満州侵攻1938

戦争が始まった。

さあ、これで国らしくなった。

たまには火薬の匂いもいいものだ。

-ラルフ・ワルド・エマーソン-


近衛文麿は少なくとも自身のことを外交の天才だと思っていた。

当然だがそのような存在はタレーランもなれなかったので、歴史上存在しないしこれからも存在しない。

しかし自分に自信過剰でいるのが尊重されるこの時代の人物にはしばしばこの様な才能過信が巻き起こる。

そしてそのような人種が起こすのは当然大問題である。


1938年2月11日、ソビエト連邦は世界地図を見ながら戦線の安定化を考えていた。

東の大日本帝国と西のナチスドイツはどう考えても分かり合えない、絶対上の敵という奴である。

従い、コイツらを纏めて相手するのは愚策なので各個撃破するのが当然だ、リアリストの一国社会主義者のスターリンは世界征服する気は無かったが、取れるなら取ろうと考えていた。

そんな中近衛が盛大にアホやらかしたので、スターリンは困惑していた。

ナチの顔を潰す上にイギリスからも遠慮される様な愚行を何でしたのかわからなかったのだ、よくNKVDに確認させ、そしてスターリンは今がチャンスだと考える一部と、彼自身の計画を実行するに至る。


1938年2月11日のソ連軍西部越境作戦は、こうして開始された。

まずソ連軍西部戦線はポーランド共和国東部地域、すなわちポーランドがかつて侵略して奪った土地で「ソ連軍式の訓練を受け武装潤沢な自称リトアニア人たち」の蜂起に乗じた。

ポーランドの一国主義的政策や強硬政策の数々は周辺諸国に無用の軋轢と相互不信を生み、ポーランド軍兵士が国境警備リトアニア兵を射殺する事件すら起こしていた。

現地人民の労農ソビエトの要請に基づく軍事介入は、思った以上に成功した。

バルトへのソ連空軍の威嚇的上空旋回が議会上空で行われバルトはほぼ無血で占領され、ポーランドは再びヴィスワ東岸までを失った。

ナチスの動きはあるにはあったが、国防軍再編未完了とこれを機にポーランドを締め上げるつもりもあったので、むしろポーランドの首をすげ替えにかかった。

そしてオットー・クーシネンによるテヨリキ政権成立に伴うソ連軍フィンランド侵攻が開始され、ポーランドやフィンランドに多大な援助を行っていた大日本帝国は、斯くしてこの"冬戦争"に引き摺り込まれていったのである。


1938年満州侵攻、ソ連ではハルビンゴール紛争と呼ばれた戦いは現地日本軍の連携齟齬が日本軍の大敗北の大きな理由だった。

政権首班すら戦争の危機感を理解していない中、慌てた近衛文麿は前線部隊への武力行使を命じたのである。

文民政府指導者の命令に逆らう法的根拠がない以上、悪い指揮官を持った兵士は哀れである、彼らはいきなりかき集められた。

昭和天皇からの叱責で中央政府の言動が二転三転する中、関東軍征伐以来守備を引き継ぐ満州方面軍司令部のある新京では現地の将校たちがどうするべきか、何に備えるか?を論じていた。

永田鉄山が積極攻勢で一撃与えて時間と政治的発言権を稼ぎそれで講和する計画案を提案する中、日本軍陣地への越境は既に開始された。

ゲオルギー・ジューコフは戦線への全力攻勢というより、軽く一当てをするつもりで攻勢を命じた。

結果は日本軍の大惨敗だった、彼らはものの数日で数千名の兵士を無為に死なせたか、敗残兵として兵力にならない虚数に変えてしまった。

警報が発令されたが仔細もわからない前線の兵士たちにソ連軍の本懐たる砲兵弾幕射撃を喰らった前線が壊乱したのである。


あちこちでソ連軍のBA-10装甲車やBT-5が突破し、ソ連の赤い騎兵が進撃していった。

空では陸軍の迎撃機と赤色空軍の空戦が行われ、3日目には新京司令部一体にSB2爆撃機が大挙襲来、猛爆撃を開始した。

双方の全ての関係者の想定より早く日本軍の防衛線が崩壊し、赤軍の津波は堤防の穴から濁流となっていた。

ソ連軍は各所で退路が絶たれて混乱する日本軍と交戦し、その大半を撃滅し、彼らが訳も分からぬ顔をしているのに訝しんでいた。

二週間をすぎた頃には新京すら、ソ連軍の重砲の射程に収まっていた。


1938年3月2日午後17時、大連軍港


大連は人間の渦がごった返していた。

本土へ逃げようとする避難民の避難船、力も意欲も武器も無くした兵士たち、騒乱。

そこに皇軍なる単語はなかった。

憲兵隊の苛烈な手段を以て最低限の規律が守られているが、自棄を起こした兵士の事件が群発し以前から悩ませていた抗日武装組織のゲリラ活動が起こっている。

ついには大連臨時憲兵隊本部に爆発物が投擲される始末だ。


大連軍港海軍軍人たちは海軍臨時大連陸戦隊として、殆ど押し付けられる様に託された。

しかしこれを何とかしろと言われても困る、構成されているのは主計科すら混じっている。

彼らの海軍人生において実戦経験なるものも、陸戦の心得とか言うものもないのである。

だが完璧な奇襲攻撃が齎す大惨事が海にも波及していた、制空戦闘機は足りてないから爆撃されるし、ソ連海軍が奇襲の優位性を活かして潜水艦や駆逐艦を潜り込ませてくるのである。


第二艦隊の嶋田提督はウラジオストクへの攻撃作戦を提案したが、北方諸島での状況不安定により破綻し、軍令部が尻込みする様になった。

陸戦では皇族軍人の陣前指揮でかろうじて組織的統制を取り戻し、無秩序な潰走から遅滞戦と後退戦へ状況を改善させていた。

豊田中将が有無を言わさずあまりもので再編された第四艦隊で送り込まれたのは、そう言うところだった。


「我が海軍はいつから夜逃げ専門になったんだろうな」

「少なくともまだ海軍です。少なくとも、国民の生命財産を守ろうとしている軍隊です。」


小林参謀長は気休め程度だが、良い側面を言った。

少なくとも陸軍と海軍は、一つの目的を持って戦闘を継続して、それの遂行こそ使命だと戦っている。

すなわち邦人保護と開拓居留民の安全な帰還だ、国民の生命や財産を見捨てる存在は批判されて然るべきだが、力不足と何もしないではそこに絶対的差がある。

何故なら軍人の本懐、軍隊の根幹は国防であり、主権国家は国民と主権と領土で構成されている。


「まぁそうだが・・・これじゃ溺れ死なせてんのかと言われかねんな・・・」


豊田中将は港湾の様子を見て、自身の任務の困難さが具現化され、可視化されて嫌気がした。

それが仕事なのは分かるが大変な仕事の山を見て出るのは嫌悪感というのは、まあ仕方ない、人間だからしょうがない。

問題はこれをどう解決するかである。


「大体どれくらい居るんだ・・・」

「少なくて16万人、多くて20万人以上」

「なんでそれだけ遅れてる・・・」

「組織的な避難計画なんで誰も作ってないからですよ」


小林参謀長は豊田中将に事実だけを伝える事にした。


「我が国ではそう言うのをやると実際起こるからやるなと言う言霊思想がありますので」

「それでも軍隊かね」

「軍隊だからじゃないですかねぇ」


大正期の謂れのない、いやあるにはあるがそこまででも無い軍部バッシングの嵐を知っている高級軍人達の責任回避策と、無思慮な報道と、それに軽くノセられて煽られる国民達の混声合唱が生んだ悲劇のオーケストラである。

条約派の現状維持派の参謀長はある種諦観していた。


「それで、輸送にはどれくらいかかる。」

「日本郵船から手当たり次第徴発してもシーレーン計画がズタズタになるので、大連から新義州辺りに下ろして其処から鉄道を利用して釜山まで輸送、最小の航路で脱出させると言うのが陸海合同の計画案です。」


豊田中将はそれが完了する期間を参謀長が言わなかったので、どう言うことか察した。


「つまり予定期間不明か」

「はい。そのとおりです。」

「・・・陸さんはどれくらい時間が稼げると言っている」

「東久邇宮閣下が良く奮戦していますが、それでも二週間が限度だと言っています。

 制空戦では敵の出撃機数と撃墜記録から鑑みて敵が先に息切れすると想定されてます」

「皇族軍人が残ってる訳か、まあ、そうなるか、うん。」


ウチ海軍の皇族軍人はロクなのじゃ無かったけどあっちのはまともなのかな、煽てられて残ったにしても、褒められる事だと思うけど。

そんな事を考えていると、大連港に輸送船が漸く入港を開始した。

憲兵隊の制止と怒号、もみ合いになる民衆の声・・・。

先の日本軍による関東軍、いや逆賊征伐によって大連軍港には撤去も修復もされてない反乱軍艦艇がいくつか転がっている湾内では、手製の筏などで逃げようとする人々が幾つも居たが、無事山東半島に行けた人間はその1割もなかった。


「重装備も無いのに守れと言うのは俺でも無茶だと分かるからなあ・・・」

「護衛艦から主砲でも下ろします?」


小林参謀長がヤケ半分で言った。

豊田中将は笑えんなと思いながら、一隻の艦影を見て直感を得た。


「そうだ、36センチのアテはあるじゃないか」

「何を言っているんです?」


小林参謀長が首を傾げ、豊田中将は指を湾内で着底している<金剛>に向けた。


「あるじゃないか、デカイ大砲を積んだ戦艦が一隻。

 それにだね、私は海軍の戦艦がただの逆徒として終わるのは悲しいと思うのだよ」


嶋田繁太郎の同意を得たこの<金剛>活用方策は採用された。

<金剛>の釜をよく知る古兵や技術者、昭和天皇の裁可から引き抜かれた<比叡>乗員などで構成された"菊水隊"は、その後の大連攻防戦に於いて赫赫たる戦訓を記録する事になる。

ただ小林参謀長だけは、自身が航海畑と言う事もあってもう動けない戦艦がただ一人戦うのを見るのが辛かった。

彼は役目を果たした<金剛>が退艦完了後、爆破処分される事を良く知っているからだ。

彼女をここまで酷使するのが、彼には納得しづらかった。


3月9日、大連軍港日本陸海軍合同前線司令部


ソ連軍は越境から一月ほどの間でほぼ満州の全域を確保していた。

新京も2日前に陥落し、最後の一押しのために戦力を再編している。

ヴァシーリー・ブリュヘルはNKVD極東部長のゲンリフ・ルシュコフが、ソ連に亡命した辻の資料をよく参照し、昨今の予算問題などにより成立しなかった装備の旧式化を基に攻勢をしてきていた。

装備旧式化問題はソ連軍の中にも存在した問題ではあるが、前線兵力では部隊の動員が進んでいなかったのもあって日本軍にあまりに不利であった。

日本本土の師団から兵士を引き抜いたり、常時完全動員された師団を常に貼り付けれる予算や人的資源の贅沢が日本には許されないのである。

この頃陸軍の師団数を"書面上だけでも"盛るべく二個連隊師団を編成するかの判断が出たものの、陸軍内部から理論的に無意味と言われコンパクト師団は棄却されている。

対する赤軍もさほど動員がされているわけでもなかったが、あっさりと崩壊したため対して苦労をする事も薄かった。

途中から再編された日本軍の騎兵や一部独立自動車化部隊が機動防御や夜襲を用いたり、西住大尉の戦車が浸透して後方を遮断するなどしたが、大局を覆すものではなかった。

それでも彼らは任務を果たしたと言える、何故なら市民脱出の時間は稼いだのだ、無いよりずっと良いものであった。


「それで、敵軍の規模はどれくらいかね」


"戦上手の宮様"こと、東久邇宮は本土から増援--臨時で第八師団を中心に本土より引き抜いた--を連れてきた閑院宮に尋ねた。

戦場なので、形式ばった事は抜きにして俺貴様で話している。


「航空偵察と京城の分析だが、ざっと見積もって歩兵師団二個分だ」

「なんたるブルジョワ、一万五千の寄せ集めしかおらんのにな」

「その内陸兵として正規に務めているのは軽傷含んで六千四百、あとは警官にまでライフル握らせてる訳だ」


そう皮肉を言い終え、閑院宮は本題に入った。


「で、俺とお前は良いとしてだが・・・兵たちをどうするんだ?」

「そこが問題になる、兵に死ねと言うのも嫌だしなあ」

「俺とお前はともかくなあ・・・」


城主が落城で腹を斬るのは納得出来るけど、兵まで連れて行くのは違うよなあ。

そう言うシンプルな問題が彼らに残っていた、兵は将軍じゃ無くて天皇から預かった借り物なのが皇軍な訳であるからして、指揮官と共に死ねは筋が通らん。

しかしながらどう考えてもこのままなら明らかに自分ら諸共死ぬ事になるだろう。

海軍は大井とか言う態度の偉そうな佐官が駆逐艦にも負傷者乗っけて下げろとか滅茶苦茶言っている。

鼠輸送だのと言われながらも、海軍が何とか態勢を立て直して移送はしている。

少なくとも駆逐艦が何隻か沈んだが、それでもここ数日は撃沈されていない。

航空機も両軍息切れしてきたので落ち着いているが、次どうなるかが問題だ。


「こっちの戦力は寄せ集め一万五千、火砲が手当たり次第総計して200ちょっと、戦車と装甲車合わせて80。

 敵はざっと四万近くで、防御の要の火砲が明らかに質的量的劣勢、どう考えても虐殺だな」


そんな中、扉が開く音が聞こえる。

振り返ると、海軍の制服を着た軍人が居た。


「海軍さんか、聞いても気が滅入るぞ」

「いえ、良い話を持ってきたんです。」


その男はニッコリ笑って、菊水隊と書かれた書類の束を渡した。


「どうも、海軍臨時集成特殊作戦部隊、菊水隊の隊長の伊藤整一です。」

「どうも。しかしそのなんだ、海軍さんが何を」

「絶対にソ連軍じゃ勝てない砲火力の支援を連れてきたんです、これなら喧嘩になるでしょう?」

「オイまさか」

「戦艦<金剛>の36センチ砲による直接照準射撃を以て、貴方達の援護します。」


二人は呆気に取られ、そして笑った。

どんな地獄にも救いはいつだって存在するんだな。


3月12日午前6時、大連軍港外郭陣地


朝靄が辺りを覆い尽くしていた、あちこちで放棄された物資があったのと、燃やして良い紙が幾らでもあるので、大連から半円形に構築された25キロ半径の防衛陣地の兵士は暖かい食事とお茶は保障されている。

だから冬服が間に合わない兵士が風邪をひいたり腹を下して衛生問題を起こす事も極々僅かだった。

塹壕で飯を喰うってこんな気分なのか、陸軍一等兵の階級章をつけた青年は配食された豚汁を飲みながら敵地となった満州を見張っている。


「おう、大丈夫か」

「あ、分隊長。おはようございます」


青年は振り返らずに言った、こう言う視界では視線を逸らすと鉄拳モノだ、だから逸らしてはダメだと前線で覚えた。

分隊長は何処からか手に入れた外套を渡した、おそらくどっかの部隊が棄てたやつだった。

新品同然、ごわごわして堅い。


「それと良い知らせと悪い知らせがある」

「戦争終わったんです?」

「お前戦場出て面が厚くなったな・・・。違うぞ、上が避難完了が2日後には終わるからそれで撤退出来るって公表した」

「悪い知らせって?」


分隊長は静かに言った。


「敵が見過ごす訳ないから奴ら必死になって突っ込んでくるって事。」


122mm砲弾が風を切る音が聞こえたのは、数秒後だった。

3月12日午前6時、ソ連軍は満州最後の日本軍陣地に大攻勢を開始した。
























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