書き、裏には彼の下の名前を書いて、そこに「広場」と付け加えた。それを投函しに行こうとして、ふと思いつくことがあった。

 市バスはもうとっくに最終が出てしまったが、隣の郡まで走る終夜バスが最近市内を通り始めたはずだ。たまたま通り道であるというだけだが、私の家から十五分ほど歩けば、一番近くの停留所がある。一駅だけ乗れば広場へ着くはずだ。

 私は台所に入り、小さな芋を一つ取ってきた。それから父が思い付きを投げ出して以来、庭に捨てられていたスコップ。それから戸締りをして、冷える春の夜に出た。月が朧にかかっていた。

 ぽつねんと住宅街の外れで待っていると、大きな終夜バスは二十分ほどしてやってきた。煌々と明かりをつけている。遅い時間だというのに、勤め人らしい者が数名乗っていた。乗った時と降りた時、皆が私を一瞥した。終夜バスもこんもりと盛られた敷石の島の前に停まり、それから港の方へと走り去った。

バスが去るのを待って、私は足元を探った。昼間見つけた緩んだ敷石がやがて見つかると、私はしゃがみ込み、そっとスコップのへりを当ててみた。朧月の明るさと街灯の光だけを頼りに、周りの土を手探りで削っていく。やがて敷石は大きく動くようになり、外れた。その下も思った通り砂利ではなく土のようだ。今度は力を込めて、土を何度か掘った。この土は彼らの血を吸った土だろうか。肉塊の混じった土だろうか。恐らくそうではあるまい、と思いながら、私はスコップを手放し、手で土をすくってみた。きめ細かくて冷たく湿った土だった。

 窪みに、私は小さな芋を入れた。芋は私の手を離れる時、妙にずっしりと重くなった。平らにならすように多少土をかけて、敷石を戻す。立ち上がると、文学部校舎の裏手の青年が吸殻を踏みつけるように、敷石を踏みつけた。

 自分では、埋葬のつもりだった。忘れようとすることすら忘れられた、彼の埋葬。彼に忘れられたまま老いていく、私の埋葬。この芋も種芋ではないから、芽が育つことはあるまい。

 私は真夜中の広場の中央で一人、墓守のように立ちながら、次のバスを待った。


 広場の名前は「中央広場」に決まったと、私は公報で知った。そのような名前では、いったい賞牌は誰の元へ行くのかと、私は疑問に思った。

「案外、そんな安直な名前を出したやつ、一人しかいないんじゃないのかな」陽だまり広場の彼は、煙草を吸いながらつまらなそうに言った。「おばさん、結局何にしたんだい。まさかおばさんが中央広場の人じゃないよな」

「いい名前だったから、教えたくないよ」

「それじゃ応募する意味すらないじゃないか」青年はからかわれていると思ったのか、大袈裟にむっとした顔をした。

「想い人の名前だったのさ」

「おばさん、おばさんなのにたいしたロマンチストだ」

 あの人は内戦で死んだんだ。彼の妻も子供も、江西を去ってしまった。もちろん、あの人は後世に名を残すほどの価値ある男じゃなかった。それでもね。

 しかし陽だまりの若者に、そんな影をわずかでも落とすのは、少しためらわれた。

「あんたさんね、年取った女を馬鹿にすると、若い女にも嫌われるもんだよ」

 そう言うと、青年は一瞬あわてた顔をして、その拍子に煙を吸い込んでむせ返った。私は思わず笑ってしまった。


 私は市場へ寄った。広場を通りかかった時に遠目に見ても、かつての夜の敷石の場所はもうわからなかった。とはいえ、緩んだ敷石を直したのだから、たとえ露見したにしても誰に責められることでもないだろう。

バス停には、「広場の名前は中央広場に決定」という張り紙がしてあった。その前を、人々は何も気に留めないかのように行き交っている。忘れたふりをした人たち。何かをここに埋めた人たち。敷石のように硬くて冷たい無機質な名前。確かに、一度掲げられてしまうと、その名前は今の広場にしっくりと馴染んだ。口に出して「中央広場」と言ってみる。

 買い物かごの中の根菜は、その日から妙に軽くなった。


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