第5話 歩き出した男1

 神田の事務所に勤め初めて一年と半年くらいが経った頃、俺に後輩が出来た。書類で通した後、俺がインターネットの通話アプリで一次面接を行った後、貧相な事務所に迎え入れて俺と平戸さんで最終面接を行った。面接の間は城之内がいると邪魔くさかったので、近くの喫茶店に追いやった。城之内は「私も新卒ちゃん見たい!」とごねたが、俺が五百円をあげたらぶうぶう言いながらも大人しく出て行った。それで事務所にやってきたのが佐々木だ。

 佐々木は如何にも若い女の子っていう感じのしゃべり方をする女だったが、一体どういう現象が発生したのか、東京大学を出ていた。あの頭の悪そうなしゃべり方の彼女が東京大学に入学した理由も、彼女が新卒でこの事務所の就職を志望した理由も分からない。ただ、最終面接で平戸さんのファンなんです、と言う。ずっと、あのデザインを作る事務所で働きたいと思っていた、と言う。その場にいた平戸さんは控え目に嬉しがっていたが、面接終了後、彼女の採用に関しては意外にも渋い顔をした。

 彼女に理由を尋ねても、変な顔をして「うーん、ちょっと」としか言わない。だが、結局俺が忙しそうに外回りするのを見ていたからか、彼女に内定を出すことにしたようだ。

「こんな事務所、逆にお断りされると思うんだけどなあ」と平戸さんはぼやいていたが、その予想は裏切られた。


「だって、あの佐々木って子、見るからに美鈴さんの苦手なタイプじゃないですか」

 近くの古びた食堂で親子丼を食べていたときに城之内が言った。たまたま、昼休憩を取るタイミングが一緒になった。店にはテーブル席が三つと、カウンターが五席、それに古びた畳が敷いてある小上がりがあるが、今は殆ど人で埋まってる。俺たちはカウンターに座っていた。店内にはラジオが流れている。

「そうかあ?」

 俺が言うと、彼女はとんでもないという顔をして、また親子丼を口に運ぶ。

「宮本さんって、美鈴さんと付き合っているんですよね。……分かりません? そういうの」

 城之内は明らかに俺より多く喋っているのに、同じタイミングで食べ始めた親子丼をもう食べ終わろうとしている。俺はまだ半分くらいしか食べていないのに。

「付き合ってるわけじゃないよ。ただ、たまに食事行くくらいの仲だけど」

 城之内は親子丼を食べ終わって口元を拭いた。

「あのね、宮本さん。美鈴さんだってもうすぐ三十の後半なんですよ。早く、ちゃんとした恋人になってあげないと、可哀想ですよ」彼女は真剣に怒っているようだった。

「ちゃんとした恋人ってなんだよ……。可哀想ってなんだよ」

 俺は丼に頭を伏せた。実際、平戸さんとの関係は座礁に乗り上げている感じがあるのだった。北海道の実家に帰った田村とのことが念頭にあって、いまいち関係を踏み込めずにいた。それで、草木が萎れたり水を得て元気になるようなサイクルで平戸さんとは食事に誘ったり誘われたりしている。多分、お互いの好意にはお互いが感付いている状況だと思う。そう思いたい。

「ちゃんとした恋人になるっていうのは、しっかり美鈴さんに思いを伝えることです。可哀想っていうのは、年齢差がある関係では若い人がアドバンテージを持っているからです」

「……そうかあ?」

 俺には、アドバンテージがあるのだろうか。なんだかスポーツみたいだ。

「そうです」

「そうかあ……」

 城之内はあからさまに溜息を吐いた。


 佐々木と東京メトロに乗っていた。

「事務って聞いてましたけど、外回りって多いんですかあ?」

「まあ、割と多いかな。面接の時に言ったと思うけど」

「へえ、なんだか大変そう」と、まるで他人事みたいに言った。

 佐々木をさっそく新規の打ち合わせに付いてこさせた。割と最近企業した半蔵門の建設会社のホームページデザインを詰める打ち合わせで、基本的に俺がコンテンツ、デザインのイメージを聴取し、見積もりを出す日取りを決めた。今回は特に問題もなく平戸さんと城之内が行う作業工程まで繋げそうだ。後輩の手前、内心ホッと一安心した。そのまま昼時だったので、佐々木と一緒に近所のラーメン屋に入った。「しゃませ~」と外国人の店員がキッチンから言った。

「なんか、こういうデザインの打ち合わせも私たちがやるんですねえ。私、びっくりしちゃった」

「他のデザイン事務所がどうなのかは知らないけど、うちはそうだよ。エンジニアは二人しかいないし、常に忙しいからな。メールの顧客対応で済む場合もあるけど、デザインを外注する客って大抵ウェブに疎いから」

「へええ」佐々木は目を丸くした。醤油チャーシューの麺を啜る。当然、俺のおごりになる。

「でもお、制作を知らない私たちがデザインのことを打ち合わせして理想通りのものが作れるものなんですかあ?」

「うん、まあイメージカラーを二色くらいと、実際に幾つかのモデルを見せて好みの雰囲気を教えてもらえればあんまりリテイクが入ることはないね。そもそも、ある程度具体的なイメージ持ってる客って、メールできちんとそういうの伝えてくるんだよ」

「……なるほどー……」と、神妙に頷いて、またラーメンを啜り始める。

 おちゃらけた口調でも、案外、佐々木はしっかり職務を理解する為の質問を投げてくる。コイツは俺よりも優秀かもしれない。……そうういえば、東大出てるしな……。


 *


 昨年、夏の終わり頃に東京メトロ沿線で物件を探していたら、中野で手頃なアパートを見つけて今はそこで生活している。中野から神田の事務所まではJR中央線一本で行けるし、程ほどに都心らしい人の気配があって気に入っている。

 大知が拘留された時に、あいつの部屋の家具を処分しなければいけなかったのだが、冷蔵庫やテレビとかの家電は割と新しく、部屋の大きさ的にも丁度良い物が幾つかあった。大知の父親に譲ってくれるよう連絡を入れたところ、別に構わないが、荷物を運び入れるための手間賃は払わないので自分で運ぶように、と言われた。結局阿佐ヶ谷から中野の自宅までの配送は業者に頼んで、部屋までの運び入れは千里に手伝って貰った。

「じゃあ乾杯、ということで」

 荷運びを終えた後は、そのまま俺の部屋で千里とビールを飲んだ。そして、住むところに困ると言う彼を手伝って貰った礼として少しの間部屋に泊めていた。今では彼も中野のかなり安価な部屋を借りているようだ。

「はい、乾杯」そう言って、千里はグラスの縁を持って軽くぶつけた。数日間、俺の部屋で晩酌していた仲がそのまま続いて、最近は仕事終わりに高野さんの店に呼びつけて飲んでいる。そうはいっても、千里はかなり貧乏なのでそう頻繁には外では飲まない。金がないときには部屋で飲むのが気楽だ。

 千里は貧乏なのだが、よく酒を飲むのだった。彼は不眠症に悩まされている。この日も、アルバイトの疲れと寝不足で目許に深い隈を作っていた。

「最近、バイト忙しくって。……文字起こしだけなら楽だったんですけど、取材でそこらを回っているとどうも疲れて駄目ですね」

 彼は、メインでやっていたライターのバイトを、顧客と受注を増やしてなんとか三万円行かない家賃を払っている。風呂もシャワーないというので驚いたことがある。

「お前はやく病院に掛かったほうが良いんじゃないのかよ」

「俺に病院行くお金なんてないんですよ」そう言って貧相な笑みを浮かべる。

「ちょっと実家にでも帰ってさ、休んだほうが良いよ」カウンターに立つ高野さんが言う。

「実家かあ……」

 千里は考える振りをした。実際にはそんな選択肢は端から頭に無いようだった。


「宮本さんは、最近は例の女性との関係はどうなんですか?」

 近況に関する話題の延長で、千里に尋ねられた。

「どうもこうもないよ。特に目新しいイベントも無い」

「じゃあ……そろそろ黄色信号かなー」と言う。

「まずいかな?」

「そろそろ宮本さんからアクションした方が良いですね」と、彼は断言する。

「そうかあ……」

 千里は大知と同じ年齢のようだが、俺よりも恋愛経験が豊富だ。というか、女性の心理を知り尽くしているように思う。ホストにでもなればかなり稼げると思うのだが、そう言っても彼は困った顔をするだけだった。

 それから千里が行った取材や、実際に使ってレビューした日用品の中で面白かったことを話題にして夜が更けた。高野さんの店を出るとき、「東くん、これ」と高野さんが袋に入った何かを千里に渡した。

 中をのぞき込んで、「わー、アスパラ」と可愛い感じで笑った。

「実家から送ってくるんだけど、店で出しても消費しきれないくらいあるんだ。良かったら食べてよ。バターで炒めたら、簡単に食べられるから」

「ありがとうございます。……助かるなー……」

 俺はその様子を、カリスマ性ってこういうのかもな、と思って見ている。若い頃はこういう生き方に憧れたよなあ。若いと言っても、中学や高校みたいなガキの頃だ。別に俺がもう若く無いと思っているわけじゃないのだが。でも、今こうやって彼を見てみると、思ったよりも大変そうだ。

 帰り道、話題が尽きたら決まったように、「宮本さん、部屋、片付けてます?」と聞いてくる。

 以前俺の部屋に居た頃に千里はよく掃除をしていて、俺は散らかしていた。それが続いて、一度真剣に怒られたことがある。

「ぼちぼちだな」

「ぼちぼちだな、じゃあないですよー。習慣付けしなくちゃいけないのに」と、おばさんみたいなことを言ってくる。


 *


 佐々木はすくすくと仕事を覚えた。事務所に彼女が来て、二週間も経つころにはもう一人で勝手にやらせてもいいかな、と思うくらいにはなっていた。事務所の中での仕事も、外回りの仕事もそれなりに熟している。ただ、彼女には一つ弱点がある。

「やだあ! もおお……」と突然叫んで、ノートパソコンの前で頭を抱えることがある。「どうしたどうした」

「お客さんからクレームがあ! ……宮本さあん」と泣きついてくる。

「はいはい」

 彼女はこういったストレスにとても弱い。いかんよなあ、と思いながらも俺が処理した方がスマートに済むと思って、結局クレームの処理を引き受けてしまう。彼女のためにならない。とはいっても、今の事務所では従業員の教育よりも溜まっている仕事を捌く方が火急なのだった。こういうとき、平戸さんは、しらけた目で俺を見ている。

 この頃、忙しくて平戸さんとは予定が立たずにいる。そういえば、去年の今頃も結構忙しかったような気がする。それでも今年はまだましだ。何しろ人手が増えた。書類の入力も整理も分担できる。

 ただ、部屋に帰るなりパタリと眠ってしまうこともある。例の眠気が、この時期になってまた現れている。春眠暁を覚えずではないか。北海道の田村はどうしているかなあ。

 枕の横に置いておいたスマートフォンが震えた。平戸さんから、来週の週末に誘いがあった。詳細は書いていない。もしかしたら、向こうも向こうでやきもきしていたのかもしれない。多忙によって釣り合っていた均衡が破られた……。城之内が若い方にアドバンテージがあると言っていたことを思い出す。千里が黄色信号だと言っていたことも思い出す。やべえかなあ。他人から見たら、ちゃんと付き合っているようには見えないのだろうか。別れ際にハグぐらいはするが、まあほぼ一年間でそれだけと言えばそれだけか。彼女との関係には焦燥感を感じないんだな。

 考えてもみれば、彼女と俺では世代が違うのだ。それに、お互いの経済状況を考えれば、付き合い始めるのは微妙な所だ。案外、今の時期に面と向かって気持ちを伝えても困った顔をされる気もする。こんなこと、千里に話したら呆れられるだろう。


 千里は都内に点在する変な物を売っている雑貨店のあらゆる情報を知っている。仕事柄なのかと思ったら、単純にそれらを見て回るのが趣味らしかった。

「なんか少女趣味すぎないか」

 返事が無いので千里の方を見たら居なかった。辺りを見回しても居ない。女性客がひしめいている目黒の西洋風の雑貨店で、俺は孤立していた。

 店から出ると、店の入り口を囲っている砂利から離れたところに彼はいた。疲れた顔をしていた。

「人の多いところって、ちょっと苦手なんですよ。ここで待ってますから、見てきてください」と勝手なことを言う。

 俺は店内に戻った。女性客が多くて居心地が悪かった。色々雑貨を見て回ったが、三十三女性にはこれ、と思う物がいまいち分からなかった。それで、また店から出て千里が立っている所に行った。

「おい、一緒に来てくれよ。男一人じゃ息苦しいよ。何を買えば良いのかも分からない」

 彼は迷惑だと言わんばかりに溜息を吐いた。

「そんなもん、自分で考えりゃいいでいしょう」

 お前がここに連れてきたんだろーが、と腹が立ったが彼の言うことも尤もだとも思ったので、俺は黙ってまた店内に入った。やはり迷っていると、ようやく店内に千里が入ってきて、「こういうの、良いと思いますけどね」と、四千円くらいの綺麗な石みたいな石鹸を指差した。

「そういうので良いのか」

「まあ、自分で買おうとなると高いから手出しにくいし。それに、こういう美容品って案外喜ばれるし。特に記念日でもないんなら、こういうので」

 そう言いながらも、彼の額には汗が浮かんでいた。そういえば、顔色も悪くなっている気がする。

「そんなに人込み駄目なのか」

「ええ、まあ、ちょっと」それでふらっと店の外へ出て行った。


「この辺りの飲食店って、都会にしてはパーソナルスペースが守られてて良いですねー!」

 立ち寄った喫茶店でウインナーコーヒーを飲み始めると、千里は幾らか気分がよくなったようで、弾むような口調で言った。

「目黒だし、高級住宅街があるからじゃないか?」

「関係あるのかなー、それ」

 そんなどうでもいいことを二人掛けの席で話している。

 昨年、受動喫煙禁止令が決まってから、喫煙室が駆逐された。高野さんの店でも今では禁煙になってしまったのだった。だから、喫茶店だというのに煙草は吸えない。

「もうここも全面禁煙かあ……」

「もう辞めちゃえばいいじゃないですかー。若い人で吸ってるのなんて、もう見ませんよ」

「そうなんだけどな」

 そうは言っても、辞められるもんなら辞めているのだ。

「今の東京に大知が来たら喜びそうだな」

「へえ、なんで?」

 彼はそう聞いた時にはもう、愉快そうに白い歯を見せて笑っている。

「昔さ、大知も煙草吸ったんだよ。……あいつが高校の頃だけどね。昔はちょっとしたチンピラでさ。それで、よく学校でも隠れて吸ってたみたいなんだけど」

「うん」

「高校で小火騒ぎがあったらしいんだよ」

「えー!」

「燃えたのは部室の倉庫でさ、犯人は野球部のチンピラだったんだけどね」

「なーんだ」

 彼はあからさまにほっとしてソファに凭れた。

「……まあ、そのことは後で分かったんだけどさ、疑いの矛先を向けられたときに自分が犯人だって言っちゃって、それで話がすげーややこしくなったんだよ」

「ふええー」と彼は高い声で悲鳴みたいなものを上げた。

「そんでさ、あいつ色んなやつに煙たがられて、家に引きこもっちまった」

「え?」

「高校は、まあ何とか卒業できたんだけどな。それで、東京で自立するっつってこっち」

「……」

 千里の顔から笑みが消えている。

「この話、聞いたことあるかな。大知の黒歴史ってやつか」

「……いや、聞いたことないなー……」

 そういえば、大知が東京から去っていってもう一年以上が経っている。田村も……もうすぐ半年かそんくらいか。だが、考えてみればこっちの俺の交友関係から一人一人と消えていくのに、不思議とどこからか新しい人間が俺の交友関係の射程距離に入ってくる。

 大知、田村アウト。千里、佐々木イン。親父がアウトしたときはどうだったかなあ。東京ではいなくなった人間を死人みたいに扱うよなあ。……別に地方でも変わらんのか。

「あ、宮本さんさー。部屋綺麗にしてるー?」


 *


 予期せぬ自体が起こっている。

事務所の前の廊下で、客からのメールを受け取って眉間を揉んだ。元々俺が担当していたデザイン会社の元請けだ。何か異変を感じて、わざわざ俺に知らせてくれたらしい。

 なぜかクライアントに提示する納期が早まって伝わっている。……まあ、原因はわかっているが……。

「佐々木」事務所から扉を開けて呼びかけた。

「はあい」

 佐々木の隣に座っている城之内が一瞬俺を見た。だが、すぐに自分の作業に戻った。


「これどういうこと?」

 事務所の扉から少し離れたスペースで、佐々木と向かい合った。俺はスマートフォンで、受け取ったメールを彼女の目の前に突きつけている。

「どういうことってなにがですかあ?」

「納期の調整だよ。なんでこんなに詰めた」

 彼女は居心地悪そうに首を傾げて、唇を尖らせた。

「……だって、お客さんがそうしてくれっていうからあ……」

「無茶だろーがよ、こんなスケジュール」さっきプリントした仕事の施行スケジュール表を指で弾いた。今抱えている仕事を考えると到底無理な工程で設定されている。

「お前少しは考えろよ。うちは平戸さんと城之内しかいねーんだぞ」

「……だってえ……」

「だって、なんだよ?」

「宮本さん、そういうの教えてくれないじゃないですかあ……」

 俺は、とっても驚いた。

「はあ?」と間抜けな声を出してしまった。

「そんなこと今更言われたって、お客さんにもう言っちゃいましたよお、私いいい」

 そう言い切って、蹲って泣き出してしまった。

 泣かれたって、困るものは困る。……それが本音なのだが……。

「わかったよ、佐々木」

 佐々木が赤い目で俺を見上げた。何故か俺には彼女がこずるいように見えた。泣き真似しているんじゃないだろうか?。

「俺が先方に謝って、スケジュール調整し直すから。佐々木は取り合えず、今抱えている案件の詰めの打ち合わせ頼むわ」

「……」

「出来るよな? 佐々木」

「そうやって、きちんと指示貰ったら出来ます」

「……。じゃあ、頼むな」

「はあい」


 それから俺は外を回って回って回りまくって、頭を下げて下げて下げまくった。俺の頭も随分安くなった……。そんなことでポンと弾けるように普段の書類仕事をする時間が消滅して、二週間。平戸さんとの約束までには……、と思っていたが締切が近い仕事が多すぎる、土曜の夜。事務所の外の細い路地で外の空気を吸っている。

 色々考えたけれど、俺は平戸さんに電話を入れて、明日の予定をキャンセルせざるを得なかった。


 *


「高野さんさ、これ要るかよ」

「えー? なにこれ」

 高野さんは俺から受け取った紙袋を丁寧に開いて中を覗いた。それで、細い目が線になってにこにこし始めた。

「あああ、可愛いいい。綺麗な石鹸」

「高野さんって、バケモンみてえな喜び方するよなー」

 俺は大分酔っぱらっている。久しぶりに一人で高野さんの店に来た。

「でも宮本君、これは受け取れないよー」

 にこにこ笑いながら、丁寧に紙袋を突っ返してくれた。

「だってこれ、女性に贈るようなものでしょ。渡し損ねたんでしょう」

 俺はこっくりと頷いて、そのまま俯いた。溜息を吐いて、ウイスキーを飲んだ。平戸さんは俺からのメッセージを読んだようだが、返事が返ってこない。焦燥感はあるのだが、打つ手が無い。事務所で彼女と二人になったときに謝罪しても、事務的に「もういいです」と言われるばかりだ。

「……俺ってどうしてこう……」

 ついていないんだろうか。泣き言を言いたくもなる。理不尽だとしか思えない。佐々木……新卒って怖い。何を考えているのか分からない。今回のことは俺の責任なんだろうか。多分そうなんだろうけど、やりきれねえなあ。平戸さんにしても、もう少し情状酌量をくれたって。

 ……いや。

「言いたいことって、言えるときに言わないと、駄目ですね」

 高野さんは機嫌良さそうに漬物を小鉢に盛って俺に出した。

「それはそうだよねえ」

「うむ……」

 当たり前か。


 アパートに帰って、今日も煙草を吸っている。今では中々吸える店がなくて、これを機会に止めようかとも思ったこともあったのだが、まだまだ習慣は続いていくんだろう。

 まだ外は寒いが、煙が部屋に籠るのでカーテンに隙間を作って、窓を少し開いた。

 外の香りと煙草の匂いが混じると田村と飲んだ夜を思い出す。彼女を追いかけた夜は、思い出したくもねえなあ。

 そういえば、最近事務所の近くに新しいバーができたことを思い出した。……これで断られたら、もう駄目かな……、そう思いながらもやけっぱちに平戸さんを金曜の夜に誘ったら、あっさりとした文面で了承されたので却って焦った。


 *


 駅前を見下ろせるビルの階段を上がった三階、ドアは開きっぱなしになっていて、カウンター六、テーブル席が窓際に三つほどある。俺たちが早い時間に来たのか、まだオープンして間もなく客があんまりついていないのか、それとも雨が降っていたからか、金曜夜だが店は空いていた。先客はカウンターに二人程だった。

 フルーツカクテルのバリエーションを売りにしているらしいので、俺は旬のマンゴーを使ったカクテルを注文した。平戸さんは見たことのない、海外の銘柄のビールを注文した。

 無言のまま店内に入って、無言のままテーブルについて、彼女は運ばれてきたグラスを無言のまま持ち上げて、ずいと俺に向けてきた。

「あっ、乾杯の前にちょっと」

 俺は紙袋を渡した。

「この間のお詫びです」

「ああ、いいのに」そう言って紙袋の中を見たが、眉根を寄せた。

 やっぱり石鹸は地味か、と思ったが、彼女はおろおろ覗く角度を変えていた。単純に店内の照明が暗かっただけらしい。

「なんだろ、……石?」

「石鹸です、一応」

 何が一応なんだ。

「え! もしかしてフレグランスソープ? うわー、嬉しい」

 満更お世辞でもない感じだったので、俺はほっとした。……こういうのって、フレグランスソープって言うのか……。世の中は分からないことで一杯だ。

 彼女は紙袋を脇に置いて、「これ、宮本君のチョイスじゃないでしょう」と、規則違反を咎める風に言った。

「……分かりますかね、やっぱり」

 あっさり認めたら、彼女は笑った。

「うん、なんというか、……」紙袋をまた手に持って、「宮本君って、こういうお店のことはまず知らないし、街を歩いていても目に入らないと思うから」

 彼女は分かったような顔で言ったが、言葉には複雑な意味があるように思った。……何か、勘違いされているように思った。

「東千里っていう俺よりちょっと下の奴に、見繕って貰ったんですよ」

「……ちさと……」

「男友達ですからね」

「えっ? あ……あー。……ちさと、か」

 それで、彼女は照れを紛らわせるようにグラスに入ったビールを煽った。乾杯しないままでいたことを伝えると「ああ、もう」と耳を赤くした。


 平戸さんはとても酒に強く、グラスを持ってるなあと思っていたら、いつの間にか空いていて、くいくい飲んでいるなあと思ったら、ボトルを開けていたりするからいまだに驚く。ただ、彼女が酒をよく飲むときは、俺も楽しいのだった。

「今の繁忙期も、もうそろそろ終わりかな……」

 まだ、雨が降っている。窓からは色とりどりの傘が駅に向かって流れていたり、ぶつかると思ったら器用に避けて、集団が交じり合って愉快だ。だいぶ酔っているかもしれない。

「開発の方は、どうですか? 城之内も最近は頑張るじゃないですか」

 窓を見ていた彼女は、まるで自分が褒められたように、嬉しそうに笑った。

「本当にそう。デザイン自体のスキルはないんですけどね。でも、実装の腕はもう一人前なの」

「今年は去年と比べてどれくらい捌いた案件が増えたんでしょうね。だいぶ儲かったんじゃないかな。経営のことは分からんですけどね」

「エンジニアは二人しかいないけど、スケジュールの効率で考えると、結構なんじゃないかな。去年よりは手応えあるかな」

「やったあ。わあい」

 大げさにリアクションしてから、酔ってるかな? と思った。……酔ってるな……。

「宮本君、お水飲んだら?」

「そうですね……」

 俺は水を一杯頼んだ。

「でも真面目な話、事務所はどうするつもりなんですか? 人増やすんですか?」

 気が付けば、彼女もついでにフルーツカクテルを注文していたようでテーブルに置いてあった。

「人を増やす前に、事務所のお引越しをしないと」

「するんですか?」

 そういえば、確かにあの事務所にはあと二人がせいぜいかもしれないな。

「考え中かな……。人が来るかも分からないし、毎日不安だから。いつ仕事が途切れるかって。まだまだベンチャーっていうより、零細だから」

「佐々木みたいに、気まぐれで来る人間も居るんじゃないですかね。それとも、俺みたいな半端な中途」

「佐々木さんか、……。どうですか? 彼女」

 話題が一足すっ飛んだ気がした。

「どうですかって、なんです?」

 彼女は眉を上げて何かを言おうとした。だが、言葉に詰まったのか、困ったようにフルーツカクテルに手を伸ばした。

「仕事の覚えは良いですよ。でも、この間は取引先で勝手にスケジュール詰めちゃって、それで俺があいつのケツを拭いてました。……ミスはあるけど、新卒で研修らしい研修も無しですからね。まあ大目には、見ていますけど」

「へえ。……」

 彼女は呟くように言って、窓の外を見た。それで、俺の方に向き直って、「もしかして、この間の日曜日も、それで?」と聞いたので、俺は頷いた。すると、彼女は俯いた。

「……佐々木さんって、すごく気が利くんです……」

 そう語りだした。

「例えばあの子、事務所から帰るとき必ず私に挨拶するんです。私が集中を解くタイミングで、狙ったように丁度来るんですね。多分、本当にそういう機会を観察して、伺っていると思うんですけど」

「あいつが?」

「空気が、読めるんですね」

 ……そうなのだろうか。そういうところは、俺は気づかなかったが。

「やっぱり、きっと頭が良いと思うんですよね。そういうところ。それに、若いんです」「若いっていうなら、俺たちに比べたら城之内だってそうじゃないですか」

 尤も、彼女から見たら新卒の佐々木はさらにそうなのかもしれないが。

「それはそうなんですけど、佐々木さんのそれはもう、眩しいくらいで……」

 彼女は自分の中で語彙を探すように難しい顔をしてしばらく黙ったが、やがて息を吐き出すように、

「嫉妬、しちゃうんですよねえ……」と言った。言って、笑った。

「まあ、若いっていいですよね」

「若さを求めることって、本能なんだよね。なんというか……」

 そのまま、言葉を繋がないままでいた。彼女は自分が三十代を超えていることを確かめるように、二の腕を両手で擦る仕草をした。


 若いことって、そんなに偉いんだろうか。多分そう思う内は俺もまだまだ若いんだろう。平戸さんは自分がもう若くないと思っているのだろうか、……そんなことはないと思うが、こういうのは他人がどうこう思っても仕方がないことなのかもしれない。

 何かを求め続けることが、人間の本能だというのか。そうだとしたら、人生って長いな。アホじゃねえのか? そういうのって。

「なるほど」と会話の流れを無視して俺は言った。

 何がなるほどなのだ。

 それで話題が途切れて、互いは互いが何か言い出すのを待つ雰囲気が漂った。

「今日は誘ってくれて、嬉しかった」そう言って、彼女は少年のような鼻の下を擦る仕草をした。

「……。この間断られた時はもう、飽きられたんじゃないかって」

「本当にすいません、残業だったんです。……言い訳ですね」

「いや、若さには勝てないなーって、この頃ずっと思ってた」

「まさか、俺と佐々木の仲を疑っていたんですか?」

「……いや、ただ.。……」

 間があった。

 ポコポコポコポコ、雨が窓に突撃して弾かれている。

 ……雨降ってんなあ……。

「あなたたちが連れ添って事務所を出ているのをみるとき相応しいなあって思っていたんです私よりも」

 敗北を認めるように言った。俺は笑った。

「そんな、負けたボクサーみたいに」

「私は、負けてるね」

「……。何をそんなに拘るんです?」

「そんな馬鹿にしたように言うけど私だってこれでも若さに、」

 彼女の両肩がすっと下がったように見えた。

「……若さが……」

「……」

「……好きになるほど……自分が残されて見える……なあ」

 本能は、自分の中の切り離すことのできない臓器なのではないか、という考えが浮かんだ。そんなこと、口には出さなかったが。

「こういうことは、素面の時に言いたかったんですが、」

 それで、俺は彼女に想いを伝えた。

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