トラブルは突然に
馬車を引く馬はどちらも体格が大きい。振り上げられた硬い蹄は、子供の骨など枯れ木のように踏み砕くだろう。せめて、自分の身体が少女の緩衝材代わりになればいい。マルクはその覚悟で馬車の前に無防備な身体を晒していた。
しかし、ここでマルクの乱入が功を奏した。突然の乱入者に馬が驚き、彼を避けるように身体の向きを変えたのだ。
「おわぁあああーーーーッ!?」
結果、馬の蹄はマルク達を避けて石畳を叩き、手綱を引くはずが逆に引かれる結果となった御者の男は空中へと投げ出された。一瞬の出来事に現場は騒然。なんとか窮地に一生を得たマルクは、両膝を震わせながらその場に立ち尽くしていた。
「た、助かっ……た?」
「う、うわぁあああん!お兄ちゃああぁーーーんッ!」
「このバカッ!だから前見ろって言っただろうが!」
少し遅れて事態を理解したのか、少女は兄の元へと駆け寄っていく。馬の蹄の代わりに兄からの拳骨を頭に受けていたようだが、もう一つの避けられた結果に比べれば何倍もマシだろう。
「よ、良かったぁ……」
とりあえず最悪の結果は免れたようで、一息つくマルク。しかし、降り掛かった事態はこれで終わりではなかった。
「おい、お前ッ!そこを動くな!」
何処からともなく鋭い怒声が飛んだかと思えば、馬車の後ろに追従していたのだろう、強固な鎧を身に纏う大柄な男達が駆け寄って来るなりマルクを取り囲んだ。
「あ、あの、急に飛び出して申し訳ありませんでした。女の子が危ないと思ってとっさに……ぁぐっ!?」
物々しい雰囲気を察し、すかさず謝罪を口にするマルクだったが、いきなり顔を殴られてその場に尻餅をついてしまう。口の中に鉄の味が広がり、殴られた頬と打ち付けた腰の痛みに堪えながら立ち上がろうとした矢先、その鼻先へと鋭い槍の穂先が突き付けられた。
「そんなことなどどうでもいい!貴様、これがどんな御方を乗せているのかわかっているのか!?」
「たかが平民風情が行手を遮るなど、どういうつもりなのだ!子供とて許されることではないぞ!」
わけもわからぬまま、周囲から浴びせられる怒声の嵐。近衛兵が付いているところを見るに、どうやら馬車は何処かの貴族のものだったようだ。
男達の纏う鎧の胸元には天秤のエンブレムが刻印され、馬車もよくよく見てみれば人を乗せるキャビンには所々に豪奢な装飾が施されている。この世界において貴族とトラブルになるということは、大勢の無法者に絡まれる以上に厄介なことだ。唯一幸いであったのは、幼い兄妹が既にこの場から立ち去っていてくれていることか。
周囲からマルクへと向けられる憐れみの眼差し。貴族が相手では、誰も仲裁に入ることなど出来はしない。
ただ、この場における一人を除いては。足を止めた群衆を押し退け、それは一直線にマルクの元へと向かっていく。
「ほ、本当に申し訳ありませんでした。決して悪気があったわけじゃないんです。ですからどうか……」
「いいや、堪忍ならん!二度とこのような愚行を冒さぬよう、思い知らせてくれる!」
「ひ……っ」
近衛兵の一人がマルクに向かって鞘に収まったままの剣を振り上げる。馬の蹄よりは断然マシだが、多少の痛みは許容しなければならないだろう。
両腕で頭を庇うマルクに向かって、近衛兵が情け容赦なく剣を振り下ろす。しかし、横から伸びる腕が寸前のところで剣を受け止めた。
「な、だっ……何者だ貴様!」
驚く近衛兵が視線を向けると、そこにはいつの間に接近していたのか、レティシアの姿があった。フードのせいで表情はハッキリとわからないが、その瞳は底知れぬ怒りに満ち、近衛兵達を睨み付けていた。
その瞬間、近衛兵達に怖気が走る。まるで巨獣の巣に放り込まれたように、恐怖で足の震えが止まらない。目の前にいるのは巨獣とは程遠い、たった一人の女しかいないというのに。
「れ、レティシアさん……」
「貴様……今、何をしようとした?」
ズン、と上から押さえ付けられるかのような威圧感と共に発せられた声に、近衛兵達は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚え、とっさに言葉を返すことが出来なかった。ここで迂闊なことを言えば、死ぬ。そんな言い様の無い恐怖が彼らの間を駆け巡った。
「き、貴様はこの子供の身内か!ならば容赦はしなーーー」
「答えぬならば寝ていろ、愚者が」
恐怖を使命感と蛮勇で打ち消し、再び剣を振り上げる近衛兵だったが、それよりも早く打ち込まれたレティシアの拳が深々と腹部に突き刺さった。
「ぐ、ぐぅおぇ……っ」
装甲に包まれた拳の一撃は紙のようにプレートメイルを貫き、腹部に棍棒で殴りつけられたかのような重い衝撃を受けた近衛兵はカエルが潰れたような呻き声を上げながらその場に崩れ落ちた。
プレートメイルを貫く腕力、というよりも貴族お抱えの近衛兵を沈めたレティシアにどよめく群衆。これ以上の乱暴狼藉は収拾がつかなくなることを危惧して、マルクはレティシアの前に立ち塞がった。
「だ、ダメですよレティシアさん!この人達は貴族様のーーーむぐっ!?」
「黙っていろ、マルク。この者達が何者だろうが関係無い。我は貴様が受けた理不尽な仕打ちに我慢ならぬだけだ」
制止しようとしたマルクだったが、逆にレティシアに囚われて胸の中に抱え込まれてしまった。その間に、仲間を打ち倒されて憤怒に燃える近衛兵達が武器を手にぐるりとマルク達を取り囲んだ。
「お前達……やってくれたな。このままタダでは済まさんぞ!」
「こちらの台詞だ阿呆共が。そもそも市場の雑踏の中で馬車を走らせるなど正気か?コレが庇わなければ、今頃幼子の死体が一つ転がるところだったのだぞ。それとも、貴族にとって平民の命は塵芥のように無価値であると、そのような救えぬ認識なのか?」
「へ、減らず口を……!いいか、よく聞け!こちらの御方はなぁ……!」
「いつまでもグダグダと……何をしている」
その時、殺気立つレティシアと近衛兵達の間に、やや不機嫌そうな若い男の声が響く。直後、蹴破るようにキャビンの扉が乱暴に開き、中から声の主がマルク達の前に姿を現した。
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