1.3 深海色のノート
僕は脚立の上に立ったまま、図書室を見渡した。
授業中なのだから当然と言えば当然のことなのだが、僕とカウンターの向こうにいる児玉さん以外は誰もいない。
これ、誰が書いたものなんだろう?
僕は、日常の中に突然『死』を投げ込まれて、怖くなっていた。
何かの小説の書き出しじゃないだろうか?
僕はノートに目を線を落とした。
そっとノートを閉じる。
ノートは少し大きめで、おそらくA4サイズだろう。
表紙は深い海のように濃い青色で、そのノートがまるで、命について、静かに僕に語りかけているような錯覚を覚えた。深海に光はほとんど届かないし、深海色と呼ばれる色があるなら、漆黒のような色なのかもしれないけれど、僕はこのノートを深海色のノートと呼びたいと思った。
表紙の真ん中には——修正液だろうか——白いペンを使って、ノートの中に書いてあった字と同じ字で『LIFE "Will and testament"』とだけ書かれている。どういう意味だろう?
ノート自体は古そうだけれど、綺麗に扱われていたのだろう、ひどくヨレたり日に焼けている様子はない。ただ、表にも裏にも持ち主の名前は書かれていない。
僕は無性にノートの中に何が書いてあるのか知りたくなった。
だけど、ここで読み続ける勇気がない。
本当のことが書かれているのだろうか?
それとも小説?
誰かのイタズラかもしれない……。でも、こんなところに隠したら、誰にも気づかれない。読まれなければ、イタズラとしては成立しない。
ノートを片手に静かに脚立から降りると、背負っていたリュックを開けて、ノートをその中にそっと忍ばせた。児玉さんは、僕に気を止めることもなく、ガサゴソと音を立てながらラミネートシートの入った箱を開けている。
普段なら、数冊の本を持って貸し出しカウンターに行くけれど、今日はノートが気になって、借りる本を見つけられそうにない。
僕は足早に図書室の出入り口まで向かった。
ノートを盗んだせいで若干挙動不審になってしまっている気がする。
そうだ、焦らないほうがいい。普通にしていれば児玉さんは何も気が付かないはずだ。
貸し出しカウンターの脇にある、出入り口のドアを開けて、一歩踏み出した。その瞬間、僕は児玉さんの視線を感じた。
心臓が波打つように鼓動している。暑くものないのに、額から汗が滲み出てきそうだ。
振り向くと、児玉さんはいつもの笑顔で僕を見ている。
「
呼び止められるのではという僕の心配をよそに、活発そうな見た目からは想像もできないほど、静かで落ち着いた声で、児玉さんはお決まりの挨拶すると、本のラミネート作業に戻った。
「コダマサン、イッテキマス」
僕の返事はガチガチで、ひどくぎこちなかった。
◇ □ ◇
学校の校舎は古い趣のある建物で、毎日通えたらいいのにと思うほど、優しい空気に満ちている。授業が続いているようで、廊下は静まりかえっている。
僕は、校門から一番近い——図書室から一番遠い——下駄箱のある学校の北側まで、できる限り早く歩いた。ほとんど小走りに近い。
用務員のおじさんが不思議そうに僕を見ている。
きっと僕はずいぶん怪しい動きをしているんだろう。
◇ □ ◇
数分後、学校の敷地外に出た僕は、まるで脱獄に成功した囚人のように、緊張感から解き放たれていた。もう誰も追いかけてくることはないと、歩幅を緩めると、学校の前の坂道をゆっくりと下っていった。
平日の真昼間に外を歩いていると、僕は時折、視線を感じる。これはいつものこと。
子どもは学校にいるべき時間なのだから、大人が不思議に思ってもおかしくない。
けれど、僕は何食わぬ顔をして歩く。これは、何年も前にお母さんが僕をどこへでも連れて行ってくれたおかげだ。
つまり、どう言うことかというと、僕の親は、普通……じゃないらしい。——ということらしい。
学校に僕が行けなくなってしばらくは、お母さんは僕を色々なところに——特に専門家のところに——連れて行ったり、学校に直接来るまで連れて行ってみたりしていたけれど、僕が嫌がるので、特別なことはしなくなった。それでも、僕が家の中でずっと過ごすことだけは許してくれなかった。
スーパー、美容院、図書館……お母さんが出かける場所には、常に一緒に連れ出された。それも、他の子が学校の授業に精を出している時間帯にだ。
後ろ指を刺されるようなことはしていないと、お母さんが言ったことを今でも覚えている。おかげで僕は学校に行かないけれど、特に隠れて過ごすようなこともなくなった。
そんなことを考えているうちに、僕は坂の下までたどり着いた。
もう十分も歩けば家に着く。僕は、ノートの中身を早く読みたくて、家まで駆け足で向かった。
誰もいない家に着くと、自分の部屋に向かって勢いよく階段を駆け上がった。部屋に入って、勉強机にリュックを置くと、早速ノートを取り出した。
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