世界の美しさを知った日に僕は、

佐武ろく

世界の美しさを知った日に僕は、

 目覚ましに頼ることなく目を覚ました午前9時。

 寝惚け眼のままベッドから下りた僕は珈琲をセットし洗面台へ。スッキリとした顔で再びリビングへ戻る頃には珈琲の香ばしい匂いが僕の肺を満たした。

 湯気立ち昇る温かな珈琲入りのカップを手にベランダに出ると秋の寂しげな風が頬を撫でる。欄干まで足を進めれば暖かな陽光が少し冷えた僕を包み込んだ。少し眩しくて暖かい。眉間に皺を寄せながら朝日へ挨拶をしてから珈琲を一口。内側に温かさが広がり、少し苦いけど珈琲の心安らぐ匂いが鼻から抜けていく。

 思い思いの形を成す雲が疎らに漂う蒼穹そうきゅうは悩み事なんてなさそうで自由だった。


『自分を生きた雲だと考えてみなさい』


 雲を眺めているといつの日だったが聞いた言葉を思い出した。もし僕が雲だったのなら一体どんな形をしているんだろう。想像すらつかない。それとあんなに純真無垢な夢と希望に満ちた子どものような純白をしてるのかすらも疑問だ。もっと雨雲のように黒く重い色をしていそう。そしていつの日か耐えきれなくなって雨になるだ。

 そんな事を考えながら珈琲を一口。口の中で広がる香りと味を感じながら僕は朝日照る街へ視線を戻した。

 こんなにゆっくりと朝を過ごしたのはいつぶりだろうか。

 穏やかで暖かで、ほんのり寒く芳ばしい朝。しばらくその時間を楽しんだ僕は中へ戻りパンを準備した。

 朝はパンに限る。菓子パンと総菜パンを一つずつ。それと珈琲。これが僕にとって最高の朝食だ。更に時間がある時はこれに加えて動画なんかを見ながらゆっくり食べると、これまたワンランク上がる。

 美味しくも楽しい朝食を終えたら珈琲を追加してソファに深く腰掛ける。読みかけだったあの本を持って。背もたれに体を預け本を開けば紙の香りがほんのり鼻腔を刺激する。

 一度深呼吸しその香りを堪能してから僕は使い慣れ見慣れた母国語で綴られた物語へ視線を落とした。これまでのあらすじを思い出しながら続きから読み進めていく。気が付けば僕は物語に没頭し夢中になって文字を追っていた。文字しかないはずなのに、漫画よりも詳細で映像よりも鮮明な場面がそこには存在している。明確な絵が無いが故に宇宙のように無限大な想像力が五感すら刺激してしまいそうな物語を僕に見せてくれていた。

 時間も忘れ一気に残り半分を読み終えると余韻がじんわりと全身へ広がる。目を瞑りながら背もたれに頭を乗せ顔は天井を向け心地好さを最後の一滴まで堪能した。

 余韻がじっくりと消化されていくと僕は目を開けすっかり冷えた珈琲を口に運ぶ。それから僕はお気に入りの服に着替えると目的も無く外へ出た。


 秋風が体を駆け抜ける過ごしやすい気温の中、イヤホンから流れる音楽を聞きながら人混みを歩いていく。いつもと違い視線は前を向いてたからかすれ違う人々の色々な顔色が伺えた。スマホに視線を落とす人、眠そうな人や疲れの見える人、元気のない人。みんなの顔が語る世の中の世知辛さ。

 そんな人々の人混みを歩いていた僕はふと足を止めた。視線の先にあったのは大きな映画のポスター。それを少し眺めた後、足は映画館へ。ポップコーンに飲み物を買って準備万端。

 久々に映画館で映画を見た。やっぱり家で見るのとは迫力が違う。そんな当たり前の感想を胸に映画館を出ると通り雨でも振ったのか地面が少し濡れていた。空を見上げると雲一つない青空が広がり陽光が温かく降り注いでいる。もう雨の心配はなさそうだ。

 太陽に見守られながら僕はまた適当に歩き出した。道端に溜まった小さな水溜まりが陽光を浴び宝石のように光り輝く。その横をどんよりとした人が水溜まりなど目もくれず歩いて行った。


「こんなに綺麗なのにもったいない」


 小さく呟く。

 すると前の方に何やら電話をしながら言い争ってる女性がいた。僕は丁度進行方向にいたこともありその女性を見ているとその向こう側に幸運を発見しすぐさま視線を移す。

 そこには青空を背景に大きな虹がかかっていた。


「今日はツいてるな」


 1人笑みを浮かべ怒声を上げる女性の横を通り過ぎた。

 さて、そろそろお昼ご飯でも食べようか。そう思った僕は何を食べようか考えながら俯く人混みの中を歩いた。


「あっ。ここにしよう」


 僕がそう足を止めたのは鉄板焼きのお店。しかも偶然にも前から一度は行ってみたいと思ってたけど高いし中々行けなかったお店だった。

 静かに鳴いた腹の虫をお腹越しに撫でてやると早速、中へ入りオススメのステーキを注文。目の前で焼いてくれるシステムは見てるだけで楽しく、更にお腹が空く。

 そして焦らすように美味しそうな匂いが漂った後、念願のお肉を口へ運んだ。柔らかで口を動かす度に旨味が口一杯に広がる。ひと口だけでも心は満足に満たされる程に美味しいのにそれをまだ味わえるなんて。僕は煌々とした目の前の肉を眺めながら口角を上げた。


「おしいぃー」


 それからも美味しい昼ご飯の時間を過ごした。ご飯を食べながらシェフと少し話をしてたんだけど、どうやら最近は経営があまり良くないらしい。このままだと危なく色々と悩みがあるなんてことを言っていた。全く状況は違うけど僕も悩みが絶えず辛い時期を過ごしたことがあるからこの店の風向きが良くなり彼が少しでも楽になる事を願うばかりだ。ささやかな応援の意を込めて予定より数品だけ多く食べた。

 お店を出るとそれからも僕は音楽を聞きながら当てもなく歩き続けた。

 いつもなら目に付かない道端で懸命に咲く花を見たりどこからか流れてきたシャボン玉に足を止めたり。空がこんなにも青い事を知って太陽がこんなにも温かくて優しい事を知って。この世界の至る所に素敵がバラ撒かれている事を知った。

 今までこんなに世界が宝箱みたいだなんていままで気が付かなかった。多分、電話越しに頭を下げ謝るあのサラリーマンも信号待ちで溜息をつくあのOLも光の消えた瞳をしてるあのお兄さんもあのお姉さんも。みんな知らないんだ。どれだけこの世界が煌びやかで美しいかを。

 もしかしたらこれは僕のような人に与えられた余裕という名の特権だ。何も気にすることなく世界を感じられるという特権。ならば最後の一滴までそれを味わおう。


 それから僕は街を歩き様々な素敵と出会った。その中でも空を真っ赤に染める夕日は中々に格別だ。ちなみに夕食はお寿司を食べた。しかも回らないやつ。緊張したけどビックリするぐらい美味しかった。

 そして夜の静けさの中、僕は家のベランダで高級なお酒の入ったグラスを手に夜空を眺めていた。部屋の電気は消して。

 いつもなら俯きっぱなしで帰り道でさえ見上げることのない夜空がこんなに綺麗だったなんて知らなかった。まるで宝石でも散らばめたみたいに星々が煌々としている。アンドロメダにくじらにやぎ。名前は知っていてもどこにあるのか分からない星座。きっとその他にもこの空には沢山の星座があるんだろう。そう考えると夜空がみんなが集まって賑やかな宴会をしているようにも見えてきた。となるとどことなく星座に混じって有明月が笑っているようにも見える。

 あぁ、夜景の歯車になるよりも早くこの夜空の一部になりたい。だってこんなに綺麗ならきっと楽しいはずだから。

 それからもお酒を飲みながらただただ夜空を眺めていた。何もしなくていい、それだけで気分は漣のように心地好い。それに更に酒が入りまるで天国にいるような気分だ。

 どれくらい時間が経っただろう。いや、そんな事はもうどうでもいい。僕はグラスの酒を一気に飲み干した。

 するとすっかり酔いが回った頭でふとこんなことを思った。僕がこうしてる間も必死に働いている人がいるんだと。頭を抱え眠い目を擦り頑張ってる人がいるんだと。彼らもしくは彼女らの為に僕が出来る事は無いけどせめて......。

 僕は最後の酒をグラス一杯につぎ一口だけ飲んで欄干の上に置いた。


「あなたの人生が少しでも良いモノになりますように。あなたが少しでも笑えますように」


 両手を合わせそう祈りを捧げた。


 そして僕は今日という素晴らしい日に別れを告げ暗闇に包まれた。

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世界の美しさを知った日に僕は、 佐武ろく @satake_roku

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