第8話 そして明日の二人2
バスの乗り場にはベンチがあった。オレはそこに座って、三時頃に到着する予定のバスを待った。待っている間、歩行器を使って歩くおばあさんが通りかかって、オレに頭を下げた。オレもなんとなく頭を下げた。彼女は駅の方に歩いて行った。良い天気で、結構風も吹いていて気持ちが良かった。右手の方には山があって、国道のアスファルトは太陽の熱を蓄えている。目の前に国道がある他には寂れて営業しているのかも分からない釣具屋がある。
バスは定刻通りに来たが乗らなかった。
宮本さんのことを考えている。あれから連絡は来ていないが。……平戸さんとの関係はどうなったんだろう……。順調に関係は進んだろうか? だとすれば、彼に一々アドバイスした甲斐があった。……いや、後悔している。こんなことになるなら、プレゼント選びなんて付き合わなければ良かった。成り行きで男とセックスしたことはあったが、好きになったのは初めてだ。
……本能って、人を好きになることなのか? 今ではそれは、自分の最も羞悪な一部のようにぶら下がっている。まるでキンタマだ。会いたい気持ちがあるが、それと同じ程度に会いたくない、という気持ちがある。人並みに何度か恋人を作ったことはあった。彼女たちと一緒に居たいという気持ちも当然、覚えがあるが。……
二度目のバスは五時頃に来た。それも見送った。山の反対の方から夕焼けが見えているが、相変わらず風も強くて、おまけに小雨が降り始めた。三時頃に会釈したおばあさんが、さっきとは反対の方向から来た。オレに気が付いて立ち止まった。
「お兄ちゃん、人待ちかい?」
「そんなところです」
おばあさんは口をもごもごさせて、にこにこしている。オレの声が聞こえていないようだ。耳が遠いんだろう。
「はい! そうですー!」
大声で言うと、「ふええ、へっへ」と笑って、頷いた。
「もうね、バス来んよ。帰り帰り」
「……はい!」
結局、小雨に濡れながら祖母に家への道を戻った。玄関のベルを鳴らすと、祖母が出てきた。もう一晩泊めて欲しい旨を伝えると、祖母はふにゃふにゃ笑って頷いた。居間の扉からみおが出てきた。オレを見て、「あら?」という顔をした。それでもすぐに、あなたが戻ってきたところで大した出来事ではありませんと言う風にすました顔をした。
その晩はオレも台所の仕事に手を貸した。と言っても、大したことはしていない。せいぜい野菜を切って皿を洗っただけだ。火を使う調理工程は殆ど祖母が済ませた。食事の時はテレビを点けながら、みおが祖母に対して一方的に喋っていた。こんな光景に見覚えはなかったが、そういえば親戚が居るときは食卓にみおの姿はなかった。
台所でみおと食器を洗っているときに、みおは感心したように「ちっこさん、包丁捌き上手いやん」と言った。祖母は居間の方でテレビの音を大きくして見ていた。
「まあ、一人で暮らしていると色々家のことが上手くなるんだよ」
「男のくせに料理するん?」
「するよー。料理の腕で飯を食ってたくらいだよ」
正確に言うなら、料理の腕と顔かもしれない。なんにしても、女受けが良かったことに変わりは無い。
「ちっこさんて料理人やったん?」
「オレはただのへぼライターだよ。料理も掃除も、特技というか、趣味というか……」
「それも、男の人が好きだから?」
「さあ、どうかなー……。というか、それとこれと何か関係ある?」
「よう考えたら、無いな」
「当たり前だよ。オレのことをちょっと知ってるからって、あんまり馬鹿にするなよ」
しばらく、水が流れる音とガラスとガラスが触れ合う音だけが聞こえた。
「すんません」
「……そのうち、オレの料理食わせてあげるよ。美味いから。びびるよ」濡れた手をタオルで拭いながら言うと、みおは口角を上げて笑った。
寝る前に、臍の横を爪で掻きながら仏壇がある部屋に行った。この部屋は何故だかいつもひんやり涼しい。電気の紐を引っ張って明かりを付けた。今日帰り際に親戚が立てていった線香の灰が、まだ形を残して立っていた。それを指で崩してから、新しい線香に火を付けて灰の山に刺して、名前の知らない音が鳴るやつを棒で叩いてから、手を合わせて目を閉じた。
今日も書斎をお借りします、と心の中で唱える。こんなことに意味があるのかは知らないが、オレは半分幽霊の存在を信じているから、呪われ防止だ。
襖を開けて、祖母が入ってきた。祖母はオレの隣に正座して、
「ちっこ、いつまでおってもええけえ。そのうちえーしこーになるけえよ」と言った。
広島弁の訛りがキツいので意味はよく分からないが、オレは曖昧に頷いておいた。
結局それから三日間祖母の家で寝泊まりすることになった。
翌朝、居間にギャルがいた。ギャルというか、とても化粧の濃い女の子がいた。目の周りが真っ黒に塗りたくられている。あまりにも自然に祖母と朝飯を食べていたので、夢を見ているのかと思った。だが、食べ終わった食器をきちんと台所で洗っていたから、彼女がみおだということが分かった。彼女は制服を着ている。オレも顔を洗ってから食事に手を付け始めた。
「良いご身分やな。おはようございます」
「うん……。にしてもすごいな、その化粧。どこで覚えたの?」
彼女は何も言わず、口を尖らせて前髪を手櫛で整えた。
「……何照れてんの? 似合ってるよ」
適当に褒めると彼女は口角を上げたが、「うち、不細工やから……」と寂しそうに言った。彼女がへちゃむくれなのには違いないが、どうも哀れに見えた。化粧の加減がまだ身に付いていないのかもしれない。この年頃の女の子にはよくあることだ。
「何を勘違いしているのか知らないけど、……君くらいの顔の人は、東京にだって一杯いるよ」
「……ほんま?」
「そりゃそうだよ。皆化粧映えしてるだけなんだよ」
「……うち、一応ちっこさんの親戚なんやけどな……」
「ま、オレは突然変異みたいなもんなんだよ。自分で言うのもなんだけど」
「ずるいわあ」
それから彼女は中学校に行った。結構遠くにあるらしく、朝も早いのにバスに乗っていくらしい。オレは仕事をしようと思って書斎でノートパソコンで書き物をした。一件の商店街のレビューを予め用意しておいた店舗情報や回るルートなどのメモを参考にしながら、さも実際に行ったように書いた。メールクライアントで陣に送信しようとしたら、ネットの回線が繋がっていないことにようやく気が付いた。当たり前だ。Wifiなんかあるわけがない。取り敢えずテザリングで一時的にネットに繋いで済ませたが、パケットはあまり使えないから大して調べ物はできないだろう。間もなく、陣から内容を確認する旨の返信が来た。その頃には丁度時計の短針が十二を回ったところだった。
まだ昼だ。……ネットが出来ないとたっぷり今日の時間が余っている気がした。もっと仕事を片付けたいところだが調べ物が必要な記事だったからやめた。それに、親から貰った金で多少生活の余裕がある。
祖母に何か買い物がないかと聞いてから、ちょっと駅の方を散歩することにした。家の前にママチャリが止めてあった。多分みおが使っているんだろう。それを借りて、山間の国道を駅に向かって走った。そして、一時間半くらい走ったところでようやく海の香りが鼻に入ってきた。ついでに自分がひどく運動不足であることを痛感した。大分前からもう汗が止まらない。太腿もガタガタ震えている。丁度脇の道にチェーンの喫茶店があったので、休憩がてらに入った。田舎だと思っていたが、店内は結構若い人が入っていた。そこでアイスコーヒーをだらだら飲んでいる内に二時を回った。それから、また駅に向かって自転車を漕ぎ始めた。
近頃さっぱり切っていなかった髪の毛は肩に届くまで伸びていた。
……そろそろ切るか……。
祖母の家に戻ったのは、六時頃になった。みおはとっくに帰宅していて、ギャルからへちゃむくれに戻っていた。一にも二にも汗を流したかったが、夕飯を食べる時間だというのでしぶしぶ食卓についた。
「みおちゃん、高校もこっち受験するのー?」と、聞いた。
「考え中やんな」
「みおちゃんは、どっか都会のとこ行くとええよ」と祖母が言う。「勉強できるけえ、お爺さんもおらんくなったけえ」
「そんなん決めてへんよ」
「みおちゃん、勉強できるんだ」
「そこそこやんな……。いや、私のことばっかり話さんといてくれるかな」
「そういえば、オレ髪長くなってきてさー。切ろうかなって」と言いながら、手櫛で襟足に空気を入れる。汗の湿気がじっとり手に付いた。
「みおちゃん、上手いけえ。これ」祖母は笑いながら指をチョキチョキしてみせた。死ぬまでハゲ無かった祖父の髪はみおが切っていたらしい。
「じゃあ明日にでも切ってもらおうか」
「……別にええけど、出来に文句ゆうたら殺すからな」
それから、シャワーを浴びて汗を流してから、洗濯して干してくれたらしい下着を履いた。改めて鏡に映った自分を見ると、乱暴に伸びた髪の毛と、寝不足で落ち窪んだ目が映画に出てくる幽霊のようで我ながら不気味だった。ただ、血色はいつもより良いように見えた。自転車を必死に漕いだからかも知れない。あと、朝昼晩で三食食べるのも随分久しぶりだ。夜は相変わらず寝付けなくて酒を飲むが、網戸にして夜の空気を書斎に入れると、火照った頬が冷えて安らいだ。
スマートフォンが震えて、ニュースアプリの通知かと思って画面を見たら宮本さんからメッセージが来ていて驚いた。久しぶりに中野のオレのアパートを寄ったら、オレが居ないようだったので、どうしたことかと心配しているようだった。ついでのように、佐々木さんがまた食事をしたいと言っているという話をしていたが、本当かどうかは分からない。彼に会いたいという気持ちが、彼の言動を好意的に捉えさせているのかもしれない。そう思うと、返信を書く指が鈍くなった。
……オレは元気にしています。右手の具合も、今は小康状態といったところで、痛みもありません。今は、ワケあって京都にある祖母の家に遊びに来ています。夜になると、星がたくさん見えて、虫の声も良く聞こえます。佐々木さんとの食事の話に関しては、次は上手くやります。とだけ伝えておいた。決して乗り気とは言えなかったが、彼女と会うことはすなわち、宮本さんとも会うことだと思った。だから、内心その機会を頼りにした。
宮本さんは返信をすぐに読んだらしく、じゃあ来週末あたり手頃な店を取るよ、と来た。オレはそれを見て何か満足した気分になって、布団に横になった。電球のぼんやりした光がやけに目に刺さって、右手で目を覆っている内に意識がふんわりしてきた。それで、そのまま電気を点けたまま眠ってしまった。
*
翌日は昼間までどんより眠り続けた。七時頃にみおが部屋に入ってきて何か喚いた気がするが、そんな声すら地面の深く深くから聞こえるように、自分の頭の中を低く反響するだけだった。そのうち彼女は諦めたようにオレの足を蹴飛ばしてから、下へ降りていった。
オレは半ば寝言で彼女に文句を言った気もするが、何を言ったのかは全く覚えていない。とにかく、昼に起きたら久しぶりに寝覚めが爽快だった。そのまますっきりした気分でシャワーを浴びて下着を履き替えて、祖母に代わってドンだかゴンだかの犬の散歩に出た。気になって、祖母に犬の名前を尋ねたら、一度目はジョンで、二度目はロンと答えたから最早真相は誰にも分からないと思う。とにかく、犬はすぐに腰を振ってくるものの可愛い、人懐っこい奴だった。オレが立ち止まったらすぐに近寄ってきて前足を跳ねさせて、シャツに泥を付けてくる。それがたまらなく楽しいらしいのだが、オレが犬の両前足を掴むと、如何にも困った顔をして、ふらふらしている後ろ足で踏ん張って引き離そうとした。そんな仕種も可愛らしかった。
その日はそれ以外に出掛けることもなく、書斎でじっと本を読んでみおが帰って来るのを待った。玄関の扉が開く音がすると早速彼女に髪を切ってもらうよう頼んだ。
「別にええけど、本当に出来に文句言わんといてね。覚悟しといてな」
なんだか嫌な予感がしたが、ともかく仏壇の置いてある部屋で新聞を敷いて散髪を始めた。上半身は何も着ないで、ジーパンとパンツだけを履いていた。
最初の方は割と勢いよくジョキジョキ襟足を切っていたのだが、そのうちオレの周りをぐるぐる回って、不安そうな顔をし始めた。彼女の顔を見て、オレも凄く不安になったのだが、任せた手前だから状況を静観した。
しばらくして、彼女は「まあ、こんなもん……やろ」と言って鏡を寄越した。前髪は具合がいいのだが、後頭部は殆ど刈り上げられていた。
「……」
オレは慎重に鏡を眺めながら頭の具合を触って確認した。ドえらいことになっているような気がする。前髪は良い具合なんだ。前髪は。……けどそれ以外が……。
消滅した襟足ともみ上げを最早懐かしく思う。まあ、サッパリしたことはサッパリしたのだが、これはあんまりだと思った。
居間に戻った。祖母はオレの頭を見て、歯のない口を開けて「あ~あ~あ~あ~」と笑った。そんな笑い方は本当に楽しそうで、嬉しそうで、可愛い笑い方だった。オレが小学校の頃以来、本当に久しぶりに見た顔だった。
そう思えば、襟足ともみ上げも無駄ではなかった。ばつの悪い顔をしているみおに笑いかけると、彼女は口元だけで笑った。
*
帰りは新幹線を使うことにした。貰った十万円から新幹線の切符を買うことができる。朝、玄関で干していた着替えを詰めていると、制服姿のみおがベースボールキャップをくれた。
彼女は「アフターケア」とだけ言った。
親戚の誰かが忘れていったものらしいのだが、見たところ大して高い物でもなさそうだからありがたく貰うことしにした。
「割と気に入ってるけどねー、この髪型」
「でも、やっぱり帽子被った方が似合うわ」
「そう? ありがとう」
犬を歩かせていた祖母が帰ってきた。犬は人が三人いるのが嬉しいのか、玄関先でぴょんぴょん跳ねた。
「あれ、ボンっていうんやで」
「え、そうなの?」
「みんなジョンだとかドンだとかロンとかポンとか適当に呼ぶもんやから、あの子もおばあちゃんも分からんようになってしもたんやな。ほんとはな、あの子おじいちゃんが拾ってきてん。そんでボン、……坊主の坊な。そう呼んでてん」
「なるほどね」
駅までは登校するみおと共にバスで行く。祖母はバス停まで見送りに来た。バスが見えたとき、彼女は名残惜しそうに小さい手でオレの手を取った。小さい手の中には二万円入っていて、弱々しくオレに握らせた。
「やめてよ。要らないよ」
「きしゃだいじゃ」
「汽車代はもう母さんから貰ったから、いいよ」
「じゃあ次来るとき使えばええ」
それで、祖母は握手するように手を揺らした。そして、バスが見えなくなるまで見送っていた。
バスの中は閑散としていた。老人が三人と、みおと同じ制服の子供がばらばらに席に座っていた。後ろから一つ前の、二人がけの席にみおと並んで座った。晴れた日の朝だったが、山から下りてきたのか分からないが薄い霧が掛かっていた。だが、それも太陽が溶かすように時間が経つにつれて消えているようだった。
オレは祖母に貰った二万円を、親から貰った封筒に入れた。
「この年でお小遣い貰うなんて、変なもんだねー」
「よかったやんか」
「複雑だよ。もう縁が切れたと思っていたのに……」
「東京の生活って、そんなに楽しいもんかな」
「別に楽しかったから忘れてたわけじゃないんだよ。ただ、色々あったんだよ」
「でも、ウチからしたら楽しそう。ええなあ」
彼女は窓に頭をくっつけて、夢を見るようにそう言った。
「オレは君が羨ましいよ」
オレは熱が籠もってきた帽子を被り直した。
「みおちゃんは、これから色んな可能性があるよ。どんな生き方だって、これから選べる。……今の君には分からないと思うけどね」
「そうかなあ。……ウチ、ブスやねんけど……」
それで、また寂しそうな顔をする。
「そんなことは、些細なことだよ」
「ちっこさんが言ったら説得力ないわあ」彼女は唇を尖らせた。
「オレが言うから説得力があるんだよ」
「……どゆこと?」
「そういうことに囚われて自分の生き方を固めていったら、いつの間にか取り返しが付かないことになっているんだよ」
「そしたら、どうなるん?」
「それからは、もう本能だけなんだよ。いきてくよすがは」
バスは山間の道を抜けて、市の方に入ってきた。しばらく田んぼが連なる光景が広がった。田んぼの向こうにはやはり山があるが、背の低い古民家、それからきちんと舗装された二車線道路に入った。もうすぐ駅に着く。
「……ちっこさんの言ってること分からんよ……」
オレはちょっと恥ずかしくなった。
「ごめん、ちょっとジジくさかったね。まあ、勉強頑張りなよ」
駅前のバス停に到着して、小銭を箱に入れて降りた。バスの中の老人も、制服を着た知らない女の子も粛々と運転手にお礼を言って降りた。そして、この辺りは人通りは疎らだがぼんやりと活気があった。それにまだまだ朝だった。朝のこれから活動する人々の、そういう涼しい熱気は東京でも舞鶴でも変わらない。自分も何かを頑張ろうと思う。
「ウチ、東京の大学受けようと思ってん。そんで、高校は頭の良いとこ行きたいな」
彼女は重そうな手提げ鞄を地面に置いて、背中を伸ばす体操をした。
「そのうち、ちっこさんとこ遊びに行こ! 料理上手いんやろ!」
オレも着替えを詰めたバッグを置いて、背中をウンと伸ばした。
「まあ、楽しみに待ってるよー」
スカートを揺らして去って行く彼女の後ろ姿を見ながら、もう二度と会うことはないだろうと思った。
改札の方に歩き出して、間もなくドンと腰のあたりにに衝撃が来てカバンを落とした。見ると、みおがオレの腰に手を回して頭突きしていた。というか、抱きついていた。
「髪、ごめんな。ほんとはちょっとだけ上手く出来ると思ったんやけど」
「大丈夫、上手く出来てるよ」
オレは帽子を脱いで、前髪を手で掻き上げて見せた。見た目はともかく、頭は随分軽くなった。
「ちっこさん、好きな人と上手くいくとええね」
「ありがとう」
でも、多分そうならないと思った。
*
京都から東京へ行く新幹線では、窓際の席に座った。指定席だが、料金は二万も掛からなかった。それで、さっき封筒に入れた二万円を取り出して見た。その札はくしゃくしゃに折り目が付いていて、一目でそれと分かる。
そして、今どこへ帰るのかを考えている。東京へ帰って、そのうち諸々の金の問題も解決した後はどうなるのだろうと考える。この二万円で行くのか帰るのか?……。皺の付いた二万円を仕舞っては出す、我ながら不可解な動作を数度繰り返した。何か搭乗券に記された自分のシートを確認するように……。
右手のメッシュの固定具を取って、軽く動かした。東京に戻ることで、少なからず緊張していた。幾分か白くなった指、人差し指、中指、薬指と見た。医者に診て貰うまでもなくもう必要ないだろうと考えて、外した固定具は新幹線のゴミ箱に捨てた。
*
東京に戻ってまずは陣の事務所を訪ねて仕事に関する打ち合わせと、長いこと放置していた彼との間の借金問題などを解決した。それから中野に戻って、いつも行っている辛気くさい喫茶店で仕事を二件片付けた。結構良い調子で記事を書いたあと、ポケットに入れていた文庫本を読んで、しんみりと夜を待った。
部屋に戻ったら、畳の上に敷きっぱなしにしている布団の上に寝転んで、スマートフォンを弄り始めた。風呂でも入りたい気分だが、この部屋にシャワーというものは存在しない。この部屋にあるものは、畳の上の布団と近所のリサイクルショップに売っていたテーブル。これはコンセントを刺すとこたつになる。居間の空間はこれで三分の二くらいが占有される。布団は壁際に置いてる本棚に掛かって捲れ上がっている。だから、布団に横たわっても絶妙に足を伸ばせない。「アパート」というよりは「荘」という感じだ。隣の部屋には誰も住んでいないようだが、多分音は筒抜けだと思う。
充電しながらスマートフォンでニュースサイトを見ているうちに、脈絡もなく今夜はじっくりオナニーをしようと思った。日本人女性のポルノを見ると嫌でも良とのことが頭に思い浮かんできてすぐに萎える。外人女性のポルノでは何故かそういうことが起こらなかった。なんとなく現実感が無いからかも知れない。ゲイ向けのポルノを見ようかという考えが一瞬頭を過ったが、それをやったら終わりだと思った。寝転がりながら女の裸を見て扱いて、射精しそうになったときに宮本さんからの着信が入った。何故か犯罪を犯したような気持ちになった。乱れた息を整えてから着信を取ると、高野さんの店で飲んでいると言う。まだ夜は深くないが、……自分の手の甲を鼻に付けて、体に性の臭いが付いていないか確かめた。結局自分では分からないかと思って、彼の誘いを断った。
そして、いつもと変わり映えしないものの、多少余裕が出来た日常を過ごして、約束の金曜日の夜が来た。佐々木さんとまた会うのは気が重かったが、それ以上に、宮本さんと顔を合わせることが怖かった。だが、会うべきだ、とも思っていた。
*
店の位置情報を元に、阿佐ヶ谷駅前の居酒屋と焼き肉屋が合体したような店に着いた。予約は七時に取ったと言うが、宮本さんと佐々木さんは出先からそのまま来るということで、少し遅れるらしかった。だから、予約した時間に来たのはオレと平戸さんだけだった。
彼女について様々な話を聞いていたが、一度会食で面を合わせただけで特に面識はなかった。彼女とは駅の改札から出たところでばったり会って、そのまま二人で店へ入った。
オレたちは宮本さんの名前を店員に告げると、四人がけの個室に通された。取り敢えずビールを注文して、ちびちび飲みながら残り二人の到着を待つことにした。何を会話のテーマにしようかと考えていると、ビールもまだ来ていないのに彼女が話しを切り出した。
「東くん、髪の毛すごく短くなっててびっくりした。一瞬分からなかったよ」
「あー、この間親戚の子に切ってもらって……」
オレは被っていたベースボールキャップをテーブルに置いて、頭をわしゃわしゃした。
「ちょっと短く切りすぎたかもしれませんけど」
「凄く似合ってる。やっぱり、男の子は短髪が似合うなあ」
「男の子って……」と言って笑ったが、彼女には何の含みもないようだった。そして、はたと彼女が一回り年上の女性であることを意識した。十歳以上離れているはずだから、世代も違う。オレは高校の頃に担任だった若い女性教師のことを思い出した。多分、年の差はあれくらいのはずだ。
店員がビールを運んできて、取り敢えず二人で乾杯した。彼女は一度ジョッキの口に縁を付けてから五回くらい喉を鳴らした。酒に強いとは聞いていたが、ちょっと驚いた。
そんな様子を見ていたオレに気付いて、彼女は照れたように笑った。
「私、いくらお酒飲んでもあんまり酔わないの。代わりにご飯はあんまり入らないんだけど」
「宮本さんもよく言うから、知ってます。幾ら飲んでも追いつけないって、しょんぼりしてましたよ」
「あはは。しょんぼりしてたの?……そうなんだあ……」
それで、彼女は綺麗なものを見つけたような顔をした。
オレは口元で笑って、ビールをくびりと飲んだ。
「そういえば、東くんって私たちが微妙だった時期に、宮本くんに色々助言していたでしょう?」
彼女は責めるような口調ではなく、子供の悪戯を咎めるような風でそう言った。
「ええ、まあそうなんですけど。……宮本さんに聞いたんですか?」
「彼はそんなこと言わないの。でも、彼、そういうセンスがないのに気の利いたプレゼントとかくれることもあったから。あのフレグランスソープとか」
「オレはほら、仕事でそういう方面に明るいから……。というか、あの石鹸使ったんですか? 使用感は……」
実際の女性の意見がどんなもんかと思って聞いたが、彼女は大袈裟に顔の前で手を振った。
「まだ使ってないの」と言う。「私、大切な人から貰ったものっていつまでも使えないし、捨てられないの。友達から貰った海外のキーホルダーとかね……。そういうの、綺麗な箱に仕舞ってね……。子供染みてるとは思ってるんだけど」
そう言う一回り年上の彼女を見ていると、本当に良い人なんだと思った。……健全なんだ……。彼らの関係性を、そう思った。
それから、オレたちはお互いの仕事の日常を話し合った。そのうちに愚痴を言い合うようになって、料理もまだ頼んでいないのに結構親密な感じになってきた。無論、ある男の友人とその恋人、一歩分の間を置いた関係として。
二十分ほどして、個室の出入り口にスーツ姿の宮本さんと佐々木さんが姿を見せた。オレの頭を見て顔をほころばせた佐々木さんと対照的に、宮本さんは無感動に仕事終わりの溜息を吐きながらオレの横に座った。
相変わらず距離の詰め方が独特な佐々木さんに戸惑いながらも、その日は円満な感じで食事は進んだ。自分自身、女性に対するアレルギーのようなものが、幾らか言い方向に向かっているような気がしたが、相変わらず過去に何人も誑かしたような口の軽さが衝いて出ることは無かった。女性陣も、以前と比べたらオレと一歩距離を置いていたような気がする。オレの女アレルギーが宮本さんからそれとなく伝えられていたのかもしれない。
黙々と会話の相づちを打っているうちに、会話は宮本さんと佐々木さんの二人が行くという営業先の愚痴になっていった。見ると、平戸さんもオレのように曖昧に笑って頷いていた。それでも楽しそうで、彼女とオレは性質が近いものがあるのかもしれない。
そのうちに時間が経って、酒のグラスもどんどん空いて、佐々木さんは少し眠そうにした。平戸さんはタクシーで彼女を送って帰ると言った。そして、店を出た。
*
通りまで歩いて、中野へ向かうタクシーに乗った。後部座席の隣に座る宮本さんは普通だった。口調も表情も、仕種もいつもの彼だった。まるで、何もなかったかのようだった。電車が中野に近づくにつれ、唖然とするような、焦るような気持ちになった。
これで終わりなのか?
……何もなかったことになるのか……。
そして、自分が如何にも馬鹿に思えて、恥ずかしくなった。
それで、オレは彼が座っている方の車窓を見る。丁度住宅がある所を走っているのか、暗かった。彼の顔は陰が刺していてよく見えなかった。
「急に居なくなるから、心配したよ」と彼は言う。
「そう」
オレはキャップを目深に被って、腕を組んで腰を伸ばして座り直した。
「……宮本さんさ、この前のこと……」
そういえば……と、言いかけた言葉を遮られた。
「お前にあの話したかな?」
「え?」
「たむらのこと」
話がどの方向に進もうとしているのか分からず、オレは眉を顰めた。
「……たむら……?」
「俺が新卒で入った会社の、同僚だった奴のこと。……もう、何年前になるかな……」
「……」
「あいつとは新人研修の時から気が合ってさ。……前の会社って結構ヤバくてさ、山奥の施設に行くような研修だったんだけど」
「……うん」
「だから、他の同僚も次々に辞めていって。それで、吊り橋効果って訳でもないんだけど、余計仲良くなったんだよ」
「その人、女の人?」
「ああ。そう」
大切な貰い物はいつまでも消費出来ずに綺麗な箱に仕舞ってしまうという、平戸さんの顔を思い出して、いたたまれなくなった。
「まだその人と会ってるの?」
「いや、もう生きているのかも死んでいるのかも分からない。ちょっと心を病んじまって、北海道にいるんだ。今」
「……」
タクシーはさらに暗い道に入った。車窓からは、もう闇しか見えなかった。
「憧れてたんだけどな」と呟いた。
「好きだったの? 彼女のこと」
「俺自身よく分かってないよ。ただ、憧れてたんだよ。それは確かなんだけど」
憧れと、好きに違いがあるのだろうかと考えた。彼自身、そこら辺の区別は付いていないようだった。気持ちの悪いものを口に入れたような顔をしていた。
「でも、あるときアイツにお前はすごいなんてマジな顔で言われてさ。……すごく気持ちが悪かった……」
「気持ちが悪かった?」
「気持ちが悪かったし、腹も立った。アイツの方がよほどマトモな人生送ってるっていうのに……って。その時は思ったんだけど」
宮本さんは長い溜息を吐いた。
「もう私に拘るなよって、言われた」と言い切って、彼は目を瞑った。
それから、俺も窓の方に頭を凭れさせて、しばらく何も喋らなかった。「拘るなよ」という、熱した鉄球のような言葉の意味を、彼がこの話をした意味に思いを巡らせた。結局、彼は同じ言葉をオレに言っているのだ、という意味だけを咀嚼して飲み込んだ。生唾が喉を通るときに、ごくりと音が鳴った。
でも、と思う。でも、拘ることは止められないよ……宮本さん。だってそれは、彼女の生き方に囚われる、呪いみたいなものだから。呪いは死なないと解けることはないから……。
「片思いだねー……」
彼は鼻で笑って、「そんなんじゃねえけどな」と呟いた。
「いや、それはもう本能だよ。他人の生き方に片思うことは。一度囚われたら」
「本能……」
彼は言葉を結ばないまま、不思議そうに、おもむろに首を傾げた。自分の中の、いつの間にか出来た穴の縁を指でなぞるように……。何かがぶつかって空いた穴なのか、元々脆くて出来た穴なのか、確認するように……。
*
後部座席に座る彼らは、彼らの関係が岩盤のようなものに突き当たっていることを感じていた。窓に凭れて通りの明かりを目で追う東千里は、重い物を腹で引きずるように、静かに溜息を吐いた。溜息は窓を曇らせ、彼はその中に涙の気配があることを悟って目を瞑った。体の関係なんていい。……ずっと、彼に見ていて欲しい……。これからの生き方を、一番近くで見守っていて欲しいと心の中で思った。彼の願いはそれだけだった。
一方、宮本健司は特に理由もなく話した田村との関係を、彼に吐き出したことで幾分か消化しつつあることを悟った。そんな彼の顔は片思うときの顔をしていたが、思いの行く先は彼女の存在だったのか、彼女の生き方だったのかは分からなかった。だが、食事のために働いていると言ってのけた城之内や、若さに拘る平戸のことを思って、彼は次にこういう考えに囚われ始めた。
……本能があるから人は特別でいられるのか……。そんな思いを隣に座る東千里に話そうとして目を移すと、彼は目を瞑っていたので眠っているのかと思った。頬を伝った涙は、キャップの陰で見えなかった。
このときの宮本には、東千里という存在が、自分の中で友人を超えた、ある種特別な存在になりつつあることが分からなかった。
――終
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最後まで読んで頂いてありがとうございました。
よろしければレビューなどよろしくお願いします。
本能と片思うとき みとけん @welthina
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