4.3 34〜37ページ目 普通ごっこ

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 十月十日から十二月一日


 LIFE:


 動物園に行ってから約七週間は、私にとって、とても穏やかな時間だった。

 そして、その時間は、瞬く間に過ぎていった。


 もちろん——残念なことに——病気は治る気配をまったく見せず、『薬』を飲んで出かけるときには、常に吐き気やめまいとの戦いだった。でも、それらの事実を帳消しにできるくらいに、私には目の前で起きる出来事が鮮やかだった。


 と言われても仕方がないけれど、ただ学校に行って、直と過ごし、そのあとハルの家に行って二人でたわいのない会話をする日々は、たとえ病気でも、今までも十分に明るかった私の世界を信じられないほどに輝かせてくれた。


 その輝きのために、私は『薬』を飲み続けた。


 お母さんとお父さんは、私が高校生になった時点で、『薬』を飲む、飲まないについては基本的に私の独断で決めることを許してくれた。


 けれど、三日に一度『薬』を飲み続けた代償は大きく、副作用で食べ物が喉を通らず、日に日に明らかに痩せていく私がいた。みんな心配してくれたけれど、私は『薬』をやめられなかった。普通ごっこでもいいから、一日二十時間前後動けず何もできないままでいるよりも、ちゃんと何かをして時間を過ごしたかった。


 ☆   ☆   ☆


 動物園に行って以来、直と私は、通っている通信制高校の二週間に一度のスクーリング(面接授業)のたびに一緒に過ごすようになった。基本的には、同じ科目の授業を受けるときに隣の席に座ったり、授業の合間に図書室や自習室で一緒に勉強をした。スクーリングとは別に、レポートが仕上がっても、無駄に質問日に学校に行って、直の顔を探すこともあった。待ち合わせをしなくても、駅や教室でほとんど毎回出会えた。きっと私だけじゃなく、直も私を探していてくれたんだと思う。


 直は私の病気について理解しているにも関わらず、あまり動揺したり、過度の心配をしたりはしなかった。詳しくは知らないけれど、とても弱い人だと言っていた母親のこともあって、病人に対して人より耐性があったのかもしれない。


 学校の自習室は閑散としていることが多く、勉強の合間に直と私はよく思いつくままに話をした。この世界や宇宙、天国や地獄、夜見る夢、趣味、動物、神話、映画や本の感想、幼い頃の出来事など、話題は尽きることがなかった。


 直は画廊を開きたいと言っていただけあって、アートが好きな人だった。絵に限らず、建築物や焼き物、手作りのアクセサリーまで幅広い範囲の作品が好きだと言っていた。けれど、自分では絵を描かいたり物を作ったりすることはなく、得意な科目は美術ではなく数学や物理だった。それでも、好きと得意は違うと言って、苦手な科目の教科書をよく広げていた。そして、将来はアートに関わる仕事がしたからと、暇さえあれば画集や美術史などの本を読んでいた。


 私にはアートの知識は小学校から高校で学ぶ最低限のものしか無いから、熱心に作品の話をする直を——夢中になれることのある君を——少し羨ましく思いながらじっと見つめていた。


 そして、私にはそれぞれの作品に対する他人の評価やそれに伴う価値などは理解できないけれど、アーティストは作品を通して時を超えて何かしらの想いを人に伝えられる——もしも、たとえアーティストに想いを伝えたいという強い意志がなくても、そこに込められた想いは自然とその作品を見た人に伝わる気がした。


 だから、私もこのノートをちゃんと書き残せば、私がいなくなった後も、私という人間が生きたことが——感じた想いが——消えずに残って、誰かに伝わるのではないかと改めて思った。


 十月の下旬、学校帰りに二人で駅前の小さなギャラリーに寄った。パステルカラーで描かれた抽象画が並んでいた。複数の画家の絵が展示されているようで、直は気になる画家がいるとその名前をメモっていた。日暮れごろにギャラリーを出た。周りに人影はない。


「そういえば、沙樹は、どうして学校の部活で象の絵を描いたの?」

「理由? んー。なんでも良かったんだけど、穏やかな世界が描きたくて、象の親子のドキュメンタリーを昔見たのを思い出して、それで絵のテーマにした。うん……。そうだ」


 私は質問に答えながら理由を考えているのか、本当にそう思ってからテーマにしたのか、なんだか分からなくなった。それくらい、適当に選んだのだ。おそらく私は芸術家気質ではない。


「ねえ、直はいつアートに興味を持ったの?」


 私の問いに、直が少しだけ間を置いて答えた。


「えっと、たぶん、動物園の近くの美術館にお母さんと行った日かな……」

「それってもしかして、小学生の頃?」


 直は十二歳から今年の三月まで児童養護施設で生活していたから、その前のことかな……そう思って、私は少し遠回しに聞いた。


「うん。それから、お母さんと別々に住むようになってからも。月に一回の無料の開館日に自分で通うようになった。同じ日に動物園にも無料で入れるから、初めは動物園目当てだったかもしれないけど……」

「そうなんだ。私も一緒に行きたかったな、美術館。あと、動物園も」


 君の目には世界がどんなふうに映っていたんだろう。自分で言うのもなんだけど、私はいつも精一杯生きてきたから後悔することはほとんどない。けれど、今日は、「君を初めて見てから五年間、どうして声をかけなかったんだろう」と思ってしまった。


「もし二人で行っていたら、いろんな作品がまったく違って見えたかも……。この頃、画集を観たり美術館に行くと、今までよりも多くの作品が温かく穏やかに見えるんだ。もしかしたら、俺はずっと、作品を通じて、アーティストの気持ちよりも、自分の気持ちを見ていたのかもしれない」

「そっか……。でも……直のアートに対する価値観が変わってしまうかもしれないけれど、それでもやっぱり、もしタイムマシンがあったら、直ともっと早く知り合いになって、美術館に通いたいな」


 私は君を好きになってしまいそうだ。いいや、違う。あれだけ気にかけていたのだから、きっとずっと好きだったんだ——このときの私は、直を横目でチラチラと見ながら、そんなことを考えていた。


 私の気持ちを知ってか知らずか、優しい目をした直が小さな声で言った。


「変な言い方かもしれないけど、俺は沙樹を美術館に連れて行っていたよ。美術館にいるときに公園で見かける真の強そうな女の子のことをよく考えていたから……」


 君はずるいな。そんなふうに言われたら、嫌いになれない。


 ☆   ☆   ☆


 どうして、こんなに人を好きになると、生きることが、死ぬことが怖くなるんだろう。


 私は君を失うことが怖い。

 そう、このとき私は、間違いなく恋に落ちていた。


 ☆   ☆   ☆


 けれど私には、きっと、遠い未来なんてない。


 神様。それでも私が人を好きになることを許してください。

 私の寿命ギリギリまで、直を見つめさせてください。


 ☆   ☆   ☆


 だけど、この想いは、片想いで十分です。

 

 だって、私がいなくなったときに、直を悲しませたくないから。


 ☆   ☆   ☆


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