意思を持つ魔導書
村の広場から小休止を取ることもなく、息を切らしながら勢い良く扉を開き、自宅に飛び込んだマルク。ちょうど夕食の支度をしていたのか、鍋を火に掛けていた祖母が彼の帰宅に気付いて振り返った。
「お帰りなさい。あらあら、そんなに息を切らせて何かあったの?」
「だ、大丈夫、何でもないよ!あと、今から部屋で絵を描くからしばらく入らないで!買ってきたものはここに置いておくから!」
テーブルの上に調達してきた品物の入ったバスケットを置き、マルクは足早に自分の部屋に駆け込んだ。
そして、ここでようやく一息つくことが出来た。未だに混乱している頭を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。
『まったく、我の話を聞こうともせずに突然走りだしおって。忙しない奴め』
「はぁ……はぁ……あの状況じゃ仕方ないじゃないですか……」
この本の言葉はマルクにしか聞こえない。ということは、周囲からはマルクが彼にしか見えないモノに対して話し掛けているようにしか見えないわけで、そんな状況で悠長に会話をしていては周囲からもローガンと同じ憐れみの眼差しを向けられてしまうだろう。
マルクとしては、ただでさえ複雑な家庭環境なのにこれ以上不要な同情を買うような立場にはなりたくなかった。
呼吸が整ったところで、マルクは椅子に腰掛けると机の上に本を置いた。
「それで、貴方は一体何なんですか?ただの本……じゃないみたいですけど。あっ、僕の名前はーーー」
『名乗りは不要だ。あの商人の男が貴様をマルクと呼んでいたからな。我が名はレティシア。遥か昔、故あってこの魔導書に封じられし者だ』
「封じられし者……?」
何だかひどく不穏な響きだ。このレティシアと名乗る女性ーーーいや、今は本か。今まで平穏に暮らしていたのに、何だかとんでもないモノに関わってしまったかもしれない。マルクはごくりと息を呑んだ。
「封じられたということは……もしかして、凄く悪いことをしたってことですか……?」
マルクの脳裏に、高笑いするレティシアの声と燃え盛る大地に無辜の人々の悲鳴が木霊する阿鼻叫喚の光景が過る。
歴史を紐解いても往々にして幽閉、封印される人物というものは善人か悪人の二択しかない。そして、声の雰囲気からしてレティシアは間違いなく後者だろう。
上質な紙を失うことは心苦しいが、場合によっては世のため人のため、マルクはレティシアを風呂炊きの燃料にすることも辞さない覚悟ーーーいや、それは少しやりすぎかもと思わなくもなかった。だが、身構えるマルクに反し、彼女の返答は予想外のものであった。
『いや、それはわからん』
「はい……?」
想定外の返答に、マルクは気の抜けた声を洩らしていた。
「わ、わからんって……本当は燃やされたくないから誤魔化してるだけなんじゃないですか?」
『き、貴様、平静を装いながらそのような恐ろしいことを考えていたのか!?わからんのは本当だ!ここ数百年より以前の記憶が抜け落ちてしまっているのだ。我が封じられたのは遥か昔……陸を渡り、海を越え、人から人へと移ろい空虚にして悠久の時を過ごす内に忘却してしまったのやもしれん……』
どことなくレティシアの声にも元気が無い。その様子を見る限り、マルクには彼女が嘘をついているようには感じられなかった。むしろ、段ボールの中で雨に濡れる子犬に対するような憐れみすら感じていた。
「じゃあ、レティシアさんは自分のことを何処まで覚えているんですか?」
『その名だけだ。もともとの肉体がどのような姿だったのか、そもそもヒトであったのかもわからん。我の封じられたこの忌々しい魔導書が朽ちればいずれ解放されるやもと甘い考えを持っていたこともあったが、見ての通り不滅の呪いが掛かっているらしい。雨風に晒され、火に掛けられようが傷一つ付かんのだ』
「そうなんですか?それはちょっと信じがたいような……」
『先に言っておくが、絶対に試してくれるな。魔導書が破損することはないが、それに宿る我の精神は感覚を有する。精神が燃え尽きる救いすら叶わん身体だ。無駄な苦痛を与えてくれるな』
「わ、わかりました。気を付けます」
だから雑踏に踏まれることにもあれだけ助けを求めていたのだろうと納得する。聞けば聞くほどマルクはレティシアのことが憐れに思えてきた。
何百年、もしくはさらに長い気の遠くなるような年月の中、レティシアは魔導書の中に封印されていたのだ。常人であれば発狂してもおかしくない状況下で、彼女はずっと正気を保っている。仮に同じ状況になったとしたら、きっとマルクは堪えられなかったことだろう。
「あの……レティシアさん、僕に何か出来ることはありませんか?」
『何だと?』
「だって、せっかくこうして知り合ったんですから。たいしたことは出来ないかもしれませんけど、何か力になれたらなぁって思って」
『ずいぶんとお人好しだな、貴様は。それで貴様に何の得があるというのだ?』
「見返りなんて要りませんよ。ただ、レティシアさんの力になりたいだけなんです」
レティシアは心底呆れているようだが、マルクはそれでも構わなかった。孤独の寂しさ、そして辛さはマルク自身も理解している。何故なら、前世では彼もまた孤独の中に置かれていたのだから。
死の間際でさえ、誰にも看取ってはもらえなかった。だが、今のマルクには温かい家族がいる。彼は新たな命を得て孤独から脱却することが出来たが、レティシアはそれすらも叶わないのだ。
そんな彼女を見て、マルクが何も感じないはずもなかった。
『ふっ……良い心掛けだな、マルクよ。だからこそ、我は貴様を選んだとも言えるのだが』
「えっ?それってどういう……?」
『貴様が我の力になりたいと願うのならば、我が求めるものはただ一つ……我を描け』
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