第8話
雨粒が疎らに降り出し、曇天の向こうで一日の始まりを告げる陽光を妨げる。
太平洋の天候は、曇り時折雨。連日のように久遠と内陸を往復している旅船やタンカーの運航に支障はないものの、それらを制動する乗員には好まれざる空模様。
「空が泣いていますね……いったい誰のせいでしょうか」
国統領を一望可能な高層ビルの屋上。
小雨に制服を濡らし、遠方の港を見つめる双眸が一つ。
碧の瞳は穏やかで、連日繰り返されている辻斬り事件で緊張の走っている商業区のことが嘘のようにも思える。
背後に控えるは重厚なる影。
恵まれた体躯を鍛え抜き、黒衣越しにすら屈強さを垣間見せる。頭巾の奥より覗かせる瞳が輝かせるのは、眼前に立つ主への不信感。
「有望な選手がまた一人、負傷しました。祝刀祭が始まる前……選別戦の本戦すらもまだだというのに」
「有望なのは素質だけ……私の既知を塗り潰すには値しなかったというだけの話です。気に病むことはありませんよ」
「ッ……!」
喉の奥まで出かかった言葉を呑み込み、影は目を伏せる。
それを肯定と読み取ったのか、マリステラは金糸を揺らして言葉を続けた。
「神は人々を試すために試練を置き、耐え切る者のみを英雄として愛す。
ロベルト・ベスタチオの残した言葉の中では大きく扱われませんが、私は好きなんです。この言葉」
彼女は英雄ではなかった。マリステラの既知を塗り潰す非凡足り得なかった。
だから神の祝福を承れなかった。だから負傷した。
マリステラの言葉は、そうとしか解釈できない。
影は唇を噛み、胃の底から沸々と湧き上がる不快感を押し留める。
「それよりも、偶然現場に居合わせた
先程までの穏やかながらも平坦な声音が、変わる。
半オクターブにも満たぬ微小な変化であるが、マリステラに仕えて日も長い影が察するには充分な変化であった。
「彼女達の介入でどのように未来が変わるのか、実に興味深いと思いませんか。
「故障で現役引退したトレーナーと学校に通うことすらない一生徒……何が変わるとも思えませんが」
「分かっていませんね、銀次は」
背中越しでも分かるよう大袈裟に首を振ると、マリステラは反転して影と向き合う。
頬に薄く朱を入れ、口の端を軽く吊り上げた表情は恋する乙女を彷彿とさせ、口の前で突き立てられた人差し指も人次第で違う意味を邪推してしまう。
幸いというべきか、銀次は相当に弁えている側の人間であり、またそうでなくとも彼女のような内面を抱えた者を人生の伴侶として迎え入れる趣味を備えていない。
「可能性がどこにどの程度あるのか、それは采配した神にしか分からないことです。一見意味のない二人にも意味が……」
唐突にマリステラの口が止まる。
それは、一つの合図。
彼女の未来視が彼女自身の意志とは無関係に一つの未来を投射した結果、光輝くはずの未知を喪失し、既知感に溢れた灰色に変貌する瞬間。
愛読していた推理小説の犯人と動機を暴露されるにも等しい興覚め、と語ったのはマリステラ自身であったか。
証明するように、彼女は口を閉じるに従って表情から感情が抜け落ち、張りついた笑みだけが表面に残る。首を傾げる所作にも、疑問よりも先にまたかという諦観を強く受け取った。
「銀次、レオンハルトにアバドへの協力を打ち切るように連絡して下さい」
「随分と、唐突なことを」
「未来が見えました。もう彼に利用価値はありません」
短く、端的に。
一切の関心が薄れたと、マリステラは命令を紡ぐ。
「でしたら俺が」
「それはいいです。理論上はアレでも未知を見せる可能性がありますので」
「それはッ……!」
そも辻斬りに利用価値を見出し、組織だって支援すること自体が異常事態。その上、切り捨てる段階でも支援を打ち切るだけで直接打倒する訳もないのは、あまりにも姑息ではないのか。
せめて自主的に手を下すことを言外に望む銀次であったが、そのような些事は必要ないとマリステラは踵を返す。
「彼の顛末は確認済みです。貴方が不安視するような事態には至らないので、事を起こすのは不測の事態が起こってからで充分です」
言い切り、マリステラは傘も差さないままに遠方の港を眺める。
港ではコンテナを開放し、資材の搬入作業が始まっていた。
国際統合病院。
ユニオンを主な出資国家群として設立した病院は、莫大な資金を元手に久遠の中でも最高峰の医療設備と人材を誇る施設である。それは時として同規模の病院を抱えている聖ミカエルや九頭竜第三の関係者が訪れることもあると言えば、理解が及ぶであろうか。
病室から覗ける景色は曇天。日本であらば梅雨の時期であり、太平洋に浮かぶ久遠もまた酷似した気候条件を受けている。
部屋の主からすれば都合が良かった。
今、照り輝く太陽やその輝きで煌めく青空を一瞥した所で、沈殿した心には逆効果ですらある。
今日は平日であり、級友達がお見舞いに訪れることはない。名家の人間でかつ将来有望という点が評価されたのか、手配されたのは相応の面積を持つ個室。彼女自身の性格も相まってか、部屋には延々と静寂だけが居座っている。
雨粒が地面を叩く静かな音楽祭に、点滴がメトロノームよろしく等間隔でリズムを刻んだ。
「邪魔するよ」
音楽祭に耳を傾けていた少女の耳に無粋なノイズが混ざり込む。
それは引き戸がレール上を滑る音であり、今最も顔を合わせたくない少女の挨拶であった。
「骸銘館……」
自然、向ける眼差しは鋭く剣呑。
名を呼ばれた少女は愛想笑いの一つもなく、ベッドの上で上半身を持ち上げた主を睥睨。背後に立つ濡れ烏のスーツを着用した男──甘粕灰音は、少女とは反対に申し訳なさげな表情を浮かべていた。
「どうしたの、随分とご機嫌斜めじゃない。
「止めろ、馬鹿」
「……」
彼女にそのまま口を開かせれば、どのような暴言をぶちまけるか分かったのものではない。甘粕は桜子の頭を殴り、強引に頭を下げさせる。
一方、謝罪を受けた巴は視線を眼差しをそのままに軽く会釈。
扉の前で会話を続けることもない、歩を進めてベッドの前に到達する。
「選抜戦も無視して、敗者ですらない私を嘲笑しにきましたか」
巴は部屋に飾り付けられた時計を一瞥し、時刻の確認を促す。
短針が指し示したのは英数字の三。生徒が学校の外を出歩くには少々早い。
「予選なら全勝よ、アンタを除いて」
ぶっきらぼうに告げ、桜子は首を回す。
彼女達が宛がわれたグループは本命巴の次点桜子が、大方の予想。誰も本戦に進めないならまだしも、彼女達以外の誰かが進出することは、それこそ両者が事件に巻き込まれでもしなければ想定されていなかった。
故に、最有力候補が落ちれば次点が繰り上がるのが定石。
「その後はコイツが見舞いに行きたい、っていうから正式な手続きを踏んで、な」
幸か不幸か、二人は現場に居合わせたという事情も重なって容易に許可が降りた。
立案したことを指摘され、桜子は鼻を鳴らして視線を逸らす。
わざわざそこまでの労苦を果たした上で嘲笑へ赴いたのかと、巴は侮蔑の視線を注ぐが彼女は流石に視線を合わせて否定する。
「本来、倒していたはずの相手を見舞うのがそんなに可笑しい?」
「逃した獲物に頓着する輩とは思えませんでしたが」
「一理は、あるけど」
言い淀む桜子は視線を布団に隠れた巴の足──左太腿へと向ける。
違法改造を施した光刃による刺突。それは元来粒子を散らして熱を繊維全体に拡散することで致命傷を妨げる特殊材質の制服を貫通し、左太腿に灼熱と激痛の不協和音をもたらした。
その上、元凶たる辻斬り──アバド・ンドゥールは刺突の直後に引き返してきた忍者に連れられ、偶然通過したモノレールに便乗する形で逃走してしまった。
生徒の安全が最優先、だが商業区も都市としての機能を失う訳にはいかない。
規模を縮小しながらも経営を続けている業種がある以上、モノレールの運航に一学校の意向で干渉することは不可能。
遅れて現場に到着した見回り班の連中に連絡し、停車駅の封鎖を指示したものの不審な影など一つたりともありはしない。ただ乗客の中で一人だけ、足の裏を負傷したとして救急車に搬送された者がいたという。
「負い目、ですか」
「負い目? 何の話よ」
「なんで……お前らが……」
レールを滑り、引き戸から絶望が漏れる。
甘粕が振り返った先には、足下に果物を散乱させたスーツ姿の男。巴の専属トレーナーである木曽が呆然とした表情を浮かべていた。
開いた口が硬く結ばれ、視線が途端に研ぎ澄まされる。
「ッ……なんでお前らがここにいるッ!」
駆け出した彼を止める者はいなかった。
甘粕の胸倉を掴み、息が届く距離にまで顔を近づける。
「み、見舞いだよッ。コイツがそうしたいって……!」
「足が潰れたかどうかの確認かッ。ふざけるな、貴様らが見捨てた分際でッ。
貴様がッ、そう仕向けた分際でッッッ!!!」
腕を掴みながらも平静な声に努めた甘粕とは対照的に、木曽は唾を吐き出す怒涛の勢いで非難する。
「ふざけんな、そんなことするかッ!」
「ならば何故あの時に助けなかったッ。間に合っただろうッ、届いただろうッ。握った得物で、巴様を助けられただろうッ?!」
「邪魔されたんだよッ、こっちはよッ」
「それでももう一人いただろうがッ!」
木曽が指差した先には、現場に居合わせたもう一人の少女──桜子が立っていた。
彼女も数多ある選択肢から最悪の部類を選んだ自覚があるのか、口を開くこともなく視線を落とす。
普段の木曽から乖離した暴言を発する姿が見るに堪えないのか、もしくは如何に桜子への個人的な確執があるといっても罪を押しつけるのは問題と判断したのか。
なおも口を開こうとした彼を制したのは、病室の主であった。
「木曽、ここは病院です……」
「巴様ッ、ですが……!」
「己が意志で無用な危機に首を突っ込み、その怪我を他者に押しつけるようなみっともない所業……私は望みませんよ」
「しかしッ……!」
主に指摘され、なおも食い下がろうと口を開く木曽。
それを妨害したのは、ベッドのシーツを落涙で汚す巴の姿だった。
「えぇ、これは私の過失……慢心の結果、です……」
頭では理解している。思考の大部分は巴自身と、元凶である下手人だけの責任であると把握している。
だが、しかし。だがしかし。
頭のどこか、思考に割り込む無視すべき係数がどうしても声高に主張するのだ。
現在病室にいる皆が、その内の一人が。自身に支援の手をかざしていれば、足を負傷することもなく翌日も学校に通えていたのだと。
選抜戦、そして祝刀祭へ赴くことに不安を抱く必要すらなかったのだと。
邪推だ、と脳内で幾ら握り潰した所で、岩の竦間から這い出るミミズの如く存在を主張してくる。
それが巴にとって、何よりも辛かった。
「そう、なんです……!」
何があっても否定すべき主張を、脳内ですら否定し切れない自身の脆弱性が、何よりも辛かった。
「……」
「……」
巴が涙を流した後、あまりにも居た堪れなくなり病室を後にした甘粕と桜子は、一階の待合室で長椅子に腰を下していた。
垂れ流しになっているテレビでは本日も男性アナウンサーが抑揚のない、好意的に言えば機械的かつ正確な口調で久遠内の出来事を報道している。手元に原稿を用意しながらも殆んど目線を下げない様は、正しくプロのお手並みであるか。
テレビの音だけでなく、病院の案内や看護師同士、もしくは看護師と患者の会話など。周囲には音の発生源が溢れている。
しかし二人の間には終始無音が続き、連なるように周囲の音も意味を持って紡がれない。
「私、なんでここ来たんだろ」
独自のように呟いたのは、桜子。
甘粕は無言を貫き、ただ目線だけを左に座る少女へ向ける。
「お見舞い、ってのは多分事実。巴さんが倒れたことへの負い目、ってのも……ま、自覚はなかったけど正しい気もする」
複雑な、あるいは自身も把握していない感情を言語化するべく、まずは乱雑にでも言葉を続ける。物語を編むため、まずは片っ端から
「病院にタイムマシンがある訳でもないし、こんなとこに足を運ぶくらいならトレーニングか、モザイク街か……なんなら辻斬り犯を追うでもした方が余程効率がいいのに」
事実、頭の中では時計の針が幾度も時を刻んでいる。
歯車を噛み合わせて、長針も短針も時計を一巡するべく互いを競っている。
それでも、実際に急いで行動へ移そうという意志は希薄。むしろ歯車の間に砂でも噛ませて駆動を遅延させてもいいだろうと、心中のどこかで主張してくる。
「別に巴さんに同情したとか、怪我の様子を確認しに来たとか……そういうのもないはずなんだけど、なんでかそれも断言できない」
処理し切れない多数の感情をミキサーにぶち込み、手当たり次第にシェイクした所で咀嚼可能な代物が完成する可能性は極めて低い。どころか無際限に詰め込まれた数多の感情同士で潰し合った挙句、常人には一口含むことすら叶わない混沌の坩堝と化す確率の方が余程大きい。
事実として、桜子も自身の胸中に湧き上がった感情を処理し切れずに持て余している。
どう取り繕った所で昨日、骸銘館桜子が巴円を助けられた場面で見捨てたという結論は覆らない。
間に合わないことは走らないことの理由とはなり得ず、届かないことは手を差し伸べない理由には不十分。しかも心のどこか、黒く沈殿した部分では未選択に伴う結末を肯定さえしている。
「なんだか私、可笑しくなったのかな……」
呟き見上げた先には、汚れ一つない純白の天井。取り換えられたばかりの新人電灯は眼下の人々を照らし出すために後先考えず、最大出力で電気を通す。
わざとらしく口を開けて呆けていると、両腕を組んで黙々と首肯のみを繰り返していた甘粕が重い口を開く。
「お前がどう解釈しているかはともかく、相手から自分の責任だ、って言ってくれているのは少なくとも幸いだと思うぞ、俺は」
「……あ、
「させた側のことはイマイチ分かんねぇからな」
断言し、甘粕は自身の経験則から言葉を続ける。
「俺の時は完全なる事故だったが……それでも心は真っ黒だったからな。
なんで俺だけが、なんで奴は無事なんだ……不公平だ、ってな」
振り返ろうと思えば、今でも昨日の事のように思い出せる。
泥のように淀み、ただ他者の足を引っ張ることのみを望んだ歪んだ思考。溶岩の如く煮え滾る憎悪に身体を内から焼かれ、血管の一つ一つに融解した金属を流し込まれるにも等しい悪感情の嵐。
病室で幾度重斬刀を振るおうとも払えることはなく、足の傷が開く度に新鮮な憎悪を注がれて限界など知らぬと注がれていく。
世界を何度滅ぼしても足りぬだけの呪詛を吐き出した彼だからこそ、相手を呪う言葉の一つも紡がぬ彼女の強さを理解出来る。
「だから実態はともかく、お前に直接ぶつけないだけで彼女は上等だよ。
いい女だ」
「……ハッ、またセクハラ?
気の多い男は腹を刺されるよ」
「冗談が言えるくらいには、スッキリしたか?」
「言わなきゃやってらんない程度には」
流し目で返す桜子の笑みは、彼女の弁を主張するように苦し紛れの笑みにも似た痛々しさをも張りつけている。
それを甘粕は取り繕える体力分は回復した、として解釈すると腰を上げた。
「だったら、次の活動はアレでいいよな。それとも明日以降にでもするか?」
立ち上がった甘粕へ追従するように桜子が続くと、首を鳴らす。
「いや、むしろ今からやろうよ。善は急げ、って言うでしょ」
「ちげぇねぇ」
ケラケラと冗談めかして笑い、二人は病院の入口へと歩み出す。
巴円から一時の未来を奪い取った刈り取るべき怨敵──辻斬りの下手人たるアバド・ンドゥールへ己が手で天誅を下すために。
夜の街。残業の輝きも繁栄の彩りも存在しない、月と付随する星々の煌めきすらも鼠色の雲に覆われることで街路灯のみが唯一の光源として存在を主張する時分。
腐臭と死臭を綯い交ぜとした匂いを纏い、死に装束の落ち武者が路地裏を闊歩する。
「副会長……忍者……どこに行ったッ……!」
喉の奥から絞り出される声は、
昨日の一年を手を出して以来、定期連絡を含むあらゆる形で彼女達からの接触が途絶え、どこかから見られている感触も肌に突き刺さらない。
いったい今日は商業区のどこが、何時から何時の間で監視カメラの電源を落とすかの報告がないことには、行動に移すことも叶わない。
だからこそ、アバドは路地裏から覗くように眼球を動かす。
それでも商業区は極めて純度の高い無人。待ち人は元より、商売人すら滅多に出歩きはしない。
「謀ったかァ……あの女狐ェ……!」
止め処なく漏れる怨嗟は、徐々に思考が鈍化している自覚を持つ故。
忍者の助けで時速二〇〇キロオーバーのモノレールに無賃乗車した頃には右腕を中心として全身を苛んでいた数多の擦過傷も、昼を過ぎた辺りからゆっくりと沈静──あるいは痛覚情報の処理を脳が拒み始めた。
頭のタガが外れたということなのだろう、同時に細腕を中心として身体能力が加速度的に上昇しているのも実感できる。
違法改造した光刃刀の補充は行えた、後は玉座へ向けて積み上げるべき屍を辿るのみ。
「クソ、まだだ……まだ到達には程遠い……!」
草履の裏に己が血を吸い込ませ、一つの幽鬼は足を進める。
未だ屍の玉座は遠く、歩みを止める時間がひたすらに惜しいというのに。
梯子を外されるのならば、梯子抜きに飛び上がる脚力を身に着けるのみ。
両の手に柄を強く握り締め、アバドは街路灯の一つもない路地裏から一歩を踏み出す。
聴覚を研ぎ澄ます、までもない。視線を傾ければ、斜め右前方に横断歩道と隣接した監視カメラ。角度の関係上、三度笠から覗く眼光以外に少年の顔を確かめる手段はない。
歪み果てた性根を投影した笑みを浮かべて電柱まで足を進めると、一閃。
逆袈裟に裂かれた電柱ごと、内に仕込んだコードを焼かれて監視カメラが機能停止。遅れて物々しい音を立てて激突の衝撃でフレームがひしゃげる。
「どこにいる、どこにいる……!」
動く度に右腕を覆う鎖が擦れ、己が存在を周囲に公伝。人気に乏しい死都に賑わいを加えた。
思考が鈍化する。鈍く、遅く、深淵の縁へと沈み逝く。
摩耗する正気の片鱗が、彼に屈辱を回顧させる。
削るためには、その形を見定めねばならない。沈めるためには、その手で触れねばならない。
聖ミカエル学園を志願しながらも不合格の通知を受け取った日。
滑り止めのクオンハイスクールには合格したものの、聖ミカエルに受からなかった時点で家族からの期待は潰えていたこと。
結果を残して見返そうと躍起になった所で、クオンとその他では隔絶した差──近年では有力な成果を残せていない国統にすら大きく劣る烏合の衆であると自覚したこと。
そして微かに残った正道への気力を粉砕した、権威の暴力を──
「やっと見つけた」
肉食獣の唸り声めい音が鼓膜を震わし、アバドは夢想から現実に着地。
正面には彼とは異なるメーカーの光刃刀を逆手に構えた少女。制服の意匠と胸元に取りつけられた校章から、国統の生徒であると判断できた。
有志の手で包囲網が構築されつつあることは、副会長から聞き及んでいた。
だが、その話では二人ないしトレーナーを含めた三人で行動していたはずで、単独行動というのは事前情報と齟齬が生じている。
尤も、些事に思考を傾ける趣味はない。
「昨日の結末には禍根が残る……我が双刃の錆となるがいい」
「勘違い侍気取りが」
アバドの弁に反吐が出ると吐き捨て、少女は黒髪を軽く揺らす。
「敵討ち……そんな大層なもんでもないか」
「錆の中に知り合いでもいたか。名乗られた所で覚えてないがな」
「別に」
互いに言葉のキャッチボールをしに来たのではない。
その思いだけは、少女だけでなくアバドも同意。
アバドは力なく腕を垂らして身を丸め、少女も腰を落として半身の構え。
睨み合う両者の間で際限なく空気が張り詰められ、身動ぎ一つで破裂せんまでに膨張する。極限まで密度を増して鉛にも等しい空気に息苦しさすら覚える中、互いにゆっくりと息を吐き出す。
信号の内一つ。二人の視界の端にも入らぬ遠方で。
赤信号が、青に変わる。
それが、両者が疾走を開始した切欠となる。
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