第4話 呪われた男2
夏が近づくころに文字起こしのバイトが複数件入って少し忙しかった。新宿の編集社で仕事を貰うついでに陣に例の子供のことを話した。編集部の人々は相変わらず出払っていて、机には紙の束だけが残されていた。
「お前、あんまり面倒なことに首突っ込むなよ」と、陣は薄情なことを言ってのけた。「他人の子供のことより、いい加減自分のことを考えろよ」
「……そんなこと言わないでよー」
「お前、いい加減いい歳なんだから」
陣に怒られて、オレは結構傷ついた。
「そりゃそうだけどさ、お前とオレの一体何が違うんだよ?」
「俺は働いてるだろ」陣は心外だという感じで言った。
「働いているだけじゃんか」
「怒ってんのか? お前」
オレはにこにこ笑って髪を掻き上げた。
「べっつに怒っちゃないけどさあ、ハハハ……。だって、お前だってオレみたいにマトモに大学卒業してないじゃん。途中で辞めてんじゃん。親とだって関係悪いし、……そもそも働いてるったって大して稼いでないじゃん」
「それでも自活はしてるだろ」陣は飽くまで冷淡だった。
「そういえばこの間、ホストの取材行かせただろ」
陣は、突然何を言い出すんだこいつ? という顔をした。
「オレ、取材のあと、犯されちゃったよ」
そこで、オレは敢えて顔を顰めた。
「……」
「陣……お前さ、あのホストがホモだってこと、知ってたんだろ?」
陣の喉には、いつもの「う」がつっかえ始めたようだった。
編集部から帰るとき、陣に後ろ手を捕まれた。彼の手は汗ばんでいて気持ちが悪かった。
「……千里……」
あんまり陣が申し訳ない声を出すので、オレは満足して手を払いのけた。編集部の扉を閉めて、舌を出して笑った。あいつもこれで少しは傷ついただろう。ざまあ見やがれ。ワハハ。
陣の事務所から帰る途中、オープンテラスの喫茶店で、窓際のカウンターに座ってカフェオレを飲んでいた。窓の向こうの通りをぼーっと眺めていたら、せわしないように歩いていた女性が一瞬オレの方を見て通り過ぎた。でも、すぐにつかつか窓の前まで戻って来て「ああっ」と叫び声を上げた。
「東千里!」と、また叫んで早足で店内に入り、荷物をオレの席の隣に置いて、素早くレジのところでアイスコーヒーを受け取って、座った。
オレは彼女の笑顔をまじまじと眺めたが、誰か分からなかった。若いので、大学の同期かもしれない。困惑しているオレを見て、彼女は笑った。
「やだ。覚えてないの? 三ヶ月くらい私の部屋に居候してたくせに」
……そっちか……。そこまで言われても分からない。
「狩野だよ。狩野望」
「えー!」
オレは驚愕した。オレのイメージの中の狩野さんは、こんなに派手な化粧をしない人だった。それに、こんなに活発なしゃべり方もしなかった。
「何、本当にわかんなかったの?」
「ごめん、わかんなかった……」
「ま、それもそうかな」
狩野さんは得意気な顔をした。その顔は記憶と一致していた。
「あの後さ、整形したの。ほら、ここ」と言って、自分の目元を指差す。
「……」
全く、本当に全く以前との違いが分からない。化粧が濃いせいもあると思うが、……そもそも狩野さんに整形するほど顔にコンプレックスがあるなんて聞いたことがなかった。それでも一応、違いに気づいてびっくりした振りはしてあげた。
「どう、美人になったでしょ?」
「……うん。全然わかんなかった。別人みたい……」
狩野さんは手鏡を取り出して、自分の目元をうっとりした表情で観察し始めた。
「すごいよねえ、奥二重を二重にするだけでこんなに印象が変わるんだもん。私、現代の医学に感動しちゃったよ」
……奥二重を二重に……? 分かるわけがないだろ……。
アイスコーヒーを飲みながら、狩野さんはオレの顔をしみじみと眺めた。
「千里君は変わんないねえ。私が出会ったときのまんま」と親戚のおばさんみたいなことを言う。
「いや、だって一年くらしか経ってないよ」
「一年ったって、人は変わるよ。若いうちなら尚更だよ」
三十代前半の彼女は老けたことを言うのだった。一年前の彼女はもっと暗くて、化粧も地味で自尊心が無くて、それでいてちやほやされたいがためにホストに貢いで傷ついて、……要するに救いがたい人だった。三十代前半という年齢は若く無いのだろうか。
「狩野さん、忙しそうだけど、最近何してるのさ」
「転職したの。私。で、今は空いた時間で婚活したり」
「あー、そう……頑張ってるんだね、狩野さん」
「へへへ……」
狩野さんは照れくさそうに笑った。オレと一緒に生活していた頃には見たことがない笑顔だった。
「でも、今でも千里君と生活をしていた頃を思い出すんだよ」
「そう?」
「千里君は、なんというか青春の象徴だよね。部屋に帰ってさあ、君みたいな若くてかわいい子が料理作って、洗濯して、掃除していたりする生活って、今考えたら夢みたいに思うなあ」
「じゃあ、また一緒に生活してみようか?」
内心、割と冗談でもなく提案した。狩野さんとの生活をこれから再開して、もし結婚まで持ち込まれたら、それを了承して主夫になればいい。それなら堂々と働かないで生きていける。しかし、彼女はあっさり「うん、それはないかなあ」と否定した。
「そんなー……」
「なにさ、またお金に困ってるの?」
「オレは年がら年中困ってるんだよー」
「君はきっと、ずっと……永遠に若いんだろうねえ……」
オレは居直って、狩野さんの方を向いた。
「あのね、狩野さんさ、オレだっていつまでもこんな生活してらんないなーって思うワケ。オレだって日々老けていく自分が怖いのよー」
「あら……そうなの」狩野さんは、少しがっかりしたように見えた。「でも、そうなのかもね、君がいつまでも若く思うのって私の願望かもしれない」
「え……なんでさー」
「だって、君を見ていると私も若返るんだもん」
……勝手なことを言うよなあ……。
*
夜。
「ふー……」
近くのコンビニで買った缶ビールを持って、そのまま阿佐ヶ谷の公園に歩いて来た。来るかなーと思って、程ほどに酔ってブランコを揺らしていたら、例の少年がサッカーボールを持ってとぼとぼ歩いて来た。オレに気が付かないでコートに入ろうとしたので、「おい、少年!」と声を掛けたら、オレの方を見てとことこ歩いて来た。
「何してんの?」と突っ立ったまま少年が言った。ちょっと呆れているように見えた。
「酔っ払ってんのさ。かんぱーい、少年」
「お兄さん、暇なの?」
今日の少年は頬の辺りに痣があった。この子の通う学校の先生は一体何をしているんだろうか? 多分、責任感がないか頭が悪いんだろうな。
「オレは年がら年中暇だねー。ひまひまひま」
「そんなんでよく生活できるね」
少年はサッカーボールを持ったまま、オレの隣のブランコに腰を掛けた。
「そこが自分でも不思議なんだよなー。なんで生きのびてるんだろ、オレ」
オレは缶を煽って空にした。ブランコから飛び降りた。
「よし、ボールを貸しなさい。少年」
「リフティングできんの?」少年は少年らしい、挑戦する感じの顔でオレに言った。
「当たり前だろー。なめるなよ」
オレはボールを受け取って、腿で蹴り上げた。ボールが結構な勢いでオレの顔に飛んできて、びっくりしてボールを落とした。
「駄目じゃん」少年は嬉しそうにオレを馬鹿にして、ボールを拾った。
「なんだよこれ。馬鹿馬鹿しいぞ」
「こうやんだよ」少年は腿で蹴り上げるのでなく、足先でボールを蹴り上げた。二回で落ちた。
「何だよ、君も駄目じゃんか」
オレはもう一度腿から蹴り上げたのだが、やっぱり上手く続かなかった。大知がやっているのを見ていた限りは簡単そうに見えたのだが。
またブランコの辺りに置いておいた、コンビニのビニール袋から缶ビールを取ってきて飲み始めた。ボールを蹴るのは馬鹿馬鹿しいとは思うのだが、酔っ払ってやると意外と楽しかった。オレと少年は下手くそなりにボールを回してリフティングをしている。
「お兄さん、名前なんての」
「オレ? 東千里」
「あずまちさと?」
少年は三回ボールを跳ね上げてこっちに蹴って寄越した。
「そう、ちさと。少年は?」
「僕はいくしまりょう」
「りょうか。ふーん。学校楽し?」
オレはボールを腿から蹴り上げた。結構酔っていて、足がふわふわしてきた。
「僕、学校あんま行ってないもん」
「え?」腿で跳ね上げたボールが、顎に直撃した。それで、そのまま足が覚束なくてブランコを囲う鉄柵に腰を掛けた。「……いってえ……」
「東さん、酔っ払いすぎだよ。もう帰りなよ」
「酔っ払ってなんかないよー!」でも、胃の中のビールをリフティングでシェイクしたからなのか、さっきからしゃっくりが止まらない。「……でも、眠いから帰ろ……」
オレはのたのた立ち上がって、のたのた公園から出て行こうとした。
「東さん、ばいばい」
「うん……リフティング、練習しなね」
「うん」
大知はオレが作り置いていた肉じゃがを食べながら安い酒を飲んで、テレビを見ていた。「千里、最近なんか忙しそうだね」
「え、そうかな?」
「帰り遅いし」
洗面所で歯を磨いてから居間に戻ると、大知はソファを降りて座椅子の座って、スマートフォンを弄り出した。オレはソファに横になった。今更だけど、一体この空間の力関係はどうなっているんだ。ベッドの代わりにソファを使っているうちに、何故かオレが優先的にソファを使えるようになっていた。ソファで寝転がっていると、丁度大知の後頭部がオレの膝のあたりにある。顔を向けると、短い金髪の側頭部が見える。
「リフティングって難しいなー」
大知は首を捻ってオレを見た。
「なんでリフティング?」
「さっきやってた」
「へー。珍しい。……あれはコツがあるんだよ」
大知は立って、リフティングをする素振りを見せた。軽やかに、腿を振り上げる。そして、手のひらで腿をパンと叩く。
「ボールの中心を蹴り上げるんだよ。そうすると、ボールが真上に上がるから拾いやすい」
オレはうとうとしながら大知が腿上げをしているのを見る。ボールが無いのに足の動きだけ見せて貰っても意味が無いように思うが、言わなかった。
「……大知はすごいなあ……」酔っ払って眠くて、しみしみした頭で言った。
大知は褒められて、嬉しそうに笑った。
翌朝、大知に起こされて、秋葉原へ行った。散歩でもするのかと思ったら、大型家電量販店にずんずん進んでいって、冷蔵庫が並んでいるコーナーに行った。
オレはかっこいい色の冷蔵庫をパカパカ開けて、中にどれだけ野菜が入るのかを見たりしていた。今、大知の部屋には観音開きの、幅を取るタイプの冷蔵庫がある。それは割と新しい型で、オレはあの冷蔵庫をパカパカ開けて生鮮食品を入れるのが、密かに楽しい。
ところが、大知はあの冷蔵庫を買い換えたいと思っているようだった。
「あれ、音が鳴るんだよ。ブーって、床が揺れているみたいな」
「音? オレは気にならないけど……。それにしたって、新しいの買うとお金掛かるよ。それに、今あるのだって新しいのに……」
「でも、音気になるんだよなあ……」
オレは大知の金銭感覚に呆れた。
「よしなよー、そんなの我慢できないのー?」
「夜も眠れねーんだよなー」
結局、家電を色々見て回ったが、大知が新しい家電を買うことは無かった。それで彼は、エスカレーターで地上階へ降りる間も名残惜しそうにカタログを見ていた。
「バイトでお金貯めてから買ったらいいんじゃないの?」
「金なー。貯まらないんだよなー」
「正社員で働けるところも探してるんだけどなー」
駅から大知の部屋へ向かう道で、大知が言う。
「仕事探してたの?」
「そう」
そういえば、最近彼は朝から昼まで家を空けることが多かった。
「でも全然駄目なんだわ。オレ頭が悪いから。書類で面接まで漕ぎ着けても、そこで頭の悪さがばれる」
「……大知は人柄が良いから、すぐ良い仕事見つかると思うよ」
「そうかな?」
その日は特に用事も無い二人だったので、なんとなく公園に訪れた。夕刻だったからか、父親が女を部屋に呼んでいないからか、りょうはいなかった。
「オレも千里みたいに大学に行けるくらい頭が良かったらなあ……」
大知はブランコに座って、空を見上げて寂しそうに言った。こんなパッケージの白黒映画があった。
「つっても、オレも途中で辞めてるからなー」
「……オレ、千里が羨ましい……」
「え?」
大知が、彼じゃない人間のような声で言ったので、どきりとした。
「千里って、今こそぷらぷらオレみたいな生活してるけど、多分、オレと違ってきちんと社会人できると思うんだよな。いざ、やろうと思えばさ」
「……」
「千里は、俺とそこが違うんだよなあ」
それで寂しそうに笑う彼であった。
時々、夜に公園に寄る生活を続けていたが、そのうち部屋に帰ってからもわざわざ公園に行くようになった。それでも、リフティングを練習したはずの少年は姿を見せなかった。 阿佐ヶ谷のある所に、古びたアパートがある。ある日、近所の主婦が買い物の帰り、そのアパートの一階の前を通ると異臭がした。生臭いというか、とてつもなく腐敗した生ゴミの臭いだ。不審に思った主婦が警察に通報すると、その部屋に住人は居なかった。少年の遺体だけがあって、頭の一部が陥没していた。近くにはガラスの灰皿が、煙草の灰がこびりついたまま転がっていて、黒ずんだ血が付いている。遺体は腐敗している。その臭いはここのアパート、大知の部屋まで届く。それが、オレを悩ませる。という夢をみた。
目が覚めると、台所の袋に入れておいた生ゴミが腐って臭いを発していた。台所と直接繋がっているオレの寝床には台所の残り物の臭いがよく届く。大知は気にならないのだろうか?
壮絶な夢だったのに、夢の中で不快に思ったのはむしろ悪臭の方だった。実際にオレの鼻に生ゴミの臭いが入っていたからかもしれないが。それでも目覚めてみると、言い様のない危機感を感じた。最近姿を見せないりょうは、今は元気にしているのだろうか?
リフティングは、上達したのだろうか。
オレがそれを知る術は無い。ただ、公園に彼の姿を探すことしか出来ない。その事実に、オレは無力感を感じる。責任感、かもしれない。オレが彼を救える唯一の大人なのではないか? という疑念が消えない。学校にあんまり行っていない、と言っていた。だとしたら、虐待の事実に気付いている大人はオレしかいないのかもしれない。
大人……、大人と言えるか? オレが……。働いてもいない。現住所もない。お金もない、モラルもない。
それでも、七月の終わりの頃に訪れた公園にはりょうがいた。
りょうはリフティングを練習していた。超然としていた。
「久しぶり」オレは声を掛けた。
「うん、久しぶり」
ところが、りょうはちっともリフティングが上手くなっていないのだった。ボールを借りて、腿から蹴り上げてみる。……ボールの中心を蹴り上げる。そうすると、ボールが真上に上がる……。大知に教えて貰ったコツを思い出す。
「……おっ、おっ……」感動して、腿を上げながら声を上げた。リフティングは三回、四回と、どんどん続いた。
「おお……」りょうも、目を見開いて呻いた。
それでまた大知の言葉を思い出す。……いざ、やろうと思えば……出来るのかな。大知とオレはそこが違うのだろうか。とてもそうには思えない。オレは社会の屑だと思う。ただ、オレは大知と違って、社会に挑戦しようとしたことが無かった。
「すごい、あずまさんやればできるじゃん」
「オレもびっくりしてるよ。コツがあるんだな。コツが」
それで、オレはりょうに大知から教わったコツをそのまま教えた。だが、りょうはそれでもまだ三回程度しか続かなかった。
「練習したでしょ」
「してないよー。頑張って練習すれば、きっとりょうも出来るよー」
それからオレはブランコに座って、りょうがボールをけんけん蹴り上げるのを見ていた。「りょう、まだ帰らないの?」
「……今日、父さん居ないから。だから遅くまで大丈夫」
「ふーん」
零時を回った。
「りょう。そろそろ帰りなー?」
「……」
彼はもう、ぽろぽろボールを落とすようになった。落ちたボールを、目を擦りながら追いかけて、また一度蹴り上げただけでボールを落としている。
「もう眠いんだろ、お前ー……」
オレは彼が蹴落としたボールを拾ってやった。
「帰りな。送ってくから」
「……うん……」
公園を出て、駅とは反対側の方面へ行く。背中でおぶっているりょうが指を指して家の方向をオレに教える。ボールはオレが蹴って運んでいる。りょうは意識が途切れ途切れのようで、曲がり道でいちいちオレは立ち止まって、りょうを揺り起こした。だから、彼の家に着くのに結構時間が掛かった。
りょうの家は本当に寂れた木造アパートの一階だった。彼の部屋の電気は消えていて、本当に父親は居ないように見えた。
「家、ここで合ってる?」
「うん……」
りょうはオレの背中から降りた。
「東さん、また明日も来る?」
……明日か。
「うん、多分いると思う。オレは暇だから」
「じゃ、また明日ね」
「うん、バイバイ」
りょうはポケットから鍵を出して、扉を開けてアパートの一室に帰っていった。その様子を見届けた。オレが踵を返したら、突然部屋の中から何かが割れる音がした。それから、大人の男の怒鳴り声に続いて子供の泣き出す声が扉を通してくぐもって聞こえてきた。
オレはその場に立ち竦む。嫌な汗が噴き出てくる。大丈夫……とは思えない。りょうの鳴き声は続いている。
とうとうオレは通行人の振りをして扉を叩くことに決めた。一生懸命あれこれ現実逃避を試みたのだが、時間にすれば一分といったところだったかもしれない。……あまりにも怖い人が出てきたら、オレは何も言えなくなるかも知れない。今から自分が情けない。
しかし、ドアを叩いて出てきた男は、予想に反して若く見えて、痩身だった。
りょうの父親と思われる男は、ヘラヘラ愛想笑いを浮かべている。
「おたく、どちらさん?」
「……き、近所の者ですけど、お宅から大きな物音が聞こえたもので……」
「はあ」
「……大丈夫かなあ、と……」
オレは恐怖している。男はどこにも焦点が合っていないような……昆虫のような目玉をオレに向けている。それでいて、愛想笑いは一目で愛想笑いと分かるくらい下手だった。
だが、本当にオレが怖かったのはそこでは無い。
りょうの親はオレに似ていたのだった。……中性的で、若く見える……。肌の艶で、流石に三十代以上だと見当は付くが、それでもハッとするほど整った顔だった。
男はそのまま見定めるようにオレの顔を見続けて、首だけを曲げて暗い部屋の中を向いた。ここから見るだけでも部屋の狭さが分かる。しかし、暗がりでりょうは見えなかった。そういえば、扉を開いた辺りから泣き声は聞こえなくなっている。
「いやあ、何か電気が止められてるみたいでね。ちょっと、灰皿を落として割っちゃって」 男は、へへへと笑う。
「はあ……。あの、お子さんは……?」
男はオレの顔を見て、少しの間何も言わなかった。何を言うべきか考えていたのかも知れない。
「もう寝てますよー。子供なんですからー」
「……」
オレは眠れない夜を過ごした。目を閉じたら、くぐもったりょうの泣き声が、耳の奥から聞こえてくるようだった。……警察に連絡すれば。と思う。しかし、オレはりょうが実際に殴られた所を目撃したわけではない。りょうがそう言ったわけでもない。そんな思考が頭の中を渦巻いて、目ははっきりと冴えていた。……それにしても、あの親は………。
オレに似ていた。まるで十年後の自分を見ているような。自分の人生の行く先を、まるで暗示しているような……。そんなことは考えたくもない。未来のことなんて……。しかも、あんなに暗い、穴が開いたような黒目で。
暗闇の中、ソファから立って台所で水を一杯注いで飲んでいた。寝室からスウェット姿の大知がのそのそ出てきて、部屋の明かりを付けた。
「なんだ、まだ起きてたの?」
「うん」オレは頭を振って、前髪を掻き上げた。「眠れなくてさー」
大知の顔がサッと曇った。
「千里、……涙……」
「え? あっ」
目許を抑えた右手が濡れた。近寄ってきた大知がオレの右手を掴む。左手で顔を覆おうとしたら、そっちも掴まれた。力は強い。……泣いている顔を、見られたくない。奥歯を噛んで右を向いた。
「何があったんだよ」
「……」
「何かあったか言えよ」
彼に話したところでどうにもならないことは分かっている。大知はちょっと頭が悪い。だから、りょうのことを話しても、辛い思いをさせるだけじゃないのか? ……そう思って、口を噤む。だが、腕は離れない。彼の強い目線はオレを離さない。
埒が開かない。
「……離して、腕。話すから……」
「ああ」
彼の腕から力が抜けて、腕が自由になった。オレは黙って台所で顔を洗った。
大知に促されて、オレはソファに座った。彼は座椅子を回して、こっちを向いて座った。
「……夜の公園でさ、子供が一人でリフティングしてて」
「公園って、あのコートのある、近くの?」
「そう。初めて会ってから、時々夜に寄ったときに、その子と合うようになって、リフティングの練習して。ちょっと仲良くなったんだけど」
「……うん」
「その子、よく顔腫らしてて……、最初は喧嘩したって聞いたんだけど。どうも……」
彼の顔は段々と険しくなっていった。初めて見た顔をしていた。
「虐めかな……? ひでえ……」
「虐めというか、虐待、だと思うんだ」
「虐待ってことは、親が子供を虐めてるのか……。ひでえ……」
彼は自分の金色で短髪の頭を両手でごしごし擦って呻いた。それで、「公園って、あの近くの、昼間子供がサッカーしてるとこだよな?」と同じ事を聞いた。
「うん。そう。でも、実際に虐待されている所は見たことがないからさ……なんとも……」
「そうなんだ。……見たことがないな、その子……」
その言葉を皮切りに、お互いにしばらく沈黙した。彼はふと立ち上がって、冷蔵庫を開いてビールを二本持ってきた。オレは黙って受け取った。
彼は缶を開けてから、「あ、酒飲んだら余計眠れないかな」と悪びれたように呟いた。
壁に掛かっている時計を見た。丁度十二時を回った頃だった。笑って、オレも缶を開けた。
「いいや。飲むよ。飲もう」
「じゃあ、」彼は乾杯をするような仕種をしかけたが、すぐ引っ込めた。「乾杯ってのは、何か変か……」
「ふふっ」
それでも、無言で缶をぶつけあった。
「その、公園の子ってどんな子なの?」
「このくらいの、」りょうくらいの身長の位置で手を水平に振って答える。「十一歳って言っていたかな」
「小さくね?」
「そうかな? ……ま、真面目そうな子だったよ」
「ふーん。どの辺に住んでんのかな。その子。あそこの公園で遊んでいるってことは、この辺りなんだろうけど」
オレは二本目のロング缶を冷蔵庫から持ってきて飲み始めた。珍しく、大知の方はあまりビールに口を付けていない。
「今日、あの子を家まで送ってきたよ」オレは、簡潔に公園からりょうのアパートまでの道のりと、うろ覚えの部屋番号を説明した。「分かるかな。あの、木造の古くさいアパートだよ」
大知は眉に皺を寄せていて、「あーっ、あの古いボロか……」と合点がいったように頷いた。「あのボロに人が住んでいるとはなあ……」
……アパートの暗い部屋の奥から顔を出した、オレによく似たりょうの父親を思い出した。あの暗い目を想像して、また気分がドンと落ち込んだ。……女々しい……。震える奥歯を噛みしめて、胃に流し込むように、またビールを煽る。それで酔って、意識が朦朧とし始めた。
肩を叩かれた。
「千里、もう寝な」
オレはソファに座ったまま寝ていたらしい。大知に腕を引かれた。
「……」
「今日はベッド貸してやるから。ほら」
「……うん」
奥のベッドまで連れて行かれて、オレは倒れた。部屋は暗くて、久しぶりに寝たベッドに一気に意識を引っ張られていった。これでは誰が子供なのか分からない……。「君はきっと、ずっと……永遠に若いんだろうねえ……」という狩野さんの言葉が頭の中で蘇った。そんなことはない、そんなことはない……。それで、気を失うように眠りに落ちた。
*
翌日の朝は久しぶりに早くに目覚めた。リビングに行くと、オレが開けたビールの缶は二本転がっていて、大知が開けたビールの缶が一本、テーブルの上に立っていた。持って振ると、殆ど中身は残ったまま温くなっていた。
「勿体ねえー」と呟いた。
欠伸をしながら残っていたビールを台所に流した。台所から窓の外を見ると、雨に濡れた路面が晴れた空の光を乱反射していた。夜の内に雨が降ったらしい。
ソファに拡がっていたブランケットの下に大知が居なかった。
……そういえば、仕事を探していると言っていた。面接にでも行ったのだろうか。
時刻は七時十分。相変わらず朝が早い。
……早すぎる。嫌な予感がする。
りょうが住んでいるアパートの前に黄色いテープが巻かれていたのを見て、鼓動が早まった。部屋の前の扉にはお巡りさんが二人立っている。まだ朝も早いからか、周りの野次馬と言うと朝の散歩をしていたような格好のおじいさんだけだった。
おじいさんは一刻でも早く誰かと話したかったようで、オレをみるなり、「おにいさん、事件だよ、おい」と深刻そうな顔をして喋り掛けてきた。
「事件、ですか?」
「昨晩ここで派手な喧嘩があったんでよ」
「はあ……」
「殴り合ってのなんだってのって、そりゃひどかったんだも」
「殴り合い?」
おじいさんはオレの相づちを聞いてか聞かずか、頭を振るように頷いた。
「強盗? だか、不法侵入? だか、男が怒鳴ってて、もう」
「それでどうなったんですか?」
「だから、あまりにもうるせーっちゅんで俺が警察呼んだんだも。して、朝様子見に来たら、これだも」
どうやら、このおじいさんは近所に住んでいて、昨晩ここで騒ぎがあったため警察に通報したらしい。それで、朝早くに様子を見に来たのだろう。
「おじいさん、その強盗だかなんだかって人の顔は見たんですか?」
「あーっ?」
おじいさんは耳が遠いらしい。
「だから、喧嘩してる人の顔は見たの!」
「……」
「……」
「……あーっ?」
「顔!」
「あー!」
おじいさんはまた激しく頷いた。通じたらしい。
「そりゃお前もう、若い男よ。金髪で、最近の若者っちゅ感じよ。どえらい剣幕でここから出てきてよ」
やはり、大知は昨晩、オレが眠ったあとにここに訪れたらしい。それで、りょうの父親と派手なことをやり合ったようなのだが、それだけにしては、この黄色いテープもお巡りさんの表情もそぐわないように思った。……大知は今どこにいるんだろうか。こういう時のことはよく分からないが、阿佐ヶ谷の留置所にでもいるのだろうか? ……りょうも、今はそこにいるのだろうか。それにしてもどえらいことになった。
いつまでここにいたって何が変わるわけでもなく、何が分かるわけでもなさそうだったので、そのまま例の公園に訪れた。公園の土はあまり水を吸わないようで、また水たまりが出来ていた。それらの水たまりは眩しいくらいに朝日を反射していて、それが起きたはずの出来事とはちぐはぐに感じられるほど清々しい光景だった。
昨日約束した少年はその場にいなかった。
昼のニュースで事件の、殆ど全貌を報じていた。
当日の深夜に現場を訪れた大沢大地は、インターホンのボタンを鳴らしてアパートの部屋の中に人が居ないことを確認して、鍵の開いていた住居に侵入した。しかし、実際にはインターホンは鳴らなかっただけで、中に住人がいた。住人は侵入した大沢を見るなり大声を上げて、彼らは取っ組み合いになった。ここで、物音を聞いた近所の住人が通報する。
オレは、ここまで男性アナウンサーが熱心な様子で喋るニュースを聞いた時点で、この報道と実際に起きた出来事に幾つも誤りがあることを知っている。大知は、きっとりょうを助けに行くためにあのアパートの部屋に行ったのだった。だから強盗でも、暴力を振るおうと思って振るったわけではないはずだった。きっと、家の中に入ってりょうを探していたはずだ。しかし、男性アナウンサーが続けて言った情報にオレは耳を疑った。
取っ組み合いの最中に、大沢は部屋の押し入れから腐臭が漂っていることに気が付いた。
中を開けると、そこにはブルーシートに包まれた子供の遺体があったらしい。死亡時期は現在調査中だが、少なくとも一ヶ月以上は前とのことだった。オレがリフティングをしろと言って、しばらく合わなかった時期とは一応一致している。
しかし、昨晩、確かにオレはりょうと会っている。
一瞬りょうに兄弟がいたのかとも思ったがテロップには生嶋良という名前と、彼の年齢が出ていた。
家主が居なくなった部屋で、オレは呆然と立ち尽くした。
……あの夜は何だったんだろう……。
オレはりょうの本名と、顔写真が映っているテレビの画面を観ている。昨晩オレが見たのは、あの少年の幽霊か、亡霊か。何度も会って、虐待を殆ど確信していたのに、オレは何も出来なかった。……何もしなかった。昨晩は「また明日」と言っていた。「明日も来る?」とも聞いていた。
*
結局、大知がいない間、オレはオレが見たものを誰に言うこともなかった。
大知は住居侵入だか暴行罪だかということになって警察に拘留されている。多分、彼の父親が罰金を払って、刑務所に入ることはないと思う。しかし、遺体遺棄の容疑がある良の父親との関与が疑われていて拘留期間が長くなっている。
大知が、あの日アパートの部屋を訪れた理由を説明することができない。歯痒い日々が続く中、オレは不眠に悩まされるようになっていた。夜、ソファに横になって目を閉じると自分の心臓が鳴る音が妙に耳にうるさくて、それを意識すると鼓動は余計に早くなった。寝る場所の問題かとも思って勝手にベッドを借りて寝ようともしたが、寝付けず、疲れて朝日が昇る頃にようやく少しだけ眠る日々は続いた。それで毎晩酒を飲むようになった。酒を飲んだら眠れる時もあったが、気を失う程飲んだあとの朝は頭と胃がどんより重かった。
とにかく強い酒を求めて、近くで夜からオープンするバーに行った。下からぼんやり照明が入っているガラスのカウンターで一人で飲んでいると、一つ席を空けた女性から話しかけられた。女性は席を詰めて、親しい感じでオレに喋っていたが、何故かオレは気の利いた返事一つ返すことができなかった。それどころか、女性に対して恐怖みたいなものを感じていて、強い酒を飲んでいるのに落ち着かなかった。その時はそれが何故なのか、分からなかった。
*
二十日くらいが経ったころに、部屋のインターホンが鳴った。小雨の降る、金曜の昼頃だった。大知が帰ったのかと思ったが、それなら鍵を使って扉を開くことに気付き、恐る恐るカメラをのぞき込んだら、大知の兄、……宮本さん、が立っていた。久しぶりに顔を合わせた。彼は、靴を脱いで上がってリビングに入ると、部屋を見回して溜息を吐いた。それから、オレを見た。
「久しぶり」と手を上げて言った。
「はい」
「大知は、もうこの部屋には帰ってこないよ」
彼はソファに座り込んで、ぐったりした様子でオレに言った。
「あいつの親父がすっげー怒ってる……。拘留開けたら、そのまんま車で実家に連れて帰るってよ。まあ、あの人は立場のある人だからさ」
「……」オレは俯いて、右の拳を左手で擦った。「大知とは話せたんですか」
宮本さんはどろんとした目つきでオレを見た。それで、頭を振った。
「あの部屋で、子供が死んでいたんだって?」
オレは頷いた。
「大知……。……あいつ、子供が好きだったからな……」
彼が、大知が部屋に行った理由を、ある程度察しているようで驚いた。それで、なんとなくオレは安心できた。……そういえば、この人はこの部屋に何しに来たのだろう。電気か水道かを止めに来たのか。というかオレ、追い出されるのか。この部屋。……当たり前か。
「うだうだ言っててもしゃあねえ」と、突然彼が立ち上がった。
「そういえば、この部屋どうなるんですか?」
「これから綺麗さっぱり片付けるさ。大知の親父に頼まれちまった。業者には連絡取ってるんだけど」そう言って、かつて生活があった部屋を見回す。「掃除、大変そうだと思ったけど、案外綺麗だ」
「ああ、……掃除とか、してるから」
日頃の習慣で掃除と片付けをしている。
「偉いな」彼は笑って言った。
……多分、この部屋で過ごした日々は一生忘れられない思い出になる……。晴れ間が見え始めた窓の外を見ながら思った。背後、台所の方から「おい、手伝ってくれよ!」という宮本さんの声が聞こえた。
……起こった出来事、自分の意思とは関係もなく、日常は過ぎていく……。
明日は、どうしようもない時にやってくる……。
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