江西奇譚

@mrorion

ラヴィーナ・ハイウェイ・ガススタンド

 海岸通り沿い、江西の西側を南下してきた自動車専用道路との合流点の近くにある、ラヴィーナ・ハイウェイ・ガススタンドというのが、俺の勤め先だ。小洒落た名前と店主は言うが、俺にはイカれた名前としか思えない。アメリカにかぶれるにしても、もう少しセンスがあっていいはずだ。

 俺はガソリンスタンドにバスで通ってくる一層イカれた店員だ。しかし他にどうしろというのだ。二十年前に荒地の木の陰で銃撃を食らってから、俺には運転は夢のまた夢だ。それでも車が好きな俺のために、センスが底をついた店主が店員の席を空けてくれたのだ。

 こいつは頭に砲弾を食らったのかと疑うほどセンスは空っぽエンプティだが、気のいい男だった。俺より十歳も下だが、見下すようなまずいやり方で、俺の機嫌を損ねることはそうそうない。俺はだから奴の下、左手一本で給油し、清掃し、人が足りなきゃ中のソーダ・スタンドで飲み物を出す。ソーダ・スタンドとは名ばかりの、小さな椅子とカウンターと冷蔵庫だが。いつもアメリカのレコードが鳴っているが、いかんせんこの国じゃ輸入盤はそうそう手に入らないから、俺は年がら年中一日十時間、たった十曲の繰り返しを延々と聞かされることになる。

 俺の頭までイカれてきそうだ。

 

 店主はアメリカに行きたいという夢を早々に諦めたのだという。その代わり、ガソリンスタンドに小規模のアメリカをこしらえた。俺は車に乗るのを諦めた。お仲間と言えばお仲間だ。

 三十年前、俺がまだ十代のガキだったころ、俺は俺で夢を持っていた。自分の外車を持つという夢だ。その頃、江西に西洋の車は二台しかなかった。ふんぞり返った銀行の頭取のと、あとは租界から来た外人一家のものだ。租界の一家の車は、毎週日曜日、海岸沿いを赤いボディをつるりと輝かせて走った。俺は朝早起きして、走って三十分近い道のりを海岸道路へと急ぐと、道路脇に突っ立って、赤い車がビューンと行き過ぎるのを一日一回眺めた。

 おんなじバカがもう一人いた。雨でも風でも日曜日とくれば、俺と海岸道路に突っ立ってる、頭のノロいガキだった。眼が悪くて、ぶ厚い瓶底みたいな眼鏡をしていた。

「僕も、あんな車が欲しいな」奴がそう口に出した日、俺は奴をぶん殴った。ウスノロの分際で、俺と同じ夢を口に出すとは許せない。奴は中々強気に反撃してきた。俺たちは車が去った後の港でボコボコやり合い、そろって海に落ちた。バカの極みだ。

「てめえはァ!眼が悪いからァ!車の運転なんかできねえよォ!!」

 溺れかけながら、奴の顔面から眼鏡をひったくった。奴が奪い返そうとする前に、これ見よがしに瓶底を海の底に沈めた。奴はわあわあ叫んだ。

「残念だったなァ!!眼鏡はもうねえぞォ!!」

 だが勝ち誇ろうが、バカはバカに変わりない。引き揚げられた後、しこたま怒られ、ぶん殴られた。


 自分に車が運転できなくなるとは思わなかった。当たり前だ。十代の、つるつるキラキラ赤く光る車に憧れるガキだったら、誰だってそうは思わんだろう。内戦が始まるなんてことも、片腕がぶっ飛ぶことも、片足の感覚を失うことも、ちっとも想像なんてしなかった。

 この町の義勇兵として戦った者に、軍人年金などは出ない。江西は中央の軍に負けたんだから。俺は何の賠償も得ることなく、ただ夢を体ともども、銃弾に吹っ飛ばされたというわけだ。

 まあ、もう今更、そのことについてどうこう言うのも飽きてしまった。ただ俺は、イカれた俺の雇い主の米国かぶれを、笑っても蔑む気にはなれないというだけだ。どこからどう見てもパチモンではあるが、奴はアメリカもどきをちょっとだけ作った。ラヴィーナ・ハイウェイ・ガススタンド。奴にかかれば、古い海岸道路もハイウェイなわけだ。

 それだけで十分よくやっているわけだ。


 昨日、給油場に赤い外車が乗り付けたとき、俺はソーダ・スタンドの中で、効きの悪い冷蔵庫の回路とやりあっていた。店主は所用で外してる。外車の影が視界に映ったもんで、俺は死んだほうの足で冷蔵庫を蹴飛ばして外へ出た。スマートなシルエットに銀のライン、美しいフィアットのオープンカーだ。

 運転席から「満タンで」とだけ言ったのは、高慢ちきな黒いワンピースの女だった。うちはガソリンの質をごまかすような真似はしないが、いかんせん、ラヴィーナ・ハイウェイ・ガススタンドである。パチモン臭い名前に染まった油にやられて、この本物のフィアットが煙を吐かんとも限らない。心配しつつ片手で給油を始めたが、助手席の奴が俺をじっと見ているのに気が付いた。同世代らしい、太った眼鏡の男だ。この街で片腕なんてそう珍しくもないだろ、と思ってる間に給油が終わり、赤い宝石みたいな輝きは颯爽と走っていった。

 死に掛けの冷蔵庫の前に戻ってから思い出した。

 ああ、あのウスノロだ。親のコネで首都の三流大学に入って、そこで死にかけのお偉方の養子になって、内戦時にはあっち側についた。何をどうやったのか知らないが、今では権力側の三下くらいにはなった。何度か話には聞いたし、数年前には確かに一度見かけている。あの女は嫁なのか。江西にも、ただ寄っただけかもしれない。

 甘ったるい声のアメリカ人のバラードが、運命の人だのなんだのと脳みそを腐らせ続ける。あいつは外車を手に入れた。俺はそれをどうこうは言わない。努力もクソもない、運命の差ってもんだろう。アメリカに行けない運命。外車を手に入れられない運命。

 俺は、パチモンのアメリカの住人であることに、今ではまあまあ満ち足りている。

 なんとか冷蔵庫を蘇らせた頃には、道路の向こうの海と空は赤く染まっていた。ラヴィーナ・ハイウェイのビーチ・サンセット。ソーダはきりっと冷えている。それだけで、十分よくやっているわけだ。

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