第3話 呪われた男1

 なんか眩しい、と思った。そういえば、昨日は部屋で酒を飲んだのだったか……。ということは、ここは大知の部屋か。オレはとても酒に弱いので、オレが酒を飲む、ということはオレがその場で寝る、ということと同じ意味だ。

 起き上がると、やっぱり大知の部屋だった。オレが寝ていた枕元、というか枕にしていた大知がゲーセンで当てたぬいぐるみの辺りに、窓から差し込んだ光が落ちている。廊下の方から水が床を叩く音が聞こえるので、大知はシャワーでも浴びているのだろう。

 大知は朝起きるのがとても早い。どんなに昨晩夜更かししたって、酒を飲んだって、毎朝きちんと六時に起きる。で、結局睡眠が足りない時は昼寝をするのだが、オレは大知のそこを尊敬している。オレには一生できないことだと思う。

 壁掛け時計を見ると、とっくに昼を過ぎている。


 とりあえず、寝る前に脱いだジーンズを履いた。ヒートテックは着たまま。オレというと大抵この格好だ。寒いときは上にジャケットを着る。それでもあんまりモコモコしているのは好みでは無く、スリムに見えるものを着る。というか、オレはそもそもあまり肉をつけないようにしている。オレは日々脂肪と戦っていて、今のところ、なんとか勝利していると言える。

 オレはオレみたいな顔の男が太ってしまうと、大変悲惨なことになることを重々承知している。

 ま、どうでもいいか。そろそろ部屋を出ないと、陣がキレる。

 そう思っていた矢先、部屋の廊下の方からシャワーの音に交じって、ドアを叩く音が聞こえた。この部屋はとても良い部屋なのだが、何故か最近になってインターホンが鳴らなくなった。だから、大抵ここに用事がある人間は予め大知に連絡を入れるのだが、それを知らないということは、最近ここを訪れたことがない人間。そういえば、最近大知が通販サイトで何かを注文していたことを思い出す。

 オレは急いで、廊下を通って扉を開けた。開けると、チンピラみたいな男がドアを蹴飛ばそうとしているところだった。オレはびっくりした。というか、びびった。チンピラみたいな男は不思議そうにオレを見ている。オレが知らない人間ってことは、多分大知の知り合いかなんかなんだろうが。とにかく、オレは焦ってそのまま靴を突っかけて大知の部屋を後にした。

 ちょっと冷静になって考えてみると、オレは住所不定だ。大学に通っていた頃はアパートに住んでいたのだが。


 原稿は上がっていたので、USBを直接届けることにした。原稿と言っても、今回のは陣から受け取った取材音声を文字に起こしただけだったので、あまり苦労は無かった。

 陣は大学にいた頃に知り合って、オレより早く大学を辞めた男だ。しかし、オレの方が長く大学にいたのに今ではコイツのほうがオレより安定した生活を送っている。在学中からバイトしていた小さな編集社に多分お情けで拾って貰ったのだろう。それで今は自身が編集者としてページを任されるているようだ。仕事は忙しいらしく、陣はたまに簡単な仕事を回してくれるのだが、提示された締め切りが近くなるととても機嫌が悪くなって手をつけられない。


 編集社は新宿にある。駅からは結構歩くので、夏場だと汗だくになるし、冬場だと震えながら行くことになる。この道は春と秋だけが快適だ。

 ビルのエレベータでちょっとだけ地上から上がって編集部に入ると、事務机が所狭しと敷き詰められていて、これでもかと言うほど紙が散乱している。かろうじてディスプレイが紙の間からそれぞれの机の上で顔を見せていて、万が一火災になったらヤバイだろうと思う。入り口からデスクを覗くと、キーボードを叩いていた陣がオレに気づいて、人差し指をぐるぐる回した。多分、外で待ってろということだろう。エレベーター横に貼ってある知らない人のポスターだとか近くに行われるジャズコンサートのポスターだかを見ているうちに陣がのっそりと出てきた。

「う」とオレに呻いて、陣は自動販売機でに金を入れ始めた。

「原稿のデータ持ってきた」

「何でメールで送らない」

「今パソコン使えないから」

 それで、USBメモリを陣に渡す。

「う」とまた呻いて、陣は受け取る。

 取材の内容はどっかの下町の商工所の偉いひとに一対一で陣が取材した、大体六十分。主要な地名や会社の固有名称は音声データを受け取ったときに伝えられている。まあ、大体四千円ってところだろう。

「千里、お前今度取材行くか」

「えっ取材?」

 陣がオレに取材の仕事を振るのは珍しい。取材から文字起こしまでやると、結構収入としてはおいしくなってくる。

「なに、そんな忙しいの」

「う」陣はクリアファイルからペラ一の紙を寄越してくる。

 東京のはたらきもの。

「うん……うん?」

「まあ東京で働いているちょっと変わった職業の人たちに取材するっていう企画なんだけどな」

「うん」

「相手はホストだ。行くか」

 陣の中ではもうオレが行くことが決定しているようだ。そもそも、生活がギリギリなので、仕事をもらえるときはできるだけ受けたい。

「行くよー」

「う」陣はそのホストの名刺のコピーをオレに寄越した。


 *


 それからオレはいつものようにそこらへんをぷらぷら歩いて、安いスーパーで安い食材を探しだして満足したり、かわいい雑貨を見てうっとりしたりした。そのうち気が済んで大知の家でゲームでもしようかと阿佐ヶ谷に戻った。

「あっ」

 大知の部屋の窓が暗い。まだ帰っていないのだろうか。胸の底がすーっと寒くなる。……ヤバいな……。というか、困る。今夜はもう帰らないのだろうか。

「困るなー」言いながら、ドアレバーをガチャガチャ虚しく揺する。こんなことしたってどうにもならない。駅前のほうまで歩けば、まだ空いている飲み屋は数件あるかもしれない。「ああ……」と呻く。そんな金あるか。

 大学を辞めてからこっち、取り敢えず親からは見放された感じがある。学費を無駄にしたツケはでかい。オレの親はくだらない。とってもくだらなく、中国地方の田舎とは言えないが都会とは口が裂けても言えないような場所で暮らしている。親は多分オレを怒っていて、だからか仕送りを受け取るのに使っていた口座は今ではウンともスンとも言わない、何故か二○五円だ。だから、今のオレはとても厳しい生活を強いられている。……今夜のように、寝る場所に困ることも、ある。大知の部屋に入り浸る前は、狩野というお姉さんの部屋にいた。狩野さんは都内のOLだが、ホストに狂っている。いた、というよりはオレの認識では飼われている感じだった。狩野さんはオレがちやほやしてあげないとヒステリーを起こしてどえらいことになるのだった。彼女自体はちっぽけなんだから、ちやほやしようにも限界はあると思う。

 多少金が入った時はバーで狩野さんのような人間を探すことはオレの生存戦略だった。ただ、結局彼女たちを相手にすることに疲れて、オレから消える。二つ前のお姉さんはもう覚えていない。ただ、彼女たちは悲しい部分がとってもよく似ていた。


 駅の方面のファストフード店へ向かう道中、近くの公園を通った。もうすっかり夜で誰もいないと思って通り抜けようとしたら、フェンスで囲まれたコートの方から、てんてんとボールの弾む音が聞こえた。コートの方を見ると、小学生くらいの少年が一人でサッカーボールを蹴って遊んでいた。

 少年はオレに気づくと、隅に転がったボールを持ち上げて、ただオレをみて突っ立た。まるでオレが公園を通り過ぎるのをじっと待っているみたいだった。

 オレはフェンス越しにその公園に近づいた。

「子供はもう帰っりなよー」と声をかけた。大知はこの公園で子供と遊んでいるところをよく見ているが、初めて見る子供だと思う。

「うん」

 少年は縮こまっていように見えた。オレは少年の右の目の辺りが腫れていることに気がついた。

「喧嘩したのー?」

 自分の目元を指差して尋ねると、少年はこっくり頷いた。

「仲良くしなよー」

 そう言うと、少年はコートから出て、ボールを手で持ったままオレの脇をすり抜けてどこかへ行った。

 それで、二十四時間営業のファーストフード店でその夜はもたもたコーヒーとポテトを摘まみながら、いつの間にかテーブルに突っ伏して寝ていた。肩を叩かれて顔を上げると、大知が立っていた。

「帰って寝ようぜ」

「……うん……」


 *


 ホストはホモだった。夜の商売らしく夜型の生活を送っているとのことなので、彼の仕事の無い平日の夜にアポイントを取った。歌舞伎町で夜に開いている店といえば当然のように飲み屋で、バーだった。酒の代金を心配していたら、ホストが払ってくれると言った。挨拶を済ましてから、雑談のような感じで話を聞いた。聞くべきことは予め陣から伝えられていたが、話の流れで気になる点はとにかく深掘りしておいた。取材を終えたあとは当然のような流れで彼の家へ招かれた。まさかと思いながら流れに身を任せていたら、当然のように彼とセックスすることになった。半ば強引だったが、気持ちが良いことは好きだった。


「本当はさ、今日君が取材に来てビックリしたんだよ」

「え……」

「ほら、三河さんだっけ。あの……最初に取材頼みに来た人」

「三河陣」

「そ。その人に一目惚れしちゃってさあ」

「あ。あー……」

 そういえば、陣は短髪で、ガタイが良くて、顔には髭が生えている。ホモに持てるルックスだ。……陣はホモという訳でもないのに、そういうルックスをナチュラルに決め込んでしまっているのか……。というか、だから陣はオレに取材を頼んだのか……。

「傷つくなー……」反面、オレはしばしば女性と間違われる。中性的な外見をしていると自覚している。

「別に君でもいいよ。よくなかったら適当言って突っ返してるよ。でもお互い損なナリだよね。女の子にもてるでしょ。君」

「うん……」

「オレもさ。だからホストやってんだけどね」


 *


 大知に対する後ろめたさは無いこともない。大知のことは好きだが、別に交際を求めるような好きではない。彼は頭がちょっと悪いけれど、すごく優しくしてくれる。大知の部屋に戻って、大知が笑ってオレにおかえりを言ってくれているのを見ると、結構グサリと来たりもするが。

 大知と初めてあったのは、たしか二つ前のお姉さんとバーで飲んでいるときだったはずだ。人当たりが良いバーテンで、次にそのバーに訪れたときにはグラスを割りまくって仕事を辞めていた。そのときはそれきりだと思っていたのだが、二度目に陣の紹介で会ったときは驚いた。そのときは働いていないのに優雅な生活を送っている人だかなんだかの取材だった。待ち合わせていた喫茶店で対面すると、彼は髪を金髪に染めていて、オレは彼が前のバーテンだと分からなかったのだが、向こうがオレを覚えていた。


 朝から取材した内容の音声起こしをしていると、大知に公園に行こうと誘われた。陣には急かされてもいなかったので、行くことにした。

 雨が上がった後だったらしく、路面が濡れていた。コートの中にも小さな水溜まりがあった。それだというのに子供達は元気で、水に濡れたボールを蹴って遊んでいた。

「よお」大知がフェンスの扉を開いてコートに入ると、子供達が喜んできゃあきゃあはしゃぎだした。

 フェンス越しに、「今時の子供ってウチでゲームじゃねえのー」と適当な子に聞くと、「ゲームなんてねー!」と言い返された。オレは湿ったベンチに、ポケットティッシュでざっと拭いてから座った。

 しばらくぼーっと大知が子供達と遊んでいるのを見ていると、一番ちっこい男の子がフェンスから出て来て、オレの目の前の水たまりでぴょんぴょん跳ね始めた。泥が跳ねてオレにかかった。

「うわっ、ちょっと、やめろよー!」

 男の子はオレが困っているのを見ると、嬉しそうにへらへら笑ってもっと跳ねた。

「ちょっと! ……大知ー! 大知ー!」

 大知がこっちを向いた。コートから出てきて、跳ねていた男の子の両脇を掴んで持ち上げた。男の子はもっと楽しそうになって、靴に泥が付いているのに足をぶんぶん振る。それで大知の白いカッターシャツは汚れるのだが、……というか、もう大分泥だらけだったのだが……大知はそれを全く気にしない素振りで、笑ってコートに持って行った。

 オレはポケットティッシュでジーンズを擦るのだが、染みが付いている。 ……そういえば、この間の夜に出会った少年もあの中にいるのだろうか。怪我の具合を確かめたくて、フェンスに近づいて一人一人の顔を見るのだが、そもそもあの時は暗かったからどんな顔なのかはっきり思い出せない。目の辺りが腫れていたことは覚えているが、一週間以上前のことだから、どうか……。

「お姉ちゃん誰探してんの」

 今度は小学校高学年くらいの男の子がオレに話かけてきた。

「お兄さんだから。……この間、ここで喧嘩で怪我してる子見たんだけどさー……」

「喧嘩? いつ?」

「一週間くらい前かなー……」

「うーん……うちの学校では怪我した奴なんて見ないけど」

「あ、そう……」


 *


 日が落ちて、公園から子供が散ったあとに大知とスーパーを回って幾つか特売の食材を見つけた。今日はハンバーグを作れる。ついでに目玉焼きも作る。大知は卵が好きだから、夜でもこのメニューは歓迎される。あと、適当な野菜をカットしてサラダを作る。

 台所で玉葱を切っている。一応、髪はゴムで縛っている。オレは料理ができる、というか結構得意だ。元々大学に通っていたころなんてコンビニの弁当とか外食で済ませていたのだが、毎日働いている歴々のお姉さんたちは、……というか、今時のOLって大体そうなのかもしれないが料理ができなかった。ある朝たまたま早起きしたときに、気まぐれで目玉焼きを作った。大して難しくもなかったのに、当時のお姉さんに驚くほど喜ばれた。それで手料理が働くお姉さんに抜群にウケることに気づいた。それからオレは、オレにしては真面目に家庭料理を勉強したりもして、本を読んでレシピを覚えたり、季節の野菜や日持ちのする調理方法も覚えた。今では格安の食材だけである程度献立を組み立てられるようになった。

 ハンバーグの種から空気を抜いた。大知はリビングでソファに座ってテレビを見ている。大知は結構立派な冷蔵庫を持っているのだが、初めてオレがこの冷蔵庫を開けたときはコーラとビールしか入っていなかった。

「なあ大知ー」

「何ー」ソファに座ってテレビを見ながら大知が答える。

「最近さー、なんか目元怪我してる子見なかったー?」

「目元に怪我あ?……知らないわ」

 フライパンに蓋をして、調理に区切りがついた。手を拭いてリビングの方に行くと、ソファ越しに大知がオレの方を向いた。

「何、なんかあった?」

「や、なんでも……」

「ふーん……」それで、またテレビの方に向き直る。「……千里が子供に興味持つなんて珍しいな」

「いや、興味ってほどでも……」

 オレは子供なんて好きでもないし嫌いでもない。ただ突拍子もない行動をするから、ちょっと怖い。今日の昼に会ったような小さい子供は尚更のことで、ああいうことをされると、どうしたらいいのかさっぱり分からなくなって困る……。その点大知は凄いと思う……。本当に、凄いと思う。

 大知は、もしかしたら先生とかが向いていたんじゃないかな、と思う。……これでもう少し頭が良かったら……。人生はままならないのかもしれない。

「この間さー」

 部屋の電気を消してから、大知がベッドで寝ながら言った。この部屋にはLDKと洋室がある。寝るときはオレがリビングのソファで、大知は洋室のベッドで寝る。部屋を隔てる扉越しに、大知の声が聞こえる。

「兄貴にお金貸してくれって言っちゃったよ」

 ソファから上体を上げて扉の方を向く。

「え……なんで?」

「千里、お金に困ってるじゃん」

「あー……」

「千里も早く良い物件と定職、見つかると良いけどなー」

「……」

「ま、断られちゃったんだけどさ」

「……そっかー……」

 ぼん、と枕にしているクッションに頭を落とす。ブランケットを肩まで引っ張りあげて、閉じたカーテンを見る。……そうだよなー……と思う。いつまでもこんな生活してらんないよなあ。


 *


 また夜、小雨が降っている。あのホストの取材以来、特に取材も文字起こしもしていない。というのに、買いもしないかわいい雑貨を見て回って、阿佐ヶ谷の駅から大知の部屋へ戻る道。傘を差して歩いている。雨音に混じって、ボールが跳ねる音が聞こえた気がした。まさかと思って公園へ行くと、例の少年はそこにいた。オレがコートに近づいても、少年はオレに気が付いていないようだった。

 雨脚が強くなってきた。ビニール傘に当たる雨粒が大粒になって、バタバタ音を出し始めた。それだというのに、少年は相変わらず一人でボールを転がしている。

「おい、君!」

 オレが叫んで呼ぶと、少年は驚いて身を竦めたようだった。少年の長袖のセーターは雨で濡れて重たそうだった。そもそもサイズが合っていないように見える。襟だけ見ても随分くたびれていて、サイズが大きすぎる……。コートに入るために一度傘を閉じる。

 少年はオレを見上げた。雨粒が当たって顔を顰めていた。オレは傘を開いて、少年も中に入れてやった。

「今夜、振るなー……」

 少年は何も言わない。ただオレを見上げている。オレは屈んで少年と目の高さを合わせた。

「……君、幾つ?」

「十一」

 十一歳。……小学何年生だっけ……。

「そっかー。帰んないの?」

「今ウチに女の人来てるから……」

「あー、そうなの。サッカー好き?」

「……まあまあ……」少年は持っていたサッカーボールを足下に置いて、傘からはみ出ない範囲で、足で弄び始めた。

「みんなとサッカーすればいいのにー」

 少年の足から漏れたボールが、足下にころころ転がってきた。軽く蹴って返したら少年が蹴り返して戻ってきた。それで、お互い傘の中の近距離でボールを転がし始めた。

「……昼間ここでサッカーやってんじゃん。知らない?」

「知ってる。でも違うクラスだからさ」

「関係ないよ、そんなのー。学年違う子でも仲良くやってるよー」

「……いや、いい……」

「ふーん……」

 それから何を言うでも無くボールを転がしている内にオレのジーンズの太ももから下は雨に濡れて重たくなっている。泥も跳ねている。

 ……虐待だよな……とは思うのだが、オレはどうすればいいのか分からない。……どういう言葉を言えば、この子供が家に帰ることが出来るのか分からない……。それで、馬鹿みたいにサッカーボールを転がしている。この子供はこんな気分をいつも味わっているのかもしれない。前にあった日の夜も。そう思うと切なくなった。

 そのうちに少年がボールを拾って、「そろそろ帰る」と言った。傘を渡してやろうと思ったのだが、急に走ってどこかへ行った。オレは傘の柄をぐるりと回して、公園から去った。

 そういうわけで、その夜はびしょ濡れで大知の部屋に戻った。案の定大知は驚いて、慌てて部屋のクローゼットから新しいタオルを持ってきた。嬉しかったが、濡れているのは下半身だったので、足を拭うくらいにしか使わなかった。それで、熱いシャワーを浴びた。

 大知に相談したらどうにかなるだろうか?……気乗りはしない。なんとなく、彼にはそういう人生の暗いところとは無縁でいて欲しいと思った。

 熱いシャワーを浴びても、体の芯は冷えたままだった。


 体の冷えが気のせいかと思っていたら、風邪を引いていた。翌日の早朝、やけに怠いと思って洗面所の鏡で自分の顔を見たら、普段より赤くなっていた。水で顔を洗っても、顔の火照りが引かなかった。大知はまだ奥の洋室で寝ているらしかった。オレが大知より早く起きるのはとても珍しい、というかこれが初めてだった。まだ五時半で、外は暗かった。

 ソファに寝転がって、頭痛と吐き気に耐えた。気分が悪くて疲れているのに眠ることができなかった。じっとしていると、普段にはなんとも思わないような人生の種々様々なことが悲しいことのようにどっと胸に押し寄せた。悲しいことと言えば自分の将来で、この先の自分が辿る人生の可能性を予想すると悲しくなってくる。どこにも属していないことが無性に寂しくなってくる。あるとき、そんなことを当時のお姉さんに言ったら「きちんと働けばいいのに!」と怒られた。それもそうだと思うのだが、体はそうは動かない。……結局、切羽詰まる状況が必要なのかもしれない……。

 お前らが悪いんじゃねーのかよ、と思う。お前らが中途半端にオレを甘やかすから……、歴々のお姉さんの顔を思い浮かべて思う。自分が相当無茶苦茶なことを言っているのは自覚しているので、絶対に口には出さない。けど、たまに酒を飲むようにそう思って自分を慰めることもある。毒であることは分かっているので、病みつきにならないように。

 次に目を覚ますと九時を回ったところだった。外は明るくなっていて、大知はどこかへ出掛けたようだった。大知は働いていたり働いていなかったりするので、オレも今の彼の実態を把握していない。多分、今はどっかのコンビニでバイトしていると思う。

 大知がオレと同じような境遇であることを知ったときは驚いた。だが、彼とオレには大きな違いがある。それは仕送りで生活できていることと、彼には働く意思があることだ。

 立ち上がると、まだ頭が重くてふらついた。頭痛は全然引いていなかったが、吐き気はあんまり感じなかった。

 ちょっと動けるかな、と思った。それで、昨晩貯めておいた洗い物を始末して、洗濯機を回しといた。鼻水が出てきたのでボックスティッシュから一枚引き抜いたら、それが最後の一枚だった。買い溜めは無かったと思う。特にどちらが買うと決めてるわけでもないが、切らしたし買わないとなあと思って外へ出た。ジーンズはまだ湿っていて気持ちが悪かった。

 比較的早くから開いているスーパーでティッシュを買って帰ると、部屋の扉の前に見覚えのある顔があった。以前玄関先で鉢合わせた顔が怖い男だった。

 男は宮本健司と名乗った。信じられないことに、大知の兄だという。兄弟がいるとは聞いたことが無かった。

「大知、今いないの?」

「はい、……どこにいったのか分かりませんけど」

「あ、そう……じゃあ連絡寄越せって言っといて」

 それで、あっさりと帰って行った。


 午後三時頃に大知は帰ってきた。やっぱりコンビニで働いていたらしい。今度のバイトは長く続くと良い。大知はソファで寝込んでいるオレを見るなり、心配そうに「風邪か」と聞く。そうだと答えると、彼は慌ただしく栄養ドリンクとみかんゼリーを大量に買ってきた。

「ごめん」と言って、栄養ドリンクを受け取った。

「別に謝らなくていいよ。困ったときはお互い様だよ」

「いや、同居しているわけでもないのに……家賃も払わないし……」

「だって寝るとこないと困るだろ。もう寝ろよ」

 ……困るのだろうか……。困るだろうな……。大知はやっぱり優しい。今までのお姉さんだって優しい人には違いなかった。他人の優しさに寄生するのは、オレの本能なのだろうか。だとしたらイヤな人類だ。


 それからその風邪とは一日二日と格闘した。ソファで寝込んで、炊事以外の家事は普段通りに済ませた。大知が買ってきたみかんゼリーを食べながら、あの夜の子供のことを思った。風邪は引いていないだろうか?……そのうち陣に相談してみるか……。それでまた眠気に襲われたりもして、風邪を引いて三日目の朝に元気になった。

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