8.4 美術館
美術館はゴールデンウィークの初日のせいだろう、お母さんとふらっと立ち寄ったときと比べると、家族連れが多く、展示物も子どもが楽しめるようになっていて、子どもの声が飛び交い賑やかだった。
「一葉くん、あのエリアで待っててくれる?」
ハルカさんは、美術館の書籍コーナーを指差していった。
「はい」
「もしかしたら、少し時間がかかるかもしれないけど。ちゃんと戻ってくるから」
「分かりました」
美術館の書籍コーナーは図書館だと書庫に眠っているような書籍もあると前にお母さんが言っていたので、本棚を眺めてみる。世界遺産の写真集があったので手に取った。
こんなに素敵な場所が載っている本の表紙を見ても、沙樹さんは箱根に行きたいって言ったんだ……。でも、遠くになんて行かなくても、箱根旅行楽しかったんだろうな。
僕は非現実的な本の中にしか夢を抱けずにいる。奇跡が起こることを待っている自分がいる。少しでも現実と向き合えたらいいのに。僕は弱虫だ……。
◇ □ ◇
「一葉くん。長い間待たせてごめんね」
「え? さっき来たばかりじゃ……」
「三十分くらい経ってると思うわ。大丈夫? 具合が悪いなら、もう帰ったほうが」
「大丈夫です」
「そう? ならいいけど。着いてきて、少し驚くかもしれないけど」
ハルカさんは、人気のない廊下に向かって、『関係者以外 立ち入り禁止』と書かれたドアを開けた。人気のない廊下が伸びている。
「大丈夫なんですか?」
「私も一応関係者なのよ」
廊下の突き当たりにあるドアが開いて、男性が姿を現した。
「あっ」
「直、さっき話した一葉くん」
「はじめまして、相田直です。ここで学芸員として働いています」
「はじめまして」
図書館でハルカさんと話していた人だ。さっき写真で見た直さんとは髪型が違うせいか、ずいぶん違う雰囲気で、僕は少し驚いた。
「君が今、あのノートを読んでいるとさっき聞いてね、ぜひ見て欲しいものがあるんだ」
「あ、はい」
戸惑う僕と目が合った遥さんは、何も言わずに頷いた。僕は頭が上手く回らないまま、直さんに続いて部屋の中に入った。
棚に封筒やバインダーが並んでいる。資料庫のようだ。直さんは棚から数枚の封筒を取り出すと、中身を出して、部屋の真ん中にある大きな作業机に並べ出した。写真だった。
「これって、もしかして……」
「沙樹の撮った写真だよ」
「すごく、きれいですね。なんていうか、光が
「君の目にはそう映るんだね」
「えっと、相田さんには違うように見えるんですか?」
「想いに流されていく感じがして……言葉にできないんだ」
相田さんはきっと、ゆっくりと言葉を選んでから口にする人なんだろう。相田さんのそばにいるだけで、一つ一つの言葉がいつもよりも重みを増して感じられた。
僕と相田さんの間の沈黙を破るように、ハルカさんは空さんから受け取った大きな包みを開けて、中身を出した。
「この写真、来月のハルカの誕生日から一ヶ月間、美術館に飾られるのよ。あと、これも」
「それって、沙樹さんが描いた」
「正解」
「もしかして、ハルカさんが直さんに返そうとしていたのって、その絵なんですか?」
「そうよ。空が無理して届けてくれたの」
象の親子の油絵だった。
ピンクと黄色を基調とした、柔らかな絵だった。とってもあたたかい。いいや、それだけじゃない。弱さと強さが一瞬で心の奥にまで届いてくるような不思議な感覚に襲われる。象の鼓動が聞こえてくるみたいだ。
「沙樹さんはこんな世界を見ていたのかな?」
「きっと、見ていたんじゃないかな」
ハルカさんの隣で、直さんは何も言わずに絵を見つめている。僕も、ハルカさんも、それ以上は何も言わずに、ただ静かに見つめ続けた。
数分後に、直さんが口を開いた。
「僕は仕事があるから、好きなだけ見ていって」
「ありがとうございます」
相田さんは、部屋から静かに出ていった。
◇ □ ◇
僕とハルカさんは、一枚一枚の写真に目を通していった。
「去年から一年間、いろんな病院やリハビリ施設で展示されてきたのよ。そこで集まった募金の一部が、プロジェクトの主催者の願いどおり、一葉くんの中学校の図書室に寄付されたんだよ。おかげで私は毎日大忙し」
少し呆れたような、ちょっと迷惑そうな言葉とは裏腹に、ハルカさんの口調からは、ただただ大きなぬくもりが、深い思いがあふれていた。
あっ、ノートに書かれてた Will and testament ——私の撮った写真を展示したり私の人生を誰かに伝えることで、もしお金が寄付されるようなことがあったら、みんなの好きな人の大切なもののために使ってね。—— もしかして、
「プロジェクトの主催者って、空さんですか?」
「そうよ」
ハルカさんはそれ以上は何も言わずに、写真をさらに袋から出して、一枚一枚見つめている。
僕は部屋の端に椅子を見つけた。
ゆっくりと腰をかける。
ノートのページ数は残り少なくなってきている。
僕は静かに続きを読み出した。
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