無垢な願い

「レティシアさんを……?」


思いもしなかったレティシアの要求にマルクは困惑した。描けと言われれば描けなくもないのだが、一体それが彼女にとって何の助けになるというのだろう。


「わ、わかりました。それがお願いなら描きますけど……ちょっと待って下さいね」


しかし、自分から申し出たことなのだから、それを断る理由は無い。それに、絵を描くことならばマルクにとって唯一の得意分野だった。机の上に置かれた数少ない紙を引き寄せ、マルクは使いかけの炭を手に取った。


『待て待て。貴様、そこに何を描くつもりだ?』


「はい?何って、レティシアさんを描こうと……」


『阿呆。誰がその小汚い紙に描けと言った。こっちだ。この我の魔導書に描けと言ったのだ』


「あ、そっちですか……」


それならそうと先に言って欲しい。何となく釈然としないまま、マルクはレティシアの表紙を開くと今度こそ彼女のありのままの姿を描いていく。


『…おい、それは一体何を描いている?』


「もちろんレティシアさんですよ。もうちょっと待って下さいね。難しい形じゃないのですぐにーーー」


『この……ド阿呆ッッッ!!!!』


「ああーーーーーーッ!?」


レティシアの一喝と同時に、残り数秒で完成していたはずの彼女の魔導書の絵が、まるで砂上に描かれた文字が波に流されるかの如く一瞬にして消え失せてしまった。


「な、何をするんですか!あと少しで完成だったんですよ!」


『誰が今の我の姿を描けと言った!あと無駄に筆が早すぎるわ!貴様が描くのはヒト型となった我の姿だッ!!』


つまり、今のレティシアを擬人化させろということなのだろうか。それも難しいことではないが、さっきから意見の後出しが多すぎる。


レティシアに協力していたマルクだったが、その態度からこの些細な善意が彼女にとって大きな意味合いを持つことを察した。


そうなると、途端に自分がとんでもないことに加担しようとしているような気がしてきた。紙に押し当てられたマルクの炭を持つ手が止まった。


「あの……一応聞いていいですか?どうして僕にそんなことを頼むんです?」


『ようやく尋ねたか。これでなお何も疑問を持たないのであれば、ただのお人好しを越えた思考放棄の大馬鹿者だと断じていたところだ。いいだろう、説明してやる。貴様は『創喚術』というものを知っているか?』


「創喚術……ですか?一応そういうのがあるというのは知ってますけど……」


創喚術というのは、この異世界における魔法の一種だ。この世界にはその影とも言うべき異世界、『幻界』というものがある。


その世界には人間のような生物は何もおらず、天と地の境界線もわからない白紙のような光景が広がっており、無色透明の不定形の身体を持つ『意思』と呼ばれる存在が膨張と収縮、分裂と崩壊を繰り返しながら漂っているそうだ。


創喚術は、その幻界に漂う意思を召喚し、召喚者の想像する姿を通して不定形の身体を変化させ、契約として名前を与えることで使役する魔法で、喚び出されたそれは『創魔』と呼ばれる。


こうして説明してみると仰々しく大層な魔法のイメージを抱かされるが、創魔は割と人間の社会生活にも身近な存在で、例えば大海原を進む商船を牽引する巨大な海獣は創喚術によって喚び出されたものだ。


ここまで聞けば便利な魔法なのだが、当然そういった力は国家間の戦争にも利用される。遥か昔には創喚術が乱用されたことにより、互いの国だけではなく、大陸の地表のほとんどが焦土に変わってしまったこともあったそうだ。


「でも、そういった魔法があることは知ってますけど、直接見たことは無いんですよね。創喚術って貴族様しか使えないそうですし」


『はっ、ここまで疑うことを知らぬとは、貴様は相当幸福な環境で育ったようだ。まさか、そのような与太話を信じているとはな』


「与太話って……創喚術って誰でも使えるんですか!?」


『素質があればな。少なくとも貴賤に左右されるようなものではない。当然だろうが』


この世界に浸透している一般常識として、創喚術は貴族でなければ扱えないと言われている。どうしてそのような間違った常識が出回っているのかと思ったマルクだったが、考えてみれば当然だろう。


使い方によっては国を豊かにし、滅ぼすことも出来る力だ。そんなものが一般人にも扱えるのだとしたら、貴族と平民のパワーバランスは一瞬にして崩壊するだろう。


力を独占するため、そして今の仕組みを壊さないために、創喚術は貴族だけが使えるということが常識になっているのだろう。


「そっか……じゃあ、僕ももしかして……!」


『甘い幻想に囚われ痛い目を見ないよう忠告しておくが、貴様に素質は微塵も無い。幻界との境界に穴を開ける程度の魔力も無いわ。たわけめ』


「そんなハッキリと……少しくらい夢を見てもいいじゃないですか……」


スリルとロマン溢れる剣と魔法の冒険譚とは無縁の一般的村人Aとして生きてきたマルクの理想は、レティシアによって無情にも突き付けられたままならない現実によって儚く崩壊することとなった。


「それで、その創喚術とレティシアさんの絵を描くことに何の関連があるんですか?」


『簡単な話だ。我は創喚術を応用し、貴様が描いた絵を媒介に我の新たな肉体を幻界から召喚する』


「え、ええっ!?」


ただ単に絵を描くつもりが、想像以上に責任重大だった事実にマルクは愕然とした。


『先ほどの男との会話を聞いたが、貴様は絵描きなのだろう?ならば我の絵を描くことなど容易のはずだ』


「た、確かにそうですけど……本当にそんなことが出来るんですか?でも、さっきは僕に素質は無いって……」


『貴様に求めるのはイメージとなる絵だけだ。魔力は全て私が代用するのだから問題無い。そもそも、この魔導書は素質の無い者に創喚術を使わせるためのものだ。描かれたものを魔導書に充填した魔力を用いて創喚術を行使することが出来る』


「へぇ……じゃあ、これを使えば僕にも創喚術が……」


『期待をさせたようだが、この魔導書は既に我が管理下にある。仮に貴様が何を描こうと、それが我の意に介したものでなければ先ほどと同様に即刻削除だ』


つまりは、レティシアが許可したものでなければ結局創喚術は使うことが出来ないということか。とても役立つものなのに、レティシアが認めてくれないと使えない。そして、レティシアは他者からの協力が無ければ創喚術を使えない。なんともままならない話だ。


『ここまで話しを聞けば、お人好しの貴様とて気乗りしなくなっただろう。だが、安心するがいい。我が新たな肉体を得た暁には、その献身的な働きに報いようではないか』


「別にお礼なんて求めてないですけど、具体的には何をしてくれるんです?」


『うむ。我の力が及ぶ範囲で貴様の願いを一つ叶えようではないか』


ランプの魔人ではないが、これは結構魅力的な話なのではないだろうか。レティシアが許可すれば、マルクであっても創喚術を使うことが出来る。


創喚術の可能性は無限大だ。使いように依っては、無限の富を産むことだって出来るだろう。


「それって、本当に何でもいいんですか?」


『可能な範囲内であればな。我は肉体さえ得られれば、その後に貴様が何をしようが一切興味は無い。我の願望は、この地獄のような日々に終止符を打つことだけだ』


レティシアの言葉に恐らく嘘は無いだろう。彼女はとにかく魔導書から解放されることだけを願っている。そのためならば、仮にその後何十、何百という命が失われるような事態になったとしても構わない。彼女の言葉の節々からはそんな気配が感じられた。


「じゃあ……一つだけお願いがあるんですけど……」


『ああ、何でも言ってみるがいい。それがどんなに愚かなものであったとしても受け入れてやろう』


富か名誉、こんな時に人間が願うものなど相場が決まっている。見たところ到底裕福な家柄にも見えないことからも、マルクがそう願うことは十中八九間違いない。


そう思っていたレティシアだったが、マルクの返答は彼女の想像を裏切るものであった。


「それなら……僕の友達になってくれませんか?」


『…なんだと?』


マルクの言葉は完全にレティシアの意表を突いたのだろう。表情はわからないが僅かな沈黙の後、彼女は信じられないといった声色で言葉を絞り出した。

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