空虚な心
「マルク……おい、マルク」
「え、あ……?」
ぼんやりと手元を見つめていたマルクは、レティシアの声に気付いて顔を上げる。分厚い本が山積みになったテーブルの上に両足を乗せ、椅子の背もたれに寄り掛かりながら本を開いていたレティシアが怪訝そうな眼差しを向けていた。
「すみません、考え事をしていたみたいで……どうしました?」
「どうしました、ではない。先程から全く手元が動いていないではないか」
レティシアは本を置いて立ち上がると、マルクの背後へと回ってキャンパスを覗き込んだ。午前中から作業に入ったはずなのだが、キャンパスは一切手が付いていない一面の白。既に太陽は高く昇り、せっかくの油絵具も完全に乾いてしまっている。
「まったくの手付かずか……調子が悪いのではないか?」
「そう……なんでしょうか。おかしいですよね。普段なら考える前に手が動くんですけど、こんなこと初めてで……」
いつものマルクならば、既にこの部屋の床一面が埋め尽くされるほどの絵を描き上げているはずだ。しかし、リカルドの屋敷に居候するようになって早三日、マルクの絵は一枚として完成を見ることはなかった。
せっかくリカルドが揃えてくれた高価な画材も、これでは完全に宝の持ち腐れである。自分でも不調の原因がわからないらしく、マルクは苦笑いを浮かべながら筆を置いた。
「あはは……もしかしたら、環境が変わったからかもしれませんね。リカルドさんも楽しみにしてくれてるし、早く今の生活に慣れないと……」
「…ああ、そうだな」
レティシアはマルクの不調の原因を看破していた。あの惨劇の夜を明けてから今日に至るまで、マルクが自身の本音を口にすることは無かった。常に作り笑いの仮面を被り、落ち込む素振りもなく気丈に振る舞っている。
しかし、不調は顕著に現れていた。食事にほとんど口を付けることはなく、睡眠もあまり取れていないようで目の下には大きな隈が色濃く残っている。
既にマルクの心身は限界を迎えようとしている。しかし、本人が全くそれを感情や言葉として出そうとしないのだ。始めは見守ろうと決めていたレティシアだったが、変わり果てたマルクの姿にその決意は揺らぎ始めていた。
「ん、んんぅ……っ、ずっと同じ体勢だったから、身体が強張っちゃいました。少し休憩して……あっ」
「マルクッ!」
背伸びをしながら椅子から立ち上がろうとしてバランスを崩したマルクを、レティシアは咄嗟に抱きとめた。ただでさえ小柄なその身体が、今にも壊れそうなほど弱々しく感じる。レティシアに支えられながら、マルクは何とか自分の足で立ち上がった。
「あはは……すみません、レティシアさん。ちょっと足がもつれてしまって……」
「…気を付けろ。我がいなければ盛大に顔を床に打ち付けていたぞ」
「ありがとうございます、レティシアさん……あの、レティシアさん?もう大丈夫ですから……」
レティシアから離れようとしたマルクだったが、彼女はマルクの身体を抱いたまま離さない。困惑するマルクが見上げると、彼女は真っ直ぐに彼を見下ろしていた。
「レティシア……さん?」
「マルク、我は……」
言い掛けて、レティシアは口を噤む。そのまま無言のまま見つめ合うこと数秒、彼女は諦めたように溜め息をついた。
「…気分転換に街へ出てはどうだ?この数日ずっと部屋に籠っていたからな。たまには外に出なければ気分も滅入るだろう」
「街へ……?」
リカルドを狙う刺客の影を警戒して、マルク達はリカルドの指示で屋敷から出ることを禁じられていた。しかし、この数日の間に身近で不穏な動きは見受けられない。そろそろ外出しても問題無いというのがレティシアの見解だろう。それに、ずっと村の中で過ごしてきたマルクとしても、一度街中をゆっくり見物したいという思いはあった。
「僕も、一度行ってみたいと思ってたんですよ。じゃあ、リカルドさんに相談してみましょうか」
「面倒だな……まぁ、仕方あるまい。奴から回収しなければならん物もあるからな」
「回収……?」
意味深な台詞を呟くレティシアを連れて、マルクは部屋から廊下に出た。広い廊下の床には真っ赤な絨毯が敷かれ、壁際にはリカルドが収集したと思われる像や絵画といった調度品の数々が鎮座している。それらは本人の趣味が大いに反映されており、ドラゴンの意匠が施されたものが多く見受けられた。
窓の外を見ると、広い庭園には季節に合わせた美しい花々が咲き乱れ、中央には小さな泉も見える。個人所有の庭園というより、そこはまるで天上にあるとされるエデンの園。その広大な庭園では、庭師達が忙しく手入れに勤しんでいる姿が見えた。
マルク達は時折使用人とすれ違いながら廊下を進み、階段を登って最上階の三階へと向かう。そこから伸びる廊下をさらに進んだ先がリカルドの自室である。ちょっとした冒険をしたような気分になりながら、マルク達はリカルドの自室の扉の前に立った。
「リカルドさん、部屋に居てくれればいいですけど……それに、お仕事の邪魔になったら……」
「気配はある。それに、長話をしに来たわけではない。この程度のことで目鯨は立てんだろう」
少し躊躇うマルクの後ろから手を伸ばし、レティシアは扉を三度叩いた。
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