春の踊り

「バレエの本はありませんか」

 一目見て、その細身の女の子が水仙バレエスクールの生徒だとわかった。すらっと伸びた、ほっそりして白い手足とか、ゆったりしていて、それでも隙がなくすばやい身のこなしとか、表情をおさえた、でも気の強そうな顔とか。

 だってわたしも通っていたんだから。

 そういう感じの子たちを、あの頃毎日見ていた。だけどわたしはそうはならなかった。どんくさかったから、三年通って諦めた。そんなことを思い出したあと、わたしは目の前の女の子に教えてあげた。

「踊り方の教科書のこと?そういうのはないよ」

「ちがいます。バレエの本です」

 わたしが返事をしないから、眉毛をぎゅっとしてから言い直した。「バレエのことが書いてある本。写真が載ってる本」

 ああ、わかる。わかっちゃった。この子は、わたしと一緒。わたしたちと一緒。


「大通りの本屋なら、どんな本でも置いてあるって聞いたのに」

「仕方ないよ。江西にないものはないんだから」

 女の子は「文化芸術」の棚の前でぷいっと横を向いた。

 江西だけじゃなく、本の仕入れは国中で難しくなっている、らしい。評論・学術書売り場の主任が言ってた。外国からの本はほとんど検閲で止められちゃうし、多少入ってきても、中央や東の大都市にほとんど取られてしまって、南のほうに良い本は全然回ってこない、って。

「図書館に行けば、他の街からも探してもらえるかもよ」

「買いたいんです。おこづかいならあるから。でも、もういいです」

 女の子は怒って、お礼も言わずにくるっと出口に向かう。わかる、ああいう、「プリマ」の女の子。自分が一番きれいで、上手で、だからきっとまちがってないって思ってる。

「ナルセ先生の持ってるみたいな本がほしいの?」

 わたしは思わず言ってしまった。すぐに彼女は振り向いた。怒りながら驚くみたいに、まんまるく目を見開いて。


 ナルセ先生の本名も、正体も、誰も知らない。ヨーロッパでバレエの勉強をしてきたという評判で、租界から来た人独特の雰囲気があった。水仙からきた「ナルセ」という名前がぴったりの、白くてすらっとして品があって、低くて優しい声で話す男の人。

 水仙バレエスクールに通う女の子たちは、一人残らずナルセ先生に恋をした。

 先生はみんなに優しく、みんなに厳しかった。教室に来ると、切れ長のきれいな目をゆるめて、いつも笑顔で迎えてくれる。だけど踊りにはシビアだ。ポジションの作り方一つ褒めることさえ、なかなかない。それが女の子たちのプライドを掻き立てた。

 小さな踊り子たちは、少しでも美しく踊るために夢中で競争した。ナルセ先生の理想、そんなものがなんなのかわからないけど、それに近づきたくて。

 わたしは早々に諦めた。生まれつきからだが硬くて、どうにもならないんだ。ママは、ドテドテしてぶきっちょな自分が嫌いで、それでわたしを物珍しいバレエスクールに入れたんだけど、わたしは体形も器用さも、悲しいくらいにママの娘だった。

 そんなわたしがナルセ先生に近づく唯一の手は、場外戦だった。教室が終わった後、みんなが帰るのを待ってから来客スペースに座って、棚に何冊も並んでる写真集を手に取ってみた。

 はたして、先生は優しく声をかけてくれた。

「いいでしょう、その写真集。ドイツで買ってきたものなんですよ」

 そう言われるまで、内容なんか全然気にしてなかった。真っ暗な背景に浮かぶ白人のダンサーたちが、人形みたいにスマートで長い手足をめいっぱい優雅に伸ばしている。

 先生はちょっと間を開けて、私の隣に座った。

「本当は、写真じゃなくて舞台そのものを見なければいけないんだけど……ここじゃ、本場のバレエなんて見ることはできませんからね。そうだ、ファンルイさん、本場のバレエとは、いったい何がちがうのだと思いますか」

「……からだの感じとか」

 わたしは自分のことを思いながら、少しみじめになって答える。

「うん、そうですね。悲しいけれどそれは現実だ」

 あっさり認められちゃって、わたしは一層みじめになった。

 だけど、先生は先生だ。そこで終わらなかった。

「ですが、私はね。本当にちがうのは、魂だと思うんですよ。踊りを通して、何を目指すかという魂。表現力、とか、やる気、とかとは少し違うんですね。わかるかな。自分という船の方向を決める羅針盤のようなもの……それがね、本場とそれ以外ではちがうんです。本場のダンサーは、本場の魂に近づこうとしている。たとえ、一人一人のからだつきが、それほど美しくなくても。だから、ファンルイさん」

 先生はそこで、わたしの目を見て、うなずいた。

「こういう本を読んで、本場の魂を知るのは本当にいいことですよ」


「ナルセ先生、行っちゃうんです」

 わたしは休憩を少し早めにもらって、本屋の外で女の子の話を聞いていた。

「行っちゃうって、どこに」

「知りません。先生は何も言わないし……」

 いきなり涙ぐむ。先生は十年たっても、相変わらず少女たちの初恋を奪い続けてるみたいだ。ずっと昔から同じように綺麗だけど、いったい何歳なんだろう。

「だけどね、江西がガッペーされちゃうでしょ。今までの市長さんは気にしなかったけど、国のお役人が来たら、バレエはよくない、って言われるんじゃないかって。だから先生、居づらくなる前に租界に帰るんだろうって、パパが」

 そうか、そうなのか。

 主任が言っていたことを思い出す。伝統、中央集権、国粋主義。難しい話はわからないけど、江西の中で許されていたことは、もうこの国全体では許されていないことで、江西でも、もうこれから、どんどん許されなくなっていく、とかなんとか。

「教室、三月で閉まるんです。行っちゃう前にプレゼントをあげたくて。きっとあんな写真集なら、先生、喜んでくれるから」

 一度泣き出すと、こういう感じの子って、かえって泣き止まなくなる。

 この子も先生の一番になりたいんだろう。誰も先生の一番にはなれない、そんなことはよくわかってるから。だけど、自分が貯めたお小遣いで買える程度の本なら先生はもうとっくに買っている、ということまでは気づかないみたいだった。

「お姉さん、先生のヴァリアシオン、見たことありますか」

 女の子は泣きながら、突然私にきいてきた。

「あるけど……」

「きれいですよね」

「うん」

「先生、バレエの先生やめちゃうんでしょうか。そしたらもう踊らないのかな。どうなっちゃうんでしょう」

「やめちゃいそうなの?」

「知りません。でも、最近、私たちの前で踊らないの。それにすごく褒めてくれるんです。今まで全然褒めてくれなかったのに。……先生、どこに行っちゃうんだろう」

 わたしはショーウィンドウにもたれかかって、向かいの「かもめ珈琲」の看板をぼんやり見ていた。この子がわたしに声をかけたのも、なんかの運命なのかな、と思いながら。もちろん、この子と先生じゃなくて、わたしと先生の運命だ。

「お姉さん、あなたが欲しい本見つけてあげる。来週、またおいで」


「お金はいらないよ」

 目を輝かせた女の子に、わたしは言った。「本屋のお姉さんが見つけてくれた、って言えば大丈夫」

「でも」

「自分でも何か買いたいなら、花束はどう?それか、あなたの好きな本を買うとか」

 女の子はまた眉をぎゅってした。癖みたいだ。「あっちに、花束の写真集がありましたよね」

「うん、よく見てたね」

「それにしようかな」

 綺麗なままのバレエの写真集をきちんと包みなおして、重そうに抱えると、さっさと行っちゃった。花束の写真集を選ぶなんて、思ったよりセンスのある子だな、と思う。本当にバレエもうまいんだろうな。

 水仙バレエスクールをやめるとき、ナルセ先生は写真集をくれた。わたしがさいごまでうまくならなかったことには触れないで、先生は、わたしの目を優しく覗き込みながら、黒くてつやつやのカバーがかかった本を手渡した。

「ファンルイさん、本場を目指すことはどこでも、いつでもできます。そのためには本場を知らなくてはいけない。そのことを覚えておいてください。べつに、ヨーロッパに留学しなさい、なんて言っていないんですよ。もっと大きな意味での、魂の向かうべき場所のことです。あなたがこの教室でそれを学んでくれたのなら……バレエ教師冥利に尽きるというものです」

 その瞬間のわたしは、間違いなくそれまでで一番しあわせだった。写真集はいっぱいあるわけじゃない。なのに、そのうちの一冊をくれた。バレエが下手でも、わたしは特別な生徒だったんだ、って。

 今思うと、わたしにあまりに何も教えられなかったから、先生は先生なりに申し訳なくてあの本をくれたんじゃないか、って気がする。それなのに、わたしは先生の言ったことさえよくわかっていなかった。そのうち写真集は丁寧に本棚の奥にしまわれて、それっきり。それを週末にやっと見つけた。

 先生がお手本で踊るヴァリアシオンは優雅で軽やかで、きっとヨーロッパ仕込みの本格的なものだった。だけど少女たちは、自分の恋する先生の姿しか見ていなかった。踊りそのものを鑑賞していた生徒はいなかったにちがいない。

 先生の探していた「本場」がどこにあったのか、先生はその魂を見つけられたのか。わたしたちの誰もそれを知らない。だけど、先生がバレエスクールを捨てて江西を立ち去ろうとしているなら、今、その本場への羅針盤を誰より必要としてるのは、きっと先生そのひとなんだ。

 だから本は返すんじゃない。わたしから先生への贈り物。


「ナルセ先生によろしくね」

 会計所で女の子にもう一度話しかけると、また眉をぎゅってされた。もういい、先生と私の恋路を邪魔するな、って顔。わかる。先生のこととなると、誰だってそうなっちゃうんだ。

「本、ありがとうございました」

「それから!あなた、好きなら、バレエ続けるんだよ」

 彼女は振り向いた。驚いた、という顔で、それから泣きそうに、目をまんまるく見開く。こくんと、うなずいて出て行った。バレリーナの卵の、軽やかな足取りで。

 店の外、大通りには春の陽射しがまぶしい。そうだ、水仙もまた咲く季節。

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