守りたいモノ

決してリカルド達は侮っていたわけではない。ただ、サラマンドラの力がリカルド達の想定を遥かに超えていただけ。ただ、それだけが敗因だった。


サラマンドラはぐるりと周囲を見渡し、他に脅威が無いことを確認する。それを終えると、サラマンドラはゆっくりとした歩みで食事の続きに戻ろうと歩き出した。リカルドの出現によってお預けを食らっていた、マルクの元へと。


「う、ぐ……い、いかん、マルク君……っ」


身体を起こそうとするリカルドだったが、ほんの僅かな動作でも全身に電流が走るかのような激痛が走る。地面の上で俯せに倒れ込んだまま、リカルドはマルクへと向かって手を伸ばした。


「…………」


しかし、マルクは座り込んだままサラマンドラを見つめていた。少しずつ、確実に近付いてくる死の足音に直面してなお、マルクは恐れを抱くこともなく、ただ茫然とその場に在った。


(もう……いいよ……)


唯一の家族であった祖母の死に直面し、空虚となった心。孤独となった今、もはや明日など必要無い。この無情な生を、無価値な命を早く終わらせて欲しかった。マルクは絶望の真っ只中に立たされたまま、静かに瞳を閉じーーー


『マルク、我との契約を覚えているか?』


聴こえてきたレティシアの言葉に、マルクは視線を落とす。普段のぶっきらぼうな彼女とは違う、優しく語り掛けるような口調と雰囲気。ぼんやりとした意識の中、マルクは確かにそんな約束をしていたことを思い返した。あれは、ただの本だと思ってマルクがレティシアをローガンから譲り受けた日のことだっただろうか。


『我の創喚を果たした時、我は貴様の友になる。肉体を得るためとはいえ、我ながらおかしな契約をしてしまったと思ったものだが……今思えば、不思議と嫌ではなかった。我が過ごした悠久の時に比べれば瞬き程度の間ではあるが、貴様の友として過ごすのも悪くは無いと、そう思ったのだ』


「レティシア……さん……」


暑さで渇き切ったマルクの喉から、掠れた声が洩れる。彼の空っぽだった心に、まるで波紋が広がっていくかのように何かが響いた。虚だったマルクの瞳に、微かな光が宿る。


『しかし、貴様が我を創喚する前に、気付いた時には我は貴様を……恐らく、貴様が言う友と呼ぶ存在だと認識していた。友などという概念は未だに理解が及ばないが、貴様に対する感情を言葉にするのであれば、きっとそうなのだろう』


「友……レティシアさんが、僕を……?」


『ああ。まったく、貴様はおかしな男だ。我が悲願のために貴様を利用するはずだったこの我を、その気にさせてしまったのだからな」


身の丈以上の幸福を望まず、欲もなく、ただ純粋に心許せる友を求める姿。今まで自身が接したことのない、まるで純真な赤子のような感性を持つマルクに、いつしかレティシアは感化されてしまっていたのだろう。


そのマルクが今、危険に晒されている。絶望と死の淵に立たされている。この内心に煮え滾る激情と想い。自身が肉体を得ることが出来なくなるという危惧以上に、レティシアはマルクの喪失を恐れていることに気付いていた。


ならば、どうするべきか。そんなもの、わざわざ口にするまでもない。戦う力を持たないマルクを守る存在。彼に代わって戦う力を得ればいい。たとえそれが、自身の理想とした肉体を失おうとも。


『さて……マルクよ。順序は逆になってしまったが、我は先に契約を果たしたぞ。ならば、貴様も契約を果たすことが筋というものだろう?』


「契約……レティシアさんの身体のことですよね。そうですね……せめて、レティシアさんのお願いだけは叶えないと……」


自分はもう、ここで死ぬ。しかし、レティシアまで道連れにする必要はどこにも無い。幸いにも、既に彼女の理想とする肉体はこの魔導書の中にある。あとは、レティシアの指示に従って創喚するだけだ。それくらいの時間は残されているだろう。


マルクはレティシアを開き、互いの意見の衝突の果てに完成させた絵のページを開く。レティシアも絶賛する、美の女神も嫉妬するだろう美しい女性の絵。せめて服を着せてやりたいが、残念ながらそれだけの余裕は無い。


「それで、どうすればーーー」


『マルクよ。我が今、肉体を欲するのは、それが我の悲願だからという理由ではないのだ』


不意に、レティシアがマルクの言葉を遮る。未だに、マルクが求める友の在り方というものはよくわからない。だが、それでも一つだけ確信出来ることがある。友とは、我が身に替えても決して失いたくない存在であるのだと。


「レティシアさん……?」


『我は……貴様を守りたい。友である貴様を失いたくない。共に歩み、貴様の行く末を最期まで見守りたい。そのためにも我には……貴様を守る肉体が、戦う力が必要なのだ!』


レティシアの声に、びくりとマルクが身体を跳ねさせる。普段の冷静なレティシアが決して見せることのない激情。自分を守りたい、一緒に居たいというその直情的な想いを受けて、マルクの心臓は早鐘を打つ。


自分はまだ、独りではない。自分にはまだ、レティシアがいる。前世でも出来なかった、この世界で生を受けて初めて出来た友人が。黒一色の絶望に埋め尽くされていたマルクの心に、眩いばかりの光が射した。


まだ、ここで死ぬわけにはいかない。


『マルク、描け!我に戦う力を!貴様を守るための力を!そして、貴様を孤独にさせないための力を、この我に込めるのだ!』


「は……はいっ!」


レティシアの想いに背中を押され、マルクはポケットの中に入っていた炭を手に取ると、開かれたページに描かれたレティシアの身体に走らせた。


描くのは、マルクが思う強さ。今世と前世の記憶を総動員させて、とにかく頭に浮かぶそれらを手当たり次第に描き足していく。


『もっとだ、もっと貴様の想いを込めろ!我の力を信じろ!我の強さを疑うな!我へと込める貴様の意思が、願いが我の力となる!』


もっと、もっと、もっと。この窮地にありながら、マルクの手は止まることなく用紙の上を所狭しと駆け回る。


だが、それを許さない存在があった。


ゆっくりとした歩みの後、遂にサラマンドラはマルクの眼前へと辿り着いた。しかし、目の前の獲物は逃げるでも恐怖するでもなく、一心不乱に炭を本へと走らせている。


退屈な獲物だ。逃げ惑う表情が業火に焼かれていく様を見るのが最上の至福だというのに。サラマンドラは彼をつまらなさそうに一瞥した後、一呑みにするべく大口を開きーーー


「させるかぁあああーーーーッ!!」


突如、左からの急襲。両翼を焼かれながらも、その強靭な脚で地面を疾駆したノクシスが、渾身の体当たりをサラマンドラの無防備な左頬へとぶちかましたのだ。


しかし、彼の攻撃はそれが限界だった。態勢は崩されたもののサラマンドラは健在。その大口でマルクの代わりにノクシスの尻尾を咥えたかと思えば、二本足で立ち上がりながら勢いを付けてノクシスの身体を空中へと振り上げる。


「うお、お……ッ!?」


視界が急転、大地と天が逆になる。そう思った瞬間、ノクシスの身体は強烈な勢いで地面へと叩き付けられていた。


「ぐは……ッ!?」


満身創痍のところへ、ダメ押しの一撃。それを最後に、ノクシスの意識はプツリと途切れた。


彼が生み出した猶予は、恐らく時間にして十秒あるか無いかというところだろう。しかし、マルクにとってはそれだけあれば十分だった。


「…出来ましたよ、レティシアさん」


完成形を前に、マルクは炭を置く。全てのイメージを、意思を、想いをこの一枚の絵に込めた。ただ継ぎ接ぎにしただけではない、立てたコインの上にさらにコインを立てるような繊細さを持って、それは完成形に達していた。


『ああ……感じるぞ。この身に刻まれた貴様の想いを、願いを。我は今こそ、その願いを果たそう。貴様の……唯一無二の友として!』


その瞬間、マルクの周囲に魔力を帯びた風が起こる。これは、リカルドがノクシスを創喚した時と同じ現象であったが、その規模は規格外。村全体を巨大な風のヴェールが覆っているかのように、マルク達を取り巻く炎の全てが大きく揺らいでいる。


その激流のような奔流に圧され、サラマンドラは一歩、二歩と後退りするほどであった。


『さぁ、高らかに叫ぶのだ!貴様を敵から、孤独から守る力!貴様の友たる我の名を!我は今こそ、貴様のために戦おう!』


「来て……来て下さい!僕の、僕の……初めての友達!レティシアさんっ!!」


マルクがレティシアの名を呼んだ直後、魔導書が眩い光を放った。魔導書を包む神々しくも温かな光は周囲を照らしながら魔導書を離れ、光球となってマルクの頭上へと浮かぶ。そして、静かに彼の目の前の地面に落ちた瞬間、周囲を埋め尽くさんばかりの強烈な閃光が包み込んだ。


「う……っ!?」


思わず視界を手で覆うマルク。全く辺りの様子がわからない中、聞こえてきたのは吹き荒ぶ風の音に混じって誰かが地面を踏み締める音。やがて、目蓋を刺すような光が収まったところで、マルクはゆっくりと瞳を開いた。


「あ……」


そして、彼は目撃する。自身に背を向け、サラマンドラの前に立ち塞がる、一人の人物の姿を。

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