斯くして演壇に演者は登壇する。

憂国。

自由が乱用され不道徳に至れば、独裁の力がすぐに生まれてくる。

-ジョージ・ワシントン-


1936年2月10日、ジョージア州演習場


スタンレイは何かの間違いがこの世界には多過ぎると感じていた。

彼の階級章は陸軍大佐を表すものになっていて、彼の指揮下には機械化歩兵連隊戦闘団があった。

彼の上官だったアイゼンハウワーはやっぱり今も上官で、かつての独立第一機械化連隊は改組され機械化旅団戦闘群となり、その中の一個連隊がスタンレイの指揮下にある。

・・・つまり、一時的ではなく正式に彼は指揮官にされたのである。


「謀られたんだ、間違い無いな、相当あの人怒らせたな」


スタンレイ大佐は6年の経過で堀が深くなった顔を片手で摩った。

無論であるが軍隊で無能が出世するのは難しい、彼が出世したのは少なくとも才能、もしくは誤魔化しを効かせれるくらい頭があるかになる。

そこでいうと彼は後者に部類する人間だ。

彼はロンメルほど攻撃に積極性があるわけでもなく、モントゴメリーほど守勢でも無いが、状況を広く見るのが妙にうまかったし、積極さは十分だった。


「第二大隊が敵陣地奪取に掛かりました」

「少し焦り過ぎてるな、3分かけて迫撃砲撃っても良かったのに」


副官の報告と共に、スタンレイは双眼鏡を覗き込む。

ペイント弾を装填した自身の指揮下の大隊の兵士たちが銃撃戦を繰り広げている。

フランス系のヘルメットに爆発物の破片防護として鋼の鎧を着込んだ突撃歩兵がフェドロフ突撃銃とZB26のあいの子の様な、レミントンM1929突撃銃を乱射しながら突入する。

48発装填、バイポッドに木製グリップのこの突撃銃は些か取り回しに難があるが、野戦に於いてこれほど兵士から好まれる物もない。

6.5mm弾をぶち撒けて小銃班が瞬く間に小銃小隊の如く撃ちまくるのだ。

ただ大抵の兵士は28発マガジンをつけている、みんな48発マガジンは長過ぎて伏せる際困るからだ。


「第三大隊のあいつら、中々やるじゃないか」


双眼鏡を覗き込みながら、興味深い動きを見かけた。

死亡判定の者から拝借した短機関銃を装備した小隊が頑張っている。

塹壕内、室内戦ならレミントンM1928短機関銃が物を言う、使えるものをかき集めて即戦力で纏めるにしてはいいじゃないか。

レミントンM1928はフランスで構想だけ進んでいた短機関銃のライセンスを買って参考にしたもので、MAS社の影響もあり南部連合銃火器を更に強化した栄誉ある小火器だ。


「うん、うん、実に良い。あの鼻垂れボーイズもサマになるじゃないか」


スタンレイ大佐の口に、珍しく緩みがあるのに副官のオリスカニー少佐は気づいた。

オリスカニー少佐はこの歳32歳、金色の髪をポニーテールにしてまとめているのが特徴的で、彼女が着ればグレーの軍服もそれらしく見える。

連合国軍は人的資源の不足とプロテスタント教会の影響やらで女性社会進出に先進的だった、何せそうでもせんと人が足りんのだ。

保守思想で飯が食えたらそうしてやるがそうもならんから革新的な道を選んでいるのだ。

彼女が少佐になれたのは才能もあるが、生家が南部の数少ない重工の経営者だからである。

彼女は高貴な義務として軍役に就き、祖国に献身するためにここに来た。


「えぇ、突撃歩兵も相互援助出来る様に動いています。大隊同士の演習でこれだけいければ良い方でしょう」


オリスカニー少佐は今回の演習の経過を纏めた紙を見ながら言った。

第3大隊は先発させた先遣小隊でゲリラ戦をして要所の高地を確保した、第二大隊は堅実に攻めつつ突撃歩兵を選抜して後方に浸透しながら装甲車の援護をつけて丘を攻め上っている。

もう少し待って第二大隊が擾乱砲撃を仕掛けるのも良い案だったろうが、第二大隊の大隊長は「敵がそれをする前に混戦に持ち込む」事を選んだのだろう。

鶏が先か、卵が先かではないが、これは永遠に存在する戦場のジレンマの一例だな。

スタンレイ大佐がそう思いながら、決着がついた。

第三大隊が味方の塹壕ごと高地を吹っ飛ばして後退を開始したのである。


「思い切ったな」

「倫理道徳的にはともかく、一時は凌げますね」

「だが次はまあ、無理だな」


スタンレイ大佐はそう呟いた。

演習が終わり、AARアフターアクションレポートを読んだスタンレイ大佐は、あの友軍ごとの砲撃は大隊長戦死に伴い権限を委譲されたウースター砲兵中尉がヤケクソで命令した事を理解した。

あの時点で第三大隊にはろくな残弾がなく、塹壕内で白兵戦やるより塹壕の多少の味方を贄に突撃躍進中の敵歩兵を吹っ飛ばす事を決断したらしい。


「・・・撃つのが遅かったなそりゃ」


考えは良いんだがなァ。

スタンレイ大佐は、大概の問題は火力でぶっ壊せると確信していた。

火薬の力は強靭な意思を粉砕し、強固な敵陣を破砕する。

彼はイギリス軍の信号拳銃を改造した擲弾銃を臨時で溶接し、カービンにつけてライフルグレネードより柔軟さと火力を両立し得ないかと言う実験を今度することにした。


1936年2月26日、帝都


冬の深夜の東京を幾つかの早足の軍靴の足音が響いていた、世界大戦により発展しビルがちらほらと立ち始めた東京の夜はこの時代の日本にしては明るいが、他の諸列強ほどでは無い。

彼らの数は約600、当初なら近衛第三連隊六中隊も来れる筈だったのだがその指揮官であり、今回の蹶起の戦術指揮官だったはずの安藤大尉が東條英機と永田に目をつけられ"不忠の疑い"をかけられて満州送りにされたのだ。

その結果として彼らは当初中止することも考えはしたが、今更辞めますと言えるわけ無く計画を強引に修正した。

消極的な大蔵大尉を代わりに抱きこんで、香椎警備司令官と柳川第一師団長に内諾をどうにか取り繕えた彼らは君側の奸を取り除くべく彼らの辞書の中でいう"義挙"を開始した。

一般的には暴挙と呼ばれるのだが。


「叛乱兵が!!陛下の顔に泥塗りおって!!」

「五月蝿い!問答無用!天誅ーッ!!」


南部14年式の銃声が轟き、松尾伝蔵大佐と岡田啓介総理は床を紅く染めて倒れる事になった。

検死の結果、岡田啓介総理は概ね19発は撃たれた事が判明している。

同時刻、教育総監渡辺錠太郎氏も殺害され、鈴木貫太郎侍従長も同時刻叛乱兵の襲撃に死亡した。

牧野伯爵は銃撃されたが撃った拳銃が94式拳銃であり、牧野伯爵が撃たれた際倒れて気絶したのを即死したと誤認された事で辛うじて生還した。

また、高橋是清は当時大蔵省で第四艦隊演習時の損傷に関する補正予算の話し合いで急遽横須賀鎮守府に赴いていた為襲撃が空振りに終わった。

西園寺元老は襲撃を受け出血多量ではあったものの、彼に世話になった女中と妻が庇った事から即死では無く重傷であったが5日後死亡した。

そして、異常事態に気付いて官邸に潜入した迫水秘書官達が目撃したのは皇道派将校が制圧した官邸と運び出される岡田啓介総理の遺体だった。


彼ら皇道派将校達が何故蹶起などと言う行為に至ったかは簡単だった。

まず昭和天皇の「憲政の常道を守って立憲主義を守るように」と勅語を拝し奉り、美濃部告発と天皇機関説に岡田啓介は真っ向から反対したのである。


「学説の排除は皇国に良くない」

「そもそも論説の批判がおかしい、外国に天皇制をどう説明するのかの論議で名前が似ているからと機関車などと同一視と言うのは無茶苦茶」

「天皇主権は憲法上そうであるが、立憲により政府と共に、国民と共にあるのも事実だろう」


などの発言はなまじ正論だったが、キレの良すぎる正論は反対派を憎悪の渦に突き落とすものである。

続け様に起こった真崎更迭と永田の朝鮮軍送りによる喧嘩両成敗をより偏見に歪んだ眼で見させたのである。

これにより真崎は陸軍三長官を追われ、総理への道も絶たれ、合法的皇道派政権樹立も絶たれた訳である。

まあ意思薄弱と言うか曖昧模糊な彼がなったところでどうするのかと言う問題があるのだが・・・。


斯くして政権皆殺し目的のテロを成功させた皇道派であるが、彼らの敬愛する天皇が与えたのは死であった。

何故なら天皇陛下の意向とは立憲君主制であり、極論してしまえば自分抜きでも国が纏まり、動く事であり、このようなテロではないからだ。

事実上機能停止し、政務運営が不可能な日本政府は緊急事態から皇道派最大の野望天皇親政を、皮肉にも皇道派鎮圧のために起動した。

開国以来の天皇制の最終手段、国家の非常停止ブレーキとしての天皇制の使用である。


直ちに昭和天皇は宮中で報せを受けると普段の口癖の「あ、そう」を封印し、類い稀な即応対処を開始した。

まず非常事態臨時内閣を設置して法的正当性を担保し、直ちに同調者が現れ出し拡大するのを食い止めにかかった。

蹶起に同情的に大角海軍大臣を「叛乱者に同調せしむ動き」と即座に解任した昭和天皇は、憲法で保障された命令権によって海軍陸戦隊と近衛師団で構成された緊急展開部隊を用いて帝都包囲線を形成。

警視庁抜刀隊などの臨時編成部隊も組み込むと市街戦も辞さぬとばかしの包囲網で蹶起軍の拡大を抑止した。


しかしながらこれについて陸軍や海軍の皇道派上下将校たちやその同調者・同情的な者達は少なくなかった。

彼らが手をこまねいている間に蹶起軍は三千六百八十名を超え、当初の大隊規模を遥かに上回っていたのである。

しかも野戦砲はともかく重機関銃や数両の戦車も持ち出されており、銃撃戦が散発的に包囲線部隊とで繰り広げられていた。

東京湾では井上成美などによる政府忠誠派の軍人により、戦艦<加賀>や<天城>が砲身を向け、お召しの光栄を賜った<比叡>は改装途中なるも臨時陸戦隊を構成していた。


そんな中陸軍では奇跡が起きた。

今まで散々に対立して揉めてきた石原莞爾と東條がこの国家緊急事態で呉越同舟を選択したのである。

石原莞爾はこの蹶起に未来がないと感じ、東條はそれ以前に陛下に弓引く逆賊はナンセンスと考えた。

利害一致から来た同盟により強硬策、すなわち逆賊征伐案は開始された。

皇道派に交渉の名代を頼まれた秩父宮殿下の和解案を激昂して一喝し、他の皇族軍人も「逆賊に加担するつもりはない」と断られた時点で皇道派の完全瓦解は決定的になった。


横須賀鎮守府第一特別陸戦隊による河川遡上と近衛師団及び臨時編成警視庁抜刀隊による逆賊征伐は2月28日、開始された。

紀伊型航空母艦から発進した海軍第一航空戦隊は艦上爆撃機による急降下爆撃でピンポイントな航空支援を行い、89式やハ号軽戦車が皇道派の陣地を食い破っていった。

皇道派将校は事態に動揺し、兵士たちは話が違うじゃないかと戦闘を止め、征伐は死者92名負傷361名の人的損害を出して終了した。

幸い、民間人被害は発生しなかったが民間財産への被害は多数存在し、昭和天皇の"粛軍"の好材料となった。


1936年3月8日


西南戦争以来の内戦の危機を迎えた事に世界はかなりの衝撃を受け止めたが、当然外より中の方が大騒ぎであった。

次期総理、もしくは後始末担当を誰にするかで近衛を選ぶ案も出たが、思いつきのポピュリズムの信徒にそんな気概がある訳なく拒否した。

統制派による永田軍政をすることも計画には上がりはしたが、そんなことをすれば天皇の意思を否定するとして永田は治安維持に専念するとした。

その結果永田を言うこと聞かせれる人材として、廣田外務大臣に白羽の矢が立つ。

昭和天皇からの"厚い要請と期待"を就任時に投げかけられた廣田総理大臣は、やや自身には荷が重い気がしたが断らなかった。

庶民出の彼としてはここで頑張らねばと言う意思があったが、晩年の昭和天皇は「彼に悪い事をしてしまった」と後悔の念を記している。


大き過ぎる責務を抱えて始まった彼の内閣は早速暗礁に乗り上げた。

山下や武藤と言った皇道派残党の組閣人事への抗議である。

これを「非常事態!」の一言で強硬的に切り捨てた永田の強烈な一撃と、表向き検討する素振りで誤魔化すと彼らは石原と東條との結託を開始する。

上手く身代わりとして「栄えある皇軍の名誉を取り戻す魁」と寺内陸軍大臣を唆した石原莞爾や永田は、東條の憲兵のまとめ役と言う点を活かして彼の計画を寺内に見せずに素通しした。

寺内陸軍大臣は自分が何かした訳じゃないが事態が進むので疑問に思っていたが、気付いた頃には既に天皇監査済みの印も署名もあったし、言質が抑えられていた。


結果として陸軍海軍に一気に吹き荒れたのは大粛清の嵐であった。

それは徹底的とすら言える勢いで、同時期に吹き荒れんとしていたソ連の大粛清よりはマシと言うだけのものだった。

事の元凶とも言える真崎は予備役の資格すら剥奪されたし、係累であり引き伸ばし工作をするなどした山下将軍も予備役に編入された。

また、銃殺隊は引っ切り無しに銃を撃つことになり征伐時の死者と同等の"政治犯"又は"逆徒"が銃殺に処された。


一通りの粛清を終え、臨時内閣は電力国家統制法や流通の統制を完了した。

これは統制派の派閥云々というより協力についての廣田なりの対価であった。

この頃通運公社の設立を構想され、1937年日本通運として正式に創設されることとなる。


臨時内閣はその任を終えると用済みとばかりに寺内から林銑十郎に陸軍大臣を切り替えた。

これは浜田議員との腹切問答が原因であり、文民政府が主で軍部が従!と言う鉄則を守らせると言う意思決定の表れであった。

また、この一件により陸軍現役武官制も主張していた寺内の解任で崩壊した。


なお、廣田の後任として外務大臣になったのは以前から廣田と共に英国との協調政策を行なってきた吉田茂である。

彼はアウトとセーフの間にある壁を綱渡りするような男であり、時に軍人より過激な事を考え実行したりもしていたが、事の後始末と合法性の確保に関しての余念のなさは流石の切れ者であった。

吉田茂は外務大臣として協商のメンバー、すなわち英連邦とフランス、ストレーザ戦線を形成するイタリア及びアメリカ連合国を飛び交っていた。


しかしながらこの状況で、陸軍1番の問題児共が動き出した。



関東軍、或いはタチの悪い事実上の支那軍閥と呼ぶべき文民統制も知らん石原莞爾の隠し子である。


1936年7月7日


5月、立憲君主制としてなんとか存続を図りながら生き足掻こうとしている清朝と和解する事で赤字と問題が多い大陸の安定化を図る日本政府は、北京に近い満州国境の防共自治政府を清朝に返還する事を計画した。

北支派遣軍の縮小、戦線の安定、偶発事件の未然予防、そして気が触れてるとしか思えぬモンゴルのウンゲルン問題。

清朝が安定すれば満州の権益はともかく管理は引き渡してもいいだろう、かの故地であるなら統治も安定しやすいだろうし。

そう言う考えはあまりに儚いものだった。


7月、皇道派の首魁たる荒木が最後の大博打、関東軍の独自行動を開始したのである。

すなわち、一個軍が本当に反乱した。

しかも同地にいる北支派遣軍の早期鎮圧も牟田口連隊長の妨害工作と寝返りによって完全に失敗、遼東半島沖合で遊弋していた<金剛>と<榛名>も海軍皇道派将校に奪取され、皇道派最後の賭けが始まった。

朝鮮人特殊部隊の間島特設隊や蒙古騎兵が関東軍をさらに裏切って、朝鮮軍司令部の指揮下に入ったが、事態は深刻だった。


永田は賊軍の征伐を宣言し当時軍官学校で朝鮮人将校育成などをしていた牛島将軍や、朴正煕などの朝鮮人将校もかき集め征伐を開始する。

しかもこの頃ソビエト連邦のジューコフ将軍は「現地ロシア人の要請に基づき」"義勇的自警団"の進駐を開始するか尋ねたものの、スターリンは今は不適切と考えた。

彼らがそうであるように我らにも粛清の時間がいるのだ。



黄海では<陸奥>の主砲弾で<榛名>が大破し傾斜しながら戦闘力を喪失した。

大連の港では<金剛>が間島特設隊に推進器を潜水工作で爆破されて港から出れず大破着底している。

満州の陸海空で戦闘が繰り広げられる一方で、アメリカ連合国にも危機が迫っていた。


アメリカ連合国の人気政治家ヒューイ・ロングが35年7月に暗殺されたが、それがFBIによる工作とする噂から端を発する緊張が日本の混乱によって火がついたのである。

メキシコ第二革命以来燻っていた失火が、ついに燃え始めたのである。


1936年5月7日午後20時、テキサス州国境警備隊ボーダーパトロール緊急報告書


機密分類:軍及び行政機密A級機密権限者のみ閲覧可

報告分類:越境可能性報告

識別分類:軍事作戦動向


我々の長距離深度偵察隊の報告によりますと通常編成では無い"北軍"が鉄道により増加しています。

電子的及び目視偵察の結果、集結しつつあるのは北軍の自動車化歩兵及び半自動車化騎兵を有する1個または2個連隊規模の部隊と推測されます。

彼らは集積場に物資弾薬の輸送を開始し、電波封鎖を保ったまま移動を開始しました。

テキサス州国境で武力衝突事態が発生するのは不可避と思われます。

至急、北部国境への増派をお願いいたします。


発:テキサス州国境警備隊北部地区司令部

宛:連合国軍テキサス管区司令部及び国境警備隊本部



【返答】

返信者:テキサス管区ヒューストン司令部


テキサス州知事の要請に基づき連合国軍はスタンレイ大佐の連隊戦闘団を緊急展開軍として派遣する。

また、夜が明け次第航空偵察隊を編成し貴官たちを支援する。

国際情勢を鑑み先制攻撃は許されない、戦闘回避困難な場合を除いて発砲を控えよ。

諦めるな、増援は向かっている。







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