第9話

 幾度となく聞き及んだ音が風に揺られて、甘粕あまかすの鼓膜にまで運び込まれる。

 耳を澄ませば遥か遠方で水滴が水面に落ちる音色が訪れる程の、痛々しいまでの静寂。それは時として、普段はまず耳にしない微細な代物にも意識を傾けさせる。

 懐古の念すら連想させる楽器の名は、光刃刀。

 それも軽粒子の薄桃が眩い、彼にとっては敵対者の証明たる得物が成す旋律こそが、賑わいを無くして久しい斜陽の都に彩りを加える。


骸銘館がいめいかんが見つけたか……もしくは」


 音の方角へ視線を向けても、高層ビル群やモノレールの高架に遮られてスパークの光すらも見当たらない。

 とはいえ、ブランクがあるにしても聞き慣れた音を誤認しようはずもなし。むしろ自身よりも先駆ける連中が現れる可能性の方が高い。


「はぁ……」


 嘆息を一つ。

 叶うことなら、自身が先に辻斬り犯を発見したかったのが本心。

 不意打ちと違法武装しか取り得のない相手に桜子が下手を打つとは思えないし、行き交う人の足音すら減った商業区で一時間も二時間も戦闘音を聞き損なう程に無能揃いとは考え難い。

 でも、それでも。そうだとしても。

 万が一億が一を杞憂と割り切れない何かが、甘粕の足を逸らせる。

 肺に空気を取り込ませ、全身を止め処なく駆動させる。


「勝てよ、骸銘館」


 脳裏を過る不安を振り切るように、甘粕は信頼を口走った。



 蛇の如く地を滑り、弧線を描いて地を蹴り抜く。

 斜め後方、首筋に刃を突きつけんと逆手に振るうは少女の細腕。


「ウ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ウ゛ウ゛ウ゛ッ!!!」


 応じる落ち武者が上げるは咆哮。己が矜持を対価に死に損ねた屍は、剥き出しの獣性を以って身を捻る。

 迎撃の双刃は、軽い。

 足場無き空中であることを差し引いても、桜子は抵抗の素振りすら見せずに弾け飛び、踵でアスファルトに轍を刻む。

 そして勢いを殺さずに疾走。アバドを囲う軌道を描く。


「チッ……」


 苛立ちを発散する、舌打ちを一つ。

 原因は打ち合った右腕に走る微弱な電流めいた痺れ。

 出鱈目な膂力にも程がある。

 軽粒子の集合体である光刃は、理屈の上では中心部に簡易クリスタル体を形成する関係上実体を有している。だがそれはあくまで理屈であり、鍔競り合いですらないただの打ち合いで物理的な衝撃を与えるなど、新聞紙を丸めた得物で岩を砕く百倍は困難を極める。

 単純な腕力勝負に持ち込まれれば、どちらが玉座に腰を下すかなど火を見るよりも明らか。

 努めてゆっくりと呼気を吐き出し、体内に溜まった熱を落とす。

 三度笠の奥で輝く双眸が桜子の肢体を捉え、付随するように肉体を動かす。軟体動物を彷彿とさせる所作に獣の瞬発力。


「潰れろォッ!!!」

「この……!」


 瞬間的に跳躍し、薄桃の粒子を散らす軌跡を躱す。尤も数ミリ反応が遅れれば、靴底のみならず素足にも灼熱が降りかかったことは想像に難くないが。

 結果として身を屈ませたアバドは、殆んど反射で身を持ち上げると弾けるように桜子の後を追う。

 落ち武者、異形、獣。

 形容する言葉は数あれど、そこに理性ある生物の類は絶無。

 精々足を執拗に潰す程度で、戦術の一つも練り上げられていないそれは、破るための型も知らぬ形無しのもの。


『お前のウリは、その戦闘経験の豊富さだ』


 アバドを追う数時間前、ともえの入院した病院を後にしてすぐに甘粕が口にしたことを思い出す。


『通常一年が本番の空気を味わうのは選抜戦の後、大体六月の下旬から七月にかけてだ。それもデビューしたてのヒヨコ同士、どうしてもレベルは下がるさ。

 だが、モザイク街での裏・祝刀祭にはデビュー戦なんてない。一も二も戦いたがりの勝ちたがりばかり』


 大観衆に見守られる中、視界を潰さんばかりに輝く照明の光をたった二人で独占する経験。大反響する実況のマイクが鳴らす振動に全身を震えさせ、対称に立つ方角からは殺意にも形容できる敵意をぶつけられる感覚。

 それらを一足早く、何倍も浴びている桜子の経験値はあの司馬をすら軽く凌駕する。

 更に蓄積される経験は空気の一言で纏められる類だけではなく。


『全力で勝ちを狙う奴らの戦い方。流派だの道場だの、そういった類と刃を交えた数だってお前は誇れるくらいのはずだ。

 たまにはあったはずだぞ、相手が次にどう動くのか予想がついた経験が』


 指摘されて思い返せば、確かにカンとしか表現し切れない感覚で相手の動きが読めた瞬間が幾度かある。

 たとえば、目線。

 たとえば、切先の向き。

 たとえば、細かな足捌き。

 無論、カンが外れたことも多々ある上、次の手が読めた上で対処が叶わなかった時も多い。

 感覚を研ぎ澄ませ。神経をすり減らせ。

 視覚と聴覚を全開に。肌感覚で風の流れを掴み、削ぎ切れぬ血潮の香りを敏感に嗅ぎ分けろ。一つでも多くの情報を手に取り、それを元手に次の手を読め。

 勢いで身体を流し、アバドは崩れた体勢で乱暴に刃を振るう。

 力任せの一振りを、桜子は刃の下を潜り抜けることで回避し、擦れ違い様に一閃。幾重にも刻まれた擦過傷に更なる上塗りを重ね、落ち武者は三度笠の奥で輝く瞳を一層煮え滾らせる。


「フッ」


 短く息を吐き、踵を起点に半回転。

 相手は桜子の速度に対応できていない。特に咄嗟の判断力は大きく溝を開いている。

 他方、剛腕から繰り出される出鱈目な威力は刃で受け流してなお絶大な脅威でかつ、見た目に反してタフなのか動きに支障が見受けられない。

 とはいえ焦らず打ち合いを避け、一撃一撃を当てていけば如何に屈強な肉体であろうともいずれは沈黙する。


「ハッ。時代錯誤の侍気取りの正体は、人語を介する珍獣なんて。

 ……人間様の邪魔をするなよ、獣風情が」

「屍の積み重なった果てにこそ、我が悲願は成就される」

誇大妄想病パラノイアめ……!」


 絶死の感情を眼差しに注ぎ、柄を掴む握力が高まる。

 身を低く屈めて駆け出し、向かう先には獣の躯体。

 切先がアスファルトを擦る度に暴力的な熱量が黒ずみを刻み、道すがらに触れた水面が瞬く間に蒸発。湧き立つ水蒸気が後を追う。

 身を持ち上げ、掬い上げる一振り。対峙する十字の刃がかち合い、両者の間でスパークが舞い散る。


「クッ、の……!」


 右腕に広がる痺れに歯を食いしばり、鍔競り合いを嫌った桜子が左回し蹴りで距離を取る。

 脇を蹴り抜かれた形であり、肋骨に亀裂を走らせた感触があるものの案の定とでもいうべきか、落ち武者が痛苦に動きを妨げられる素振りはない。

 既に死した屍に正常な動作を期待することなど無駄とでもいうことか。

 地に足をつけ、間髪入れず側面へ跳躍。

 半瞬後に薙がれた薄桃の双刃を視界の端に収めるも、違法改造故に延長した切先がスカートの端を焼く。


「逃がす、かァッ!」

「逃げる訳がッ」


 ロンゲラップの先端をアスファルトに突き立て、杖代わりに起点を精製。

 更に右腕へ渾身の力を込めて反対方向、即ちアバドの方角へと跳躍。


「なッ……!」


 靴裏で踏み抜くは、三度笠の奥に隠れながらも驚愕に表情を歪めた瞳。

 反動で首が反対方向に仰け反り、顔を覆っていた三度笠が宙を舞う。

 アバドの体勢を力づくで正し、突き抜けた桜子は着地と同時に振り返る。天を仰ぎ見たままに静止した、死に装束を朱に穢した落ち武者を視界に収めるため。

 痛覚が有効に作用していないなら、意識そのものをシャットダウンすればいい。

 果たして思惑は通じたのか、桜子には見えないもののアバドは大口を開けて白目を向いている。直立しているのが奇跡と言える姿勢と意識を手放してなおも硬く握り締められている両手が、彼女の警戒心を刺激した。



 意識が彷徨う。アバドを置き去りにして過ぎ去った旧き日へと。

 国統領へ居を構える以前、聖ミカエル領で二件目の辻斬りに及んだ日へと。


「ぁ、が……」


 落日の夕暮れが世界を茜色に染め上げ、芝居の舞台を彷彿とさせる赤レンガ通り。人通りなど皆無に等しい路地裏にさえも掃除の手が隅々に行き届いた領土。

 胃酸を逆流させ、朦朧とする意識で腹を抑えてアバドは蹲っていた。


「……」


 辛うじて動く眼球を上向きにし、沈みゆく陽光を背負う少女を見つめる。

 NEUには似つかわしくない違和の緑は、彼女が九頭竜第三の生徒である証。体躯は決してずば抜けて恵まれている訳ではなく、細腕を含めてむしろ小柄にすら分類できるだろう。風に揺らめく長髪が陽光を啜り、妖しく錆銀の輝きを示す。

 彼をたったの一撃で沈めた右手を幾度も握り直し、少女はまるで精密機械の調子を確かめるかのように掌の感触を確認する。

 そして足下に伸びる奈落へ手招く影法師と境が曖昧となった肉体の中で、異様に存在感を示す真紅の眼光は──


「……うん、なんか違うな」

「ぅ、あ、ぁぎ……!」


 光の一欠片すら惜しみ、アバドを捉えてすらいない。もしも今歩き出せば、彼女は、足下の彼を踏みつけるだろうと確信できるまでに。

 辻斬りとしては二件目。詳細な目撃情報はともかくとして、既に存在の周知は徹底されている。

 全身を苛む痛苦は神経の一本一本にまで伝播し、身動ぎする余地すら与えられない。地に這い蹲る落ち武者に、逃走の手立てはない。

 だというのに。


「……」

「ッッッ……!!!」


 少女は踵を返すと関心を失った。

 否、関心など最初から抱いていないとでも言うかのように、アバドから離れ帰路へ着いた。

 一人路地裏に残された彼は、肉体を支配する激痛に加えて精神に悍ましいまでの激痛を走らせる。

 見逃された。見過ごされた。見捨てられた。

 見てすらいなかった。

 生命にすら危機を抱かせる気概で挑みながらアバドは、彼女の視界に染みとしての存在感すら残せなかったのだ。戦いを生業とする身に、刃を重ねて銃火を駆ける身に、これ以上の屈辱があろうものか。

 歯を噛む、噛み締める。噛み砕く。

 心身共に凌辱し尽くした、権威が有する暴性の具現たる魔人を必ず、確実に葬り去れと心に刻みつけるために。

 薪を枕に百夜を過ごし、胆を舐めて空腹を埋める。

 いつか、悲願成就のためにこそ。



「ッ……」


 歩を進めていた桜子の足が止まる。

 第六感とでも称すべきか、研ぎ磨かれた感性が告げたのだ。

 眼前の落ち武者が意識を取り戻した、と。

 同時に背中へ冷たい感触が滴り、足の裏が無形の糸に縫いつけられる。

 何かが変質した。筋肉の膨張などとは異なる、落ち武者を落ち武者たらしめる魂。濁り切った汚泥が肉体にまで作用し、闘気やオーラ、気配に分類される感覚に強く依存する類を変えたのだ。

 下手に踏み込めば、胴が生き別れになるという確信が脳裏に焼きつく。


「チッ、巴さんにやられかけた分際でッ……!」


 左手で頭を掻く桜子。

 頭の中では、時計の長針が一秒、また一秒と時を刻んでいた。


「……」


 他方、目を見開き天空の夜空を睥睨するアバドは、脳内で幾つかの数式を構築していた。

 今対峙する少女は、聖ミカエルでまみえた手合いよりも手強いか。

 答えは否。

 昨日対峙した少女は、聖ミカエルで屈辱を刻んできた少女よりも強者か。

 答えは否。

 国統領で対峙した数多の敵は、たったの一撃で全てを葬り去った魔人よりも悍ましいか。

 答えは否、断じて否!


「ッ……!」


 ギョロリ。

 生理的嫌悪感を醸す生々しい音を立て、眼球が怨敵に遠く及ばぬ障害の姿を捉えた。

 背筋を這いずり回る危機感に従い、桜子は距離を取ろうと後退。


「なッ……!」


 そして目を見開く。早すぎる。

 瞬きの内に迫った厳つい顔立ちが凶貌を浮かべ、血の滲んだ臭気が鼻腔を刺激する。

 咄嗟に刃を構える桜子だが、戦風を巻き起こす両腕から繰り出される十字が太陽の如き輝きを放ち、矮躯で受け止めるには暴力に過ぎる衝撃がその肉体を飛ばす。


「かッ……!」


 壁面に亀裂を疾走させる衝撃が背中を突き抜け、桜子の口から空気を吐き出させる。

 それだけに留まらず吐瀉物に朱が混じり、薄い彩りをアスファルトに散布。

 壁面から剥がれて左膝を土をつけ、桜子は口端に残った血を拭う。上目遣いでアバドを視界に捉え、戦意だけは絶やすことなく燃焼を続ける。

 不味い。

 化け物染みた膂力によって内臓が悲鳴を上げ、節々の流血が感覚で分かる。今はまだ抑えられるものの、逆流してくるのも時間の問題。

 無論、アバドが相手の事情を慮る必要性は絶無。

 アスファルトを砕く跳躍が与える恩寵は、違法改造された光刃の軌跡に桜を彷彿とさせる薄桃の軽粒子を残す。

 モーターの駆動音が如き轟音を立てた一閃は、地面を転がる桜子の肉体を掠めず、半瞬前の幻影諸共に地面を焼く。


「防戦一方かッ、女ァッ!」


 可可可と、獰猛な嘲笑を露わにアバドは刃を乱暴に振るう。

 戦術も戦略もなく、如何なる武道も剣術も重戦車を越すことは叶わぬと暴力のみを加速させて。

 台風に飲まれた木の葉と同様、桜子はただ回避に専念するばかりで起き上がる余暇さえ与えられない。剣圧で飛来するコンクリートの破片が幾重にも制服を傷つけ、肉へ触れる度に顔を顰めて視線に怒気を込める。

 時計の針が進む。

 一秒、一秒。

 また砂の一粒を無為にしたと、執拗に彼女を責め立てる


「うる、さいッ……侍気取りの勘違い野郎ォ!」


 身を回す反動で足を地に着けるとそのまま滑り、低い姿勢のまま桜子は暴風の中心部へ突貫。

 腹か、鳩尾か。どこでもいい。死に装束で準備万端な男の胴体に、袈裟の傷を刻まねば気が収まらない。

 時計の針が進む。

 決して後退することなく、果てにあるものを覆い隠して。


「うるさい、うるさいうるさいうるさいッ!!!」


 声を荒げた相手はアバドかそれとも時計か。

 異形の左腕は最早その起こりすら認識できず、視界から消滅した頃には桜子の右肩を掠めていた。避けられたというよりも、アバド自身が向上した肉体性能に対応し切れていないといった印象を受ける。

 ならば続くは右腕の刃。

 企業の安全努力を水泡に帰す改造によって正規品を遥かに凌駕した出力へ到達した破滅の光が、たった一人の少女を穿たんと突き放たれる。


「ッ……?」


 光が渦を巻き、迫りたるは桜の瞳。

 瞬間的にレーシングカーをも超越して音の壁に触れる中、桜子は見開かれた瞳で切先を朧げながらに捉え、急速に身を翻した。


「クッ、がァ……!」


 乱雑極まる方向転換の代償か、桜子の身体はアスファルトの上を横転し、衝撃で血を軽く吐き出す。

 一度漏れ出せば、後は堰を切ったように止め処なく。


「ま、だ……ゴハッ……!」

「致命……否、病弱か?」

「だ、まれ……!」


 身体は動けた。

 出鱈目極まる膂力から繰り出される速度に対応できた。

 いや、左には対応できていない。右だ、右からの攻撃にだけ対応できた。

 その差は、いったい。

 思考を遮る吐き気が口に、制服に、アスファルトに粘度の高い赤を塗りたくる。いっそロンゲラップの切先で腹の一つでも掻っ捌けば、この役立たずの身体は言うことを聞くのか。

 そのような愚問すらも、脳裏を過る。


「痛苦に苛まれるのも飽いたろう。我が王座を彩る屍となるがいい」

「調子に、乗……グッ」


 余裕と見たのか、アバドが殊更ゆっくりと足を進める。

 その度に金属の擦れる音が鼓膜をくすぐり、大気を焼く軽粒子が桜子へと迫る。

 金属の音。心当たりが一つあった。

 アバドの右腕を覆う鎖。落ち武者を彷彿とさせる奴の服装には著しく不釣り合いな、違和を醸し出す金属部位。

 腕の振りが鎖分遅くなっているのか、それにしては鎖の必然性がない。クオンハイスクールには正式な制服がない分、向上した自由度で個人個人の統一感を追及しているのが方向性のはず。

 ならば、あの鎖は外さないのではなく、外せないのでは──


「……ハッ」


 身体が言うことを聞かずとも、右手に握られた得物の感触だけは確かに骸銘館桜子へ生きている実感を与える。

 滴る血にも省みず、口端を無理に吊り上げて笑みを零す。

 勝てる、まだ勝算はある。役立たずの肉体に少しばかりの無理をさせれば、未だ勝利の女神を屈服させうる。

 悠々と歩みを進めるアバドは桜子の機微を把握せず、なおも余裕の表情を崩さない。

 やがて足を止めた先には、膝折れ地面を覗く少女の姿。

 器用に手元で回転させると、弧を描き光刃の先端が地面を向く。

 逆手に持ち替えたのは、彼女の背を貫き確実に首級を上げんがため。天高くつき上げたのも、助走を以って万が一を無くすため。


「塵芥となるがいい」


 言葉を薙げると、薄桃の軽粒子が振り下ろされ──


「お前がなッ……!」

「ん?」


 アスファルトに突きつけられ、灼熱が辺り一帯へ伝播。赤熱化した地面が蒸気を吐く。

 確実に穿ったはずの敵を見失ったアバドだが、その姿は即座に見つけられた。


「らァッ!」

「ッ?!!」


 肩口に走る鋭い剣閃。

 奇しくも昨日、巴との戦いの中で補強させた鎖の上を刃が撫で、衝撃で拘束が緩まる。

 遅れて振り返った先には、桜子の背。

 逃がさぬと右腕を振るう寸前、アバド自身の動きを凌駕する速度で鎖が激しく擦れ、重力に引かれて落下する。それは砕かれた骨を外部から補っていた部位の喪失を意味し──


「腕が、言うことを……?!」


 タコの足。

 骨が砕けたが故に激しくしなる右腕は、しかして桜子の背には遠く及ばず光刃の切先で地面を舐め回す。

 反転してアバドの惨状を確認した少女は、血に濡れた唇を上気させて笑みを形成。思惑が的中したことで勝算を確固たるものとする。

 逃す手はない。

 当惑しているアバドとの距離を詰め、身を捻って一閃。

 一歩下がったことで直撃こそ避けられたものの、死に装束には新たな擦過傷が一つ。

 吐血にも厭わず、桜子は追って一歩を踏み込んで次は上段への左回し蹴り。

 旋風巻き起こす瞬脚は爪先がアバドの頬を薄く裂く。


「この、調子に……!」

「侍口調はどうしたァ、だから気取りなんだよッ」


 過剰分泌される脳内物質に準じるまま、正気に戻る暇を与えずにアバドと自身の肉体を追い立てる。

 叫べ、吠え立てろ。喚き散らせ。

 口から獣の声音を絞り出す度、時計の針は正常な時を誤認する。

 アバドが左の刃を振るう先手を打ってロンゲラップをぶつけ、空いた自身の左手が裾を掴む。

 見下ろすなよ、辻斬り風情が。巴と相打つ分際で。


『そういう貴女は、私のおこぼれに預かって勝利を掴むのでしょうか』


 時計の針の次に割り込んできたのは、薙刀を構えた少女の幻聴だった。

 桜子は今日幾度目かになる笑みの中に、始めて自嘲の色味を加えた。


「……言ってろ」


 襟元を掴まれたアバドの頭が急速に距離を詰める。

 困惑の表情を浮かべる相手は滑稽であり、所謂喧嘩慣れとは無縁なのだろうと推測できた。

 ならば丁度いい。折角の好機なのだから、名家の人間らしく教鞭を振るってやるのも悪くない。ノブレス・オブリージュ、という概念であったか。

 本日の講義は差し詰め、少女の顔と頭突きの威力の相互関係。


「ッ!!!」

「……?!?!?!?!?!!」


 骨と骨。絶大な強度の二つがぶつかり合う、生々しい音が死した国統領に響き渡った。



 視界が明滅する。

 足取りが上手くいかない。

 頭が割れるように痛い。


「つつつ……流石に久々となると、いったい……」


 ふらつく足取りで額を抑え、桜子はしかと眼前の敵を見遣る。左手に伝わる粘度は、額が割れた証左か。

 そのつもりで繰り出した彼女が脳震盪を抑え切れないのだ、訳も分からぬ内に直撃したアバドは一層被害を被っている。

 足元では主から手放された光刃がその輝きを閉じ、すぐ側に涎が垂れる。突然の事態に対処が追いつかなかった異形は、今では白目を剥いて頭で円を描く。たたらを踏む足取りからも数秒と経たずに地面を転がるのは明白。

 国統領で繰り広げられた辻斬り事件の完結を思い、桜子は薄い笑みを口元に形成した。


「ざまぁみろ」


 呪詛を吐かせたのは対峙の叶わなかった巴を思ってか、それとも多数の顔も知らぬ被害者を思ってか。もしくは只単に、自身を痛めつけた事実への侮蔑か。

 いずれにせよ、人を呪わば穴二つ。

 呪われた人間と共に、呪った人間もまた墓に入るが定めというもの。


「ッ、か、か、がッ……!」

「あぁ……?」


 呂律の回らない舌が意味のない音を垂れ流し、アバドの意識を覚醒させる。

 一時の措置とはいえ、未だ光刃を握り締めている左腕を強張らせるには充分。そして腕力頼りの一撃切り、微かに残った全てを対価に差し出すならば、投擲もまた叶う。

 画して放たれるは悪足掻き。

 道連れを求めた亡霊が放つ最後の斬撃。

 円を描く光刃が桜子へと迫り、芝刈り機を彷彿とさせる音色が鼓膜をつんざく。荒々しき切れ味は、これまでの戦闘で飽きる程目の当たりにしてきた。


「しつこいんだ……あ……!」


 慌てて身体を射線から逸らそうとした桜子であったが、ふらつく足取りが縺れ合い、尻餅をつく愚を犯す。

 折悪く、桜子の視線と合致するは死の花弁散らす薄桃の刃。

 逃れる術はなく、回避するアテもない。

 桜子にできることは、それでもなお往生際悪く刃の軌跡を凝視すること。自身へ終わりを下す元凶を、しかと睨みつけることのみ。

 目を瞑らず、むしろ薄桃の光を前に見開いたが故に。


「あ」


 横合いから視界に割り込んできた右手を認めた。


「つッッッ……!」

「甘粕……何やってんのさッ!」


 男性の角ばった手が不安定な刀身を揺らめかせる光刃を掴み、干からびさせろと蒸気が湧き立つ。歯を食いしばり、手より伝わる激痛に顔を顰めるのは濡れ烏のスーツを着用した男──甘粕灰音あまかすはいね

 桜子の叫びにも耳を貸さずに勢いを殺すと、手を離すよりも早く薄桃の光が霧散。空々しい音を立て、柄が転がる。

 甘粕は焼け爛れた右手を眺め、少しでも熱を冷まそうと息を吹きかけた。


「フゥ……あぁ、あっつ」

「なんでそんなこと、無茶もいいことでしょ!」

「まぁ、そうは言うけどなぁ……まさか掌貫かせる訳にもいかねぇし」

「そうじゃなくてッ」


 自身の痛覚に無頓着な態度を取られ、桜子が声を荒げる。

 真剣な声音を受け取ったのか、甘粕も彼女の顔を正面から捉えて会話に応じた。


「そうじゃ、なくて……!」


 しかして彼女は碌に言葉を紡ぐこともなく、ただ涙に喉を詰まらせる。

 訳も分からず、感極まったままにアスファルトを水滴で濡らす。溢れ出す感情を制御できず、肩が自然と震える。

 そんな桜子の様子に理解が及ばず、甘粕は左手で頭を掻いた。

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