貴公子の傑作

 港の西側、単に「西埠頭」と呼ばれている埠頭のその中央に、細長い造りの建物がある。百年ほど前に建てられた税関で、江西の洋風建築の中では古いものだ。陸地側の半分は、船で来訪した貴賓の迎賓館として利用され、かつて一般人は遠目に望むことさえ叶わなかった。今でも高雅な雰囲気を湛えたそのエリアは、港湾関係者と顔の利くもの以外は立ち入れない。


 外洋建設の御曹司、ダイモン氏は顔が利いたから、度々その迎賓館を訪れた。今では貴賓らしい貴賓が訪れることもない大きな広間は、高い天井の下、臙脂色の絨毯と花柄の壁紙、大きなガラス窓と一面の調度品に囲まれ、無為の栄華を誇っている。表向き、そこは市民ギャラリーを兼ねていた。年に一度、広間を飾る絵画が市民の作品の中から選出され、三枚ほどが調度品の隙間を縫って、壁に掛けられるのだ。

 ダイモン氏は去年、とりわけ足繁く広間に通った。パリッとした高級スーツに輝く革靴、小柄だが精悍な顔立ちの若い男がそうして一枚の絵を見ていると、まるで、戦争を最後に永遠に失われた美しき時代が帰ってきたように見えた。この江西に、貴賤の差が厳然としてあった時代。貴いものはひたすらに貴く、高く、触れがたく、気品を持って堕落していた文化の爛熟期。

 彼はその絵をいたく気に入っていた。荒い海を描いた寒々しい一枚。イギリスの風景画の巨匠マスター、ターナーの模倣と言えばそれまでだ。しかし影のある色彩と、岸壁の風景の荒涼とした鋭さが、明確にターナーとその絵を分けている。

 描かれたのはヨーロッパのどこでもなく、間違いなくこの江西だ。独特の痛ましい美を備えている。西洋の巨匠の換骨奪胎。趣味人の余技で描ける絵ではないと、目の肥えた御曹司は見抜いていた。

「東洋人が、江西人がこの絵を描ける。素晴らしい。実に素晴らしいことだ。俺は江西に身も心も縛られて、永遠に西洋世界の教養の神髄に手を届かせることができないのだろうが……しかし、この街にはその神髄を超えていく巨匠がいる」

 江西一の建設会社の御曹司は、そうして贅沢なソファに身を沈めたまま、孤独な心を慰めるのだった。


 冬になって、ダイモン氏はぱったり迎賓館に来なくなった。代わりに、物々しい雰囲気の男たちが、何日も何日も港を訪れた。彼らは人目を忍んでいたが、噂は満潮時の波のように、あっという間に港を満たした。

 江西で一、二を争う御曹司のダイモン氏には、当然ながら相応しい婚約者がいた。ダイモン氏と同様に深い教養を身に着けた令嬢、すなわち、輝波水運の社長の三女である。その彼女が、どこの馬の骨とも知れぬ男と駆け落ちしたのだ。

 三方を高台に囲まれた江西から、町の外につながる道路は限られている。外洋建設と輝波水運の社力を尽くした捜査の結果、不埒な男と令嬢は陸路ではなく、水路でどこかへ逃げたのだと推測された。港では聞き込みに次ぐ聞き込みが行われ、証拠が徹底的に探された。

 しかし海の男と女たちは、海で汗をかかない者たちを見下しているものだ。

 結局、逃げた恋人たちの行方はついぞ判明しなかった。


 春が近づくと、再び御曹司は迎賓館に現れるようになった。その頃には、彼はすっかり調子を取り戻していた。

「西洋の教養を湛えた女性であるなら、ある意味で、これも当然の帰結じゃないか?」彼は穏やかな表情で、友人たちに語っていた。

「彼女は個人主義というものを彼女なりに理解したのさ。その理解に、短絡的で思慮の足りない面があったとしてもね。誰にとっても、教養の実践は悪いことじゃない。彼女は素晴らしい女性だった。この江西の外で得られる知識を、もっと得たいと思ってしまったに違いないよ」

 もちろん、周囲に誰もいない迎賓館であっても、ダイモン氏の気品ある姿は変わらなかった。惨めに気落ちした姿を晒すことなどありえなかった。

 彼は一層熱心に海の絵を見つめた。冷たく、鈍い陰に満ちた荒波を超えて、江西から解き放たれた婚約者が船出していく様を想像した。港から、貨物船か何かにこっそりと乗り組み、海の向こうへと。

 彼には、彼女が遠いイギリスにまで漕ぎ出したようにさえ思われた。

「悪いことじゃないさ。悪いことじゃない」

 ダイモン氏の穏やかな表情の中で、眼だけが血走らんばかりに見開かれていた。

「彼女は出て行った。あんなにおとなしい女だったのに。ああ、そして俺はいつまでも、この古すぎる港町に縛られたままだ。それでも……それでも、江西には、西洋を超えていく巨匠がいる。この絵とともに。この街に」


 三月が絵の架け替えの時期だった。新しい絵が市民の作品の中から選出され、それまで一年間広間を飾った絵は、画家に返却される。

 当然、ダイモン氏は架け替えの場に居合わせ、海の絵を買い取りたいと申し出た。

「作者の名前を教えてもらえれば、私のほうで交渉しに行くが。どうかね?」

 市の文化教育課の職員は、何とも言えない顔で他の職員のほうを見た。相手はといえば、俺のほうを見られても困る、という風に首を振った。

「ええとですね、この絵は、しばらく市のほうで管理することになっています」

 白手袋をはめた若い職員は、心から困ったように目を伏せて答えた。

「とすると、作者は引き取らないのかい?」

「その……そうですね」

「せめて、名前を教えてくれないか。あとは自分でどうにかするさ」

 職員は目を泳がせていたが、やがてきっぱりと顔を上げ、一つの名前を告げた。それから急いで絵の梱包に取り掛かった。目の前のダイモン氏の意識から、今すぐ逃れたいとでもいうように。

 とはいえ、職員の心配は無用だった。ダイモン氏は、自分の婚約者を連れて逃げた男の名前を唐突に聞かされても、全く態度を動かさなかったのだから。


「やっぱり、外洋建設の御曹司ともなると大したもんだね」見守っていた他の職員は、あとで同僚に語った。

「普通なら、真っ赤になって怒るなり、なんなりするだろ。我慢したとして、せいぜいが仏頂面さ。ところが御曹司様、にっこり笑ったんだよ。それも心っから楽しそうに……満足満足、って面さ。いいや、痩せ我慢じゃない。痩せ我慢だとして、あれだけの痩せ我慢をできるなら立派なもんさ。まったくもって優雅そのものだったんだからな。あれは本物の、江西の貴公子ってやつだよ」

 関係各所との穏やかな交渉の末、ダイモン氏は海の絵を手に入れた。市の文化財課の職員以外は作者の正体を知らなかったから、その絵を自室に掛けた彼も、知られぬ巨匠と己の因縁を語ることはしなかった。

 彼はもう、巨匠マスターがこの街にいないのを知っている。しかしこの傑作マスターピースは彼の手元にある。江西に生まれた芸術の素晴らしい記録として。荒波の向こうに広がる可能性の証左として。彼と同じ、確かな価値観を持っていた婚約者の、ささやかな思い出として。


 晩春のうららかなある日、ダイモン氏は貴賓室に美しい令嬢を伴って現れた。絵はすっかり架け替えられていて、令嬢がそれらを慎ましく鑑賞する間、彼は遥かな眼差しでガラス窓の外を眺めていた。

 翌日、ダイモン氏と令嬢、すなわち輝波水運の社長の四女の婚約が発表された。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る