造花たち

 私は彼女を待っていた。姉と名乗る、美しい女。祖母からは花街には近づくなと言われて育ったけれど、そもそも近づく気さえ起きなかった。なぜその入り口の喫茶店にぽつねんと座っているかと言えば、彼女がそこを電話で指定したからだ。

大学と花街は、通りを二本しか隔てていない。歩いて二十分もかからない。男の学生たちは、一番少ないものでも月に一度はここへ来るのだという。女の学生は四年間、決して足を踏み入れない。

 私は彼女を待っている。外は雨で、店内は煙とコーヒーと、何か脂の匂いにまぎれて一層暗く、一面の窓硝子には自分の姿がうっすらと映っていた。祖母が死んでから、なんだかいっそう祖母に似てきたような気がする。五十年後には祖母の再臨のようになっているのではないだろうか。

 店内は空いているのに、私の背後の椅子を引く音がした。私は硝子に映った像越しにその姿を見た。一瞬だけ、彼女かと思った。化粧と柔らかなドレスの具合、そして目につくがそう思わせたのだ。だが、彼女にある気品と繊細さが、その女には全く欠けていた。代わりに、彼女にはないものがあった。彼女を見ている私を、冷たく、硝子越しに見ている敵意に満ちた目。

「恋人を追っかけてでも来たの?」小さいのにはっきりと私に聞こえる声で、女は言った。

「姉を待っています」私は窓から目を背け、分厚い傷だらけの卓に向き直って答えた。

 女はしばらく黙ってから、「姉を待っています」と、甲高い、か細い声で真似た。

 彼女はなぜ、こんなところを選んだのだろう。「可愛い妹」の社会勉強のためとでも言うのだろうか。一筋の、質の悪い煙が背後から私を取り囲む。美しい彼女が吸う紫の鉱石煙草とは比べ物にならない、有機物を燃やす臭い。店員に、彼女はミルク入りのラム酒を頼んだ。

「あんた、お嬢様なんでしょ」女はしつこくからんできた。

「そうかもしれませんね」江西で五指に入る古い家柄なのだから、まあそう言っても間違いではないだろう。しかし私はなぜ律義に返事をしているのだろう。

「なのに、こんなところにいるのね」

「ええ」

「馬鹿にしてんじゃないわよ」突然女が怒鳴った。私はとっさに身を固くし、その拍子に低い卓に膝をぶつけた。あざになった、と思った。鈍い痛みが広がる。

「イモが花街に来るんじゃないわ」

「姉に言ってくださいよ」振り向いて私も怒鳴り返したが、いかんせん声が細い。あの崖の上の修道院のような、護り家で大声を張り上げる必要などどこにもなかった。

「お姉ちゃんのせい?一人前の女ですらないのね。お子ちゃまはおうちに帰りなさいな」

 喫茶店の他の客は全くこちらを見なかった。暗い顔の店員も、彫りの深すぎるマスターも。まるで私が怒鳴られているのは、この店の正常な自浄作用だとでもいうように。私は妙に強情になった。「あら、お代は払いましたわ。お嬢様ですもの。あなたと違いましてね」と言って背を向け、ソファーに座る。

「てめえ」椅子を更に引く音がした。灰皿で殴ってくるか、と横眼で窓ガラスを伺った。その時、外に彼女が見えた。美しく、店内の争いを何も知らなげに、うっとりと明るい顔の彼女。女は灰皿を持っていたが、握りしめたまま、結局私の後頭部に振り下ろさなかった。椅子を激しく蹴る音がした。ほぼ同時に、扉に下げられた金属のチャイムが鳴った。

 そして店内は照らし出された。

「リラ、待たせたわね」

 店員は何事もなかったかのように、彼女に茶と品書きを渡した。「ここ、昔よく来たのよ。何も変わっていないわ」自らもその時の姿のままの彼女は、白い手袋をしたままの指先で品書きをめくる。「あなたコーヒーなんて頼んだの?こういう時にだめね、学生さんは。地味だわ」

 もう一度、椅子を激しく蹴る音がした。彼女は髪の毛一筋揺らさなかった。一歩ずつ、怒りを込めて、女は私たちの卓のそばを踏みつけて出ていった。姉は一瞥も与えなかった。歩いてきていた店員が、近くで女を見送るように立ち止まった。それに気づいて、初めて美しい私の姉は顔を上げた。チャイムがガチャガチャと鳴って店の扉が閉まった。

「あなた、何それ?」

「ミルク入りのラム酒です」

「ブルガルね?なら、それを貰ってしまっていいかしら」

 彼女は暗い店内に、すらりと白い手を伸ばした。そのさまは、沼の底の花の茎にどこか似ていた。

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