眠れぬ夜の過ごし方

日中は慌ただしく動き回っていた住み込みの使用人達が仕事を終えてそれぞれ寝床に付いた頃。月明かりが射し込み、神秘的な光がぼんやりと照らし出す自室の窓際で、マルクは一人で筆を取っていた。


キャンパスに向き合う彼の傍らのテーブルの上ではランタンの小さな炎がゆらゆらと揺れ、キャンパスの上に絵具で描かれた絵を照らし出す。時折何かを思い返すように窓の外を眺めながら作業を進めていたマルクは、おもむろに筆を取る手を止めた。


「…うん。こんなところかな……」


そう呟いて筆を置いた彼の正面に鎮座するキャンパスには、昼間レティシアと共に繰り出した城下町の風景が描かれている。まるですぐ目の前にその景色が広がっているかのような、喧騒が聞こえてきそうなほどに精巧精密に描かれたそれは、短時間で描かれたとは思えないほどの完成度を誇っていた。


だが、これでもまだマルクの本気とは言い難い。風景画を選んだのは、自身のオリジナリティを出すことなく、ただ記憶に残る光景をそのまま絵に描き出すことが出来たからだ。今の彼は、自分が一から構想したものを描き出すための想像力を働かせることが上手く出来ない状況に陥っていた。


これも一種のスランプと呼べるのかもしれないが、解決の糸口は未だ見えず。マルクは完成した絵を前に強張った身体をほぐすように背伸びをした。


「…まだ夜明けにならないのかな……」


軽く腕を回しながら、マルクは再び窓の外へと視線を向ける。絵を描き始めて、どれだけの時間が経っただろう。いつの間にか月も高い位置まで昇り、窓から室内に射し込み床に伸びる月光も随分と短くなってしまっている。この屋敷に住む全員が寝静まっているだろう最中、マルクだけは未だ眠ることが出来ずにいた。


いや、正しくは身体が眠ることを拒絶していた。視界が暗闇に閉ざされれば、炎に包まれた残酷な記憶を呼び起こしてしまう。全てが灰燼と化し、何もかも失ってしまったあの日の絶望を思い出してしまう。


温かい毛布に包まれても、まるで極寒の真っ只中に裸で放り出されたように身体の震えが止まらない。呼吸と動悸が乱れ、寂しさと心細さで心が張り裂けそうになる。あの惨劇の夜から、マルクはほとんど眠ることが出来なくなっていた。


そんな眠れない夜に、マルクはこうして筆を取って絵を描いていた。もっとも、ようやく描けるようになったのは今夜になってからで、今までは真っ白のキャンパスを見つめながらぐちゃぐちゃの構想を何とか形にしようとしている内に朝を迎えていたのだが。


この様子では、今夜も眠ることは出来そうにない。マルクが次の絵に取り掛かろうとしたその時、自室の扉が静かに開かれた。


「何だ、まだ起きていたのか」


「れ、レティシアさん!?」


半分ほど開かれた扉から中を窺うように顔を覗かせたのは、まるで星の瞬きのように僅かな光を反射させて優しく輝く絹のネグリジェに身を包むレティシアであった。


食べる事以外には無頓着で服など面倒且つ不要と言い放ち、全裸で屋敷内を闊歩していたというレティシアを見かねたリカルドが大枚をはたいて商会から取り寄せ、その極上の着心地の良さから彼女に衣服を着る事の常識を植え付けることに成功した文明開花的逸品である。


「ど、どうしてこんな時間に……?」


「小腹が空いて食堂から幾つか失敬してきたところに、ちょうど貴様の部屋の前を通りがかったのでな。様子を見てやろうと思ったのだ」


そう言って、レティシアは戦利品なのだろう両手に抱えたソーセージやチーズ等を口に放る。夕食時にも明らかに身体の質量に見合わない相当な量を食べ散らかしていたはずだが、強大な力を持つ分燃費が悪かったりするのだろうか。


「心配性な貴様のことだ。大方、爺から言われた御前試合が気掛かりで眠れないのだろう。だが、もう夜も遅い。話ならば明日聞いてやるからさっさと寝ろ」


「あ、えと……」


レティシアは恐らくマルクが眠ることの出来ない事情を知らない。だが、マルクは彼女に自分の抱える事情を正直に話すようなこともしたくはなかった。話してしまえば、きっと余計な心配を掛けてしまう。マルクは何かを言い掛けたように開き掛けた口を閉じ、代わりに愛想笑いを浮かべてみせる。


「あ……も、もうこんな時間なんですね。絵を描くのに夢中になってたので気付きませんでした」


「お気楽な貴様らしいな。では寝ろ」


「えと……僕も寝ますから、レティシアさんもお部屋に戻っては……?」


「我が部屋に戻った後、貴様が起きてまた絵を描き始めんとも限らんからな。我は貴様が寝たことを確認してから部屋に戻る。だから寝ろ」


「き、気になっちゃいますよ。ですからレティシアさーーー」


「寝ろ」


「は、はい……」


圧が強い。是が非でもマルクが寝るまで帰らないという強い意志を感じる。こうなるとレティシアはテコでも絶対に動かないだろう。眠れないことはわかっていたが、マルクはレティシアの視線を感じながらベッドの中へと潜り込んだ。


「こ、これでいいですか?本当に寝ますから、レティシアさんも部屋にーーー」


「これから寝る人間が口を開くな。瞳を閉じろ。身体を冷やすな。瞼の裏を見つめることに集中しろ」


「え、えっと……はい」


ベッドに入ればレティシアも帰ってくれると思ったマルクだったが、どうやら考えが甘かったらしい。レティシアはベッドのすぐ近くまで歩み寄ってきたかと思えば、真上からジッとマルクを見つめてくる。


言われるがまま手触りの良い温かな毛布に包まれながら瞳を閉じたマルクだが、やっぱりいつまで経っても睡魔の足音は聞こえない。だが、こうして寝ている体を装えばレティシアも納得して部屋に戻ってくれるだろう。


すると、しばらくマルクの寝顔を見つめていたレティシアはおもむろに手を伸ばし、彼の額に手を触れさせた。


「…思考が乱れている。我の目を誤魔化せると思うな。眠る気が無いのが丸わかりだ」


「う……ご、ごめんなさい」


高性能なレティシアのセンサーには、小手先の誤魔化しなど通用しないらしい。マルクは観念したように瞳を開いた。


「…どうした、何故眠らない?何か理由でもあるのか?」


「えっと……そ、そんな理由なんてあるわけないじゃないですか」


「ならば何故だ?」


「その……あっ、じ、実はまだ身体が痛いんですよ。アイゼンさんに蹴られたりしたところが疼くので、今夜はあんまり眠れそうにないみたいです」


「ふむ……」


咄嗟に思い付いた嘘だが、今日の出来事を思い返せば決して不自然な返答ではないだろう。実際のところリカルドが呼んだ医者によって治療は完璧に施され、痛みなど感じてはいないのだが、それはレティシアにはわからない。これならば諦めて部屋に戻ってーーー


「ならば仕方あるまい。少しそちらへ寄れ、マルク」


「はい?な、何を……わ、わわわっ!?」


腕組みをして何かを考えていたかと思えば、突然の行動に出るレティシア。彼女はマルクから毛布を取り上げ、そのまま彼が横たわるベッドの上へと上がり込んできたのだ。

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