チルドレン・アダルティ

和泉ほずみ/Waizumi Hozumi

チルドレン・アダルティ

「まるで、周りの連中が馬鹿に見えてしょうがないって面持ちをしているのね」

 そういうの、お互い様だろう。

 

 昨晩、ひとしきりの雨が降ったせいで、防草シートの所々にその雫がたくわえられていた。その水溜まりを避けるようにして、通学鞄が二つ。中学の指定の、深い緑色をした地味なデザインのそれらは、そのくすんだ緑の人工物の床に同化していた。

 学区内を少しだけ外れた住宅街にある、小さな空き地。何かしらが建つ予定があるのかないのか、分からないが、ここを無断で拝借して僕らはこうやってしばしば駄弁っている。それは放課後の時間だったり、本来学校の授業があるその最中だったり、とにかく僕ら二人は、この場所が嫌いじゃなかった。階段を登ってすぐの、少しばかり小高いロケーションで、程よく柔い質感の土壌で、なかなかの好立地。ただ、緑色の土臭い絨毯の上というのはお世辞にも快適とは言えないから、それは玉に瑕というやつだけど。雨が上がったばかりの今日なんかは特にそうだ。


「ついこないだまで、ランドセル背負ってリコーダー吹いてたガキンチョのくせして」

 だからそれも、お互い様だろうに。

 

「ねえ?」

 ――椎名くん。

 

「なに?」

 ――シイナさん。

 

 

 ✱

 

 

 前の席の女子から書類が配られる。一枚、二枚、三枚、おっとこれは、後ろの彼には必要のないものらしい。家庭数だとかなんだとか、少しだけ懐かしいような響きだった。

 へえ、中学校ってこういう感じなんだ。

 配布された一通りの資料を一瞥して、それで感心したように浅いため息をつく。元々机の上に置かれていた方のプリントを見ると、そこにはこのクラスの名簿があった。それで、計34人のクラスメートたちの名前と出席番号、それと担任教師のフルネームがそれぞれ確認できた。

 

 1年A組のメンツを人差し指でするするとなぞりながら、見覚えのある名前とそうでない名前とを大雑把に判別していく。よく見知った名前もいくつかあったものの、そのほとんどが分からない。それが困ったことに、“初めまして”と“お久しぶり”の区別が曖昧だったりもした。

 

 僕がクラス名簿と睨めっこしているのに気づくや否や、先の、前の席の女子がこちらを向いてきて、

「ねえ?」

 声をかけてきた。

 誰ですか? と、第一声でそれを返答とするのも些かナンセンスな気がした。だから、ただ黙ったまま続きの台詞を待ってみることにした。そしたら彼女、小声で、こっそりと耳打ちするように、

 

「私たち結婚したら、“椎名シイナ”になっちゃうね」

 

「…………。」

 悪戯な笑みを、いや違う、もっと異質な……

 そう感じさせたのはたぶん、彼女の大きくくっきりとした目、瞳、“眼球”だ。

「あの、僕の苗字は村上ですけど」

 拍子抜けしたような表情。でも、どこか白々しい。

 年頃の男の子をからかおうとして失敗してしまったのが気恥ずかしい、なんていうベタなシチュエーションを大仰に演出する彼女。

 何となく、表立って動揺しないこの僕に対して何か思うところがあるようにみえる。

 それもそのはず、いきなり僕の“旧姓”を当ててみせたのだから、それでこんないま一つの反応を示されてしまってはたまらないだろう。

 

 別に、彼女を訝しむことなど何もない。そんなことは少し調べでもすれば簡単に分かることだ。それに、小学校への登校を2年間ほど拒否し続けてのこの入学式だし、嫌でも目立つのは無理もないことだった。

 だから、中学校最初の登校日なんて、しばらくぶりの同級生らとの再会なんて、先の彼女の下手に奇を衒った自己紹介なんて、僕にとっては何一つとして関係のない、どうでもいいイベントだった……だったはずなのだけど。

 

 何故なのか、どうしてなのか分からなかったけれど、僕は彼女の名前を忘れることができなかった。どういうわけか、はっきりと印象深く記憶してしまっていたのだった。

 

「それはどうして?」

 

 ✱

 

「どうして、と言われましても」

 

 僕よりもいくらか高い身長に、肩まで伸びた長く艶やかな黒髪。栄養失調を疑われてしまいそうなほどの、華奢でか細い両腕と、意外にも血色の良い肌の色。それと、彼女の一番の特徴でもある……、

 

「……なにか?」

 

「いや……ちゃんと食ってんのかな……って」

 不躾にもまじまじと見つめてしまっていたこと、焦ってよく分からないことを口走ったこと、その他もろもろ、気まずくなってしまって、たまらず彼女から視線を逸らした。

「あーあ、そうやって都合悪くなると“活字”に逃げるのね」

 

 読書に耽るふりをして、彼女の、正木シイナの通学鞄を観察する。きっと、教科書だの板書ノートだのはすっかり省かれていて、代わりに何か別のものが詰め込まれているのだろう。シイナが授業中に教科書を開いたりするの、今のところは見たことがないし。

 

「君、心理学者志望なの」

 

 手持ち無沙汰になってしまって、咄嗟に鞄から取り出したのは、教育心理学の本。駅前の本屋で見つけて、何とはなしに手に取って、購入。少年漫画やライトノベルなんかよりいくらか値段は高かったけれど、その時たまたま持っていた図書カードでなんとか間に合った。家に置いてあったのを勝手にパクってしまったものだけれど、これは多分、小学校の卒業式のときの記念品だろう。もちろん僕は出席していないから分からない。でも、カードの絵柄を見るに、それっぽいような雰囲気を感じた。

 教育心理学とか発達心理学とかの、堅苦しいお勉強の本。それをあえて、読んでみたりしていた。挿絵のない小説にチャレンジしたばかりの僕が、些か背伸びが過ぎる領域なのだろうと、それを自分でも弁えつつ。

 最初は案の定、用語が分からないゆえに、満足に読み進められる章は限定されていた。それが徐々にだけれど、巻末の索引を活用するなどして工夫して楽しめるようになってきた。すらすらと読めるようになると、また内容の面白みなんかもがらりと変わってくる。フィクション小説を読むわけじゃないから、面倒な部分は読み飛ばしてもある程度は差し支えないというのがまた、読書家ビギナーの僕にとっては都合が良かった。それで気がつけばほとんど読み終えていて、それから二冊目、三冊目と概ね読破していって、そうすると、ジャンルもいくらか幅が広くなってくる。最近はこれが特に楽しくて、他にすることもないから、こうやって日夜没頭している次第。

 

「別に、その道に進むつもりとかさらさらないんだけど」

 ないんだけど、ただ純粋に興味がある。子どもと大人の違いだとか、反抗期のメカニズムだとか、“健全な”教育や養育のシステムだとか……あとは、“いい子”の定義、とか。

 詳しく読み進めていくうちに、大人たちが、僕ら中学生をどういうふうに評価しようとしているのか、そんな対子ども戦の王道のセオリーが手に取るように明らかになってしまっていくような。それは正直、知らなくても良いことで、案外、端から知りたくもなかったことかもしれない。ただ僕は、中学生の僕らが生きるヒントをこの学問に見出そうとしただけだったのに、それもあまり上手くいったような気がしない。

「チューボーにはちょい難しいけど、読んでみると面白いよ案外」

 興味があるのかないのか……いや、たぶん大してないのだろうな。


「君は、何を読んでいるのさ」

「んっ」というぶっきらぼうな返事と同時に見せつけられた表紙には『エルマーのぼうけん』とある。

「なんと、予想外」

 いや、知ってはいたけどさ。シイナは、基本的に一度読んだことのある本しか読まない。ここ最近のヘビロテがそれに決定したことについてはもう既に教室にて確認済みだった。

「なるほど。さしずめその鞄の中には、エルマーシリーズ三部作が、」

 今度の「んっ」は、先と比べて強めの語気で。きっと否定の“ん”であると見て間違いないだろう。つまり彼女には本当に、その時々のお気に入りの一冊のみを丁寧に読み耽るきらいがあるみたいだ。

 

 

 ところで。と、彼女が再び話題を切り出す。

 

「昨日の話、聞いて、どう思った?」

「さあ……」

 

 とりあえず、『子どもを愛さない親はいない』なんていう眉唾モノの格言は、少なくとも彼女の前では口にできないと思った。そんなことは口が裂けても言えないって、それがその物語への感想かな。

 それとあとは……割愛。だって他人の身の上話なんていうものは、ベラベラと饒舌に口外してしまって良いものじゃあないだろう。

 ……いやいや、僕は一体どこの誰に向けて、熱くなって弁明しているつもりなのさ。

 

 なんて言葉をかければ良いのやら、上手い表現が見つからないまま黙りこくっている僕をよそに、彼女は何やら、天上を見上げているようだった。

 

「ねえ見て、あの雲、いよいよ夏って感じの」

「ああ」

 

 空模様なんて普段は気にすることがなかった。でもなんだか、案外見ていて退屈しない観察対象だ。見つめていたら、つい時間を忘れて夢中になってしまいそうだとさえ思う。そんな些かの危惧も浮上した。空って、海よりもずっと広いんだもんな、とか、呆けたことを改まって考えたりもした。

 

 昔、と言っても4、5年くらい前、休日にはよく父さんと二人で出かけた。中でも僕のお気に入りは、電車で数十分のところにある宇宙科学館。あまりにも頻繁に通いつめたものだから、もう設備の配置もすっかり記憶していて、そのちょっとした短い説明文ならばあらかた暗唱できてしまうくらいで、それでも僕はそこがずっと大好きだった。宇宙科学館だから案の定、プラネタリウムもちゃんとあって、もちろん父さんもそれに毎度付き合ってくれた。近頃都市開発の著しい、僕の住む地域一帯では、夜遅くにも街明かりが目立つせいでどうやっても満天の星空などは堪能できない。だから、僕にとって、プラネタリウムが映し出す摩訶不思議な星々の世界こそが、それだけが嘘偽りのないホンモノの“宇宙”だった。だから科学館見学とは、お手軽な宇宙旅行だった。父親と二人のお出かけはたしかに楽しくて、それはそれは有意義な休日だった。そうだったのだけど、それが何故だったのか、父さんは終始無口なままで、感情を表に出さないような態度で、ただ淡々として付き添いをしてくれるから、幼心ながら僕は少しだけ不安になった。

 

 だから決まって最後に、こうやって言う。上目遣いで、甘えるような声色で、こうやって言う。

 

 

 ――ねえ、今日はいいこにできていたよね?

 

 

「へぇ、君にもそんな時代が」

 ああ、もう、いちいち大袈裟だな。言うんじゃなかった。別にこんな話をしたって、僕はちっとも愉快にならないのに。むしろ精神衛生上、著しくマイナス効果なのに。

「じゃあやっぱり今度は、椎名くんの番なんじゃない?」

 やっぱりって、何がどうして“やっぱり”なのさ。

 

 このままじゃあ消化不良になってしまうと言わんばかりに、さもそれが貴方の当然の義務であるのだと主張するかのように、セピア色劇場の追加上映をしつこくリクエストしてくる。

 

 昔のことを思い返すのは心底億劫だったけれど、少しでもシイナが僕のことに興味を抱いてくれているのかもと思うと、嬉しいような、小っ恥ずかしいような、そんな気分に浮かされた。だから、というわけでもないのだけど、まあ、ちょっとだけならいいかな。

 

 

 ✱

 

 

 “今が一番幸せだわ”

 これが母さんの、口癖だった。

「続けて」

 全然乗り気しないはずだったんだけど、シイナが目を輝かせながら続きを促してくるものだから、こころなしか、少しばかり気取ったような語り手口調になってしまう。でもそうやって、わざとらしくおどけてでもいないと、とても平常心ではいられないかもしれないと思った。この話は、もちろん、誰かに話すのは初めてだし。

 

 

 家族の喜ぶ様子を見るのが、それが一番の幸せだと、そんなことをよく言っていた。実際そんな性格をしていて、僕も父さんもそれをよく知っていた。そんなお人好しの母さんが大好きだった。たぶん、父さんも同じ気持ちだったと思うけど。

 

 特別裕福ではないけど、深刻に貧乏ということもない。特筆するほどの恵まれた家庭というわけでもなかったのだろうけど、僕は両親のことが大好きで、それで僕は、確かな幸福というのを感じながら幼少期を過ごしていた。

 今思えば、何かが、どこかしらが、歪んでいたのかもしれない。あれは、なんとか二人の努力によって均衡が保たれていたがゆえの、そんな不安定な地盤を前提とするような、間に合わせの幸せだったのかもしれない。

 そうは言っても、母さんはいつだって笑っていた。いつも心の底から、人生が愉しくて仕方がないという具合に、とにかくどんな時にも、幸せそうに笑うのだった。

 

 ……そしてそれは、たとえ自分が亡くなるその前日だったとしてもなお、同じなのだった。

 

 深夜に大量の眠剤を飲み込み、ロープで首を吊って、母さんは他界した。

 当然、予兆なんてものは微塵も感じられなかったのだから、親族共々、ただ困惑するばかりで、どうやって悲しめばいいのかもしばらく分かりかねるといった様子だった。その中で父さんだけは知っていた。厳密には、ただの憶測だったのだろうけど。僕一人に聞かせたかったのか、それともただの自問自答だったのか、とにかく僕は、それを確かに聞き取った。でも父の説明するのは、単なる当て推量だとはいえ、一度耳にするだけでは理解できないような、難解な動機のそれだった。

 

 誰も正確な状況を掴むことができないまま、慌ただしく、それでいて淡々と、母さんのお通夜は執り行われた。その夜に父さんが、母さんの遺影の前で言ったこと。というよりも、その一連のシーンのすべてを、映像としてはっきりと記憶している。

 

「自ら命を絶つような奴は、傍迷惑な人間だ。人様への迷惑を考えられない、自己中心的な、」

 

 ビリビリと、不快なノイズが走った。そして感情が、爆発した。言葉には言い表せないような怒り、それを言い表せないから、態度として、行動として、表出させる他になかった。

 静かに遺影を見つめ独りごちていた父さんに向かって勢い任せに飛びかかった。ひと回りもふた回りも大きな体躯の父親に向かって、固く握った右の拳で殴りかかる。流石に少しばかりは自制心が働いたのか、顔の辺りは避けて、代わりに胸元に目いっぱいの怒りをぶつけた。

「…………。」

 本気の憤りが伝わっているはずなのに、父さんはちっとも抵抗しないし、最低限の防御すら怠るものだから、僕は半ば呆れたような気分になって、そのままバタンと背後に倒れ込んだ。

 緊張が解けて、それを契機に、涙が堰を切って溢れた。

「母さんは幸せ過ぎて死んじゃったんだ」って、そんなことを聞いて、そう易々と納得できるはずがないだろう。あんなに嬉しそうに笑う母さんが、年甲斐もなく楽しそうにはしゃぐ母さんが、“幸せ”を理由に、この世を去ったんだって?

 全く、意味が分からなくて、これっぽっちも理解が及ばなくて、その夜はただ、大粒の涙が止まらなかった。

 

 

 今の僕だったら、あの時の父さんの独り言に、どんなレスポンスを試みるだろうか。少なくとも、話を最後まで聞かずに遮ってしまうなんてことはしないと思った。言うとすれば、それはどんなことだろう。

 

 

 ✱

 

 

「……そうだね。そして母さんは、最期の最期まで“幸せ者”だったね。遺された僕らの苦悩なんてつゆほども知らずに、その笑顔を絶やすこともないままこの俗世を退場できたんだから」

 

「それはちょっと、やりすぎじゃない?」

 唐突に彼女が、率直な感想もとい、ごもっともな野次を飛ばす。

「まあ、うん……」

 きっと僕は、そこまで冷淡なピエロにはなれないのだろう。でも……。

 

 

 結局、カエルの子はカエルなのだ。皮肉屋の父親から生まれた僕は当然のことのように、立派なひねくれ者に育った。そして未だに僕は、極端に幸せを恐れるタチから脱却できずにいる。これは母親譲りの“幸福恐怖症”。

 

 父さんはあれから少しして蒸発した。そして僕は母方の祖父に引き取られ、養子として迎え入れられる。祖母はもうずっと前に亡くなっているから、今の僕はおじいちゃんとの二人暮らし。僕の都合を気遣ってのことか、前まで暮らしていた家のすぐ近くへと祖父と共に引っ越した。だから、学区も今まで通りで変わらない。それで大きく変わったことと言えば、僕が今までの苗字を捨てて代わりに母さんの旧姓を使い始めたことくらい。当然、それ以外にもややこしいことが色々とあったのだろうけれど、たかがティーンの子どもの僕がその詳細な事情を知ったところで、どうせ、何にもならない。

 

 

『ぼくが、いいこにしていなかったからかな? もしも、ぼくがもっとえらいこだったら、ぼくがもっとがんばっていたら、母さんも、父さんも、とおくにいかないでくれたのかな?』

 

 

 夢の中で度々出会う少年がいて、その子は僕に、そうやって問い質してくる。何度も、何度も、同じ調子で同じ声色で同じ文言で、何度も、何度も、何度でも、しつこく問い詰めてくる。

 

 あの子が泣き止んでくれる日は、果たして、訪れるのだろうか。あの子を宥めてあげられる人が、いつの日か、現れるのだろうか。

 まるで他人事のようで申し訳ないけど、それは僕にだって、さっぱり分からないことだから。

 

 一つ、助言というか、忠告というか、一つだけ君に言えることがある。今度また会うことがあれば、言おうと思うことがある。ねえ、君はね……

 

 

 ――君はきっと、未来永劫、幸せにはなれないだろうね。

 

 

 

「ときに椎名くん、君はいま、幸せかい?」

 

 しばしの黙考の末、回答する。

 

「そんなわけ、ないだろ。僕は幸せにはなりたくない」

 

 

 今が一番幸せだとか口走ったら最後、本当に“今が一番幸せ”になってしまいそうで、妙な不安に駆られる。

 

 これは、呪いか? はたまた、遺伝か、悪質な置き土産か。

 

 彼女が僕の方に向き直る。見つめる……とか、そういう甘っちょろい表現では足りない。僕の両の眼を強く、鋭く、突き刺すように、しかと捉える。そして言う。

 

 

「じゃあ、生きていても仕方がないね」

 

 

 不敵に笑う。普段通りの、虚ろで、淡白で、シニカルな、冷たい笑い。

 

 その言葉の真意の解釈もままならないまま、気づけば僕は彼女の瞳の奥の世界を覗こうとすることに夢中になっていた。

 そして僕は一つ、大きな、致命的な勘違いを犯す。

 

 一体、僕の中のどこの部分が判断を下したのか。理解できない、否、理解するより前に、

 

 僕は彼女のことが好きなのだと、頭のどこかで声がした。あろうことか、僕はその声を否定しなかったのだ。

 

 

「はは、そうだね。これ以上生きていても……」

 

 

 ふいに、背後から抱きしめられた。

 

「どうして?」

 どうして。

 

「……泣いていたから」

 泣いていたから?

 

 胸の下のところに手を伸ばし、膝をついた姿勢で前のめりに身体を預けてくる。すぐ耳の近くに彼女の頭がある。その、長く繊細な髪が頬に触れるから、こそばゆかったけれど、それもすぐに分からなくなった。嗅ぎなれないシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、僕の思考の輪郭を有耶無耶にさせた。

 

「泣いている人を見つけると、抱きしめたくなるの?」

 

「別に。今日は暗い話が多かったよね」

 

 僕らこの数ヶ月、明るい話で盛り上がったことなんて、あったっけ。

 

「女の子に触れられて、幸せな気持ちになった?」

 

 胸の辺りをまさぐられる。心臓の鼓動を確かめたいのか、僕の左胸に両の手を重ねたかと思うと、今度は抱擁の威力を強めた。何か、奪われてしまうような気がして、そうだというのに、それでも今だけは彼女の温もりに癒しを期待してしまっている。屈辱とも少し違うような、諦めにも似た情動が肢体に脱力感をもたらして、それは彼女の嗜虐的な愛情表現に肩入れしてしまう。それを良しとしてしまう阿呆な自分を、許してしまう。

 

 それに、盗られて困るようなもの、僕にはそんなもの、もはや残ってなどいないような気もしていたし。

 

「……少しは」

「だったら、」

 

 大慌てで彼女の腕を振り払って、立ち上がって、後ずさりして、心地好いひと時は終わりを告げた。その続きを言わせてしまったら、僕の中でタガが外れてそのまま気でも狂いそうだと思ったから。死ぬとか生きるとか、今、どうしても考えたくなかったから。

 否、一番恐ろしいのは、いっそのことそうしてほしいと望む自堕落な自分の存在を、自分の中に見てしまったことだった。

 彼女の空虚な眼孔に依然として収められている二つの……それらの放つ底無しの世界観に、見事なまでに蠱惑され尽くしてしまったのかもしれない。

 

 

 彼女が僕の全部、全部滅茶苦茶に、壊してくれればいいのに。

 

 

「ねえ、一つだけ、いいかな」

 

 彼女は決して、視線を外さない。僕が逸らさない限りはずっと、飽きることなくただ真っ直ぐに見据えてくる。

 

「“椎名”って、僕をそうやって呼ぶの、いい加減もうよしてよ」

 

 じゃあどうしてほしいのかな、って、言う。そんな意地悪なことをそうやって、意地悪なおどけ口調で。それで僕は、小心者の僕の心は、そのままだらしなく萎縮してしまうのだけど。そんな情けない意気地無しの僕なのだけれど、今日ばかりはどうしても、言いたかったから。これを言って、ぶつけてしまいたかったから。だからもういっそのこと、その、刹那的衝動のことを優先してしまうことにした。

 

「……名前で、呼んでほしい」

 

 

 だって、僕は君とは違う、君とは違って僕は“カラッポ人間”じゃないんだから。

 

 

 

 それは絶対に口にしてはいけない暴言だと、しかと心得ていたので、蓄えていた固唾もろとも乱暴に呑み込んだ。

 でも後半のそれは、果たして、彼女に対してぶつけたかったモノだったのだろうか。

 頭の中の耳障りな声を、その主を、否定したかったのだろう、本音はそれだろう?

 

 幸せからは逃げたくて、でも、優しさや温もりには人一倍飢えていて、だからこんな、矛盾だらけの薄気味悪い“思春期リビドー”がすくすくと芽を出してしまったんだ。これをありがちな、純な恋愛感情と混同させてしまうだなんて、僕は大馬鹿者だ。僕の脳ミソはきっと、手遅れの不良品に違いないのだ。


 それで、そのトリガーはよりにもよって、こんな……。

 

 急に、何の脈略もなく立ち上がった。彼女がおもむろに、こちらへ近づいてくる。また、何の意味もなく抱きしめられるのかと身構えたけれど、違った。すぐそこにある自分の鞄を手に取って、そのまま出口の階段を降り始めた。それを、ただ僕は見ていた。思考放棄して、じっと眺めていた。

 

 本当に帰るつもりなんだ、と、そう判断するくらいには距離が離れたところで、彼女が、シイナが振り返る。僕を、僕の両の眼を、彼女のそれが捉えたまま離さない。だけど、

 

 先までの性悪な、嫌に含みのある笑みとは打って変わって、今度は、不自然なほどに“自然”な、年齢相応の柔和な微笑を浮かべていて。それで、分かりやすいようはっきりと口を広げて、

 

 イの口、ウの口、そして最後に、満面の笑みで白い歯を見せつけた。

 

 彼女の示した“有言実行”。それを冷めた目つきで観賞し終えて、それで、特に何とはないのだけど、また一つ、彼女に言いたいことが浮かんだ。というより、訊きたいこと。

 

 

 シイナにとっての幸せって、どんなだろう。

 

 

 明日学校で会ったら、それで上手く間が合ったら、訊ねてみようか。

 ……いいや、当分の間は会話もしたくないかもな。

 まるでヘビに睨まれたカエルのように身体が硬直してしまうあの感覚、もう、しばらくはゴメンだし。

 

 真っ白なシャツが濁った雨水の残滓に侵されることなど少しも厭わずに、そのままふてくされたように仰向けになった。そして今一度、初夏の澄んだ天上を仰いだ。それで、

 

「僕はカラッポ人間なんかじゃない!」

 

 って、久しぶりに大声を出して、それだけで、この陰鬱とした気持ちが幾分か晴れてしまったような気がした。

 

 それでもなお、例の少年の泣きじゃくる声を、その煩わしい慟哭を、頭の外へと追いやるその術が得られるはずもなく。

 だけど今は、やけに心細くて人肌恋しい今だけは、うるさいくらいがむしろ寂しくなくて都合がいいや、って、少しだけだけどそう思えた。

 

 

 そして今度は何を思ったか、酔狂にも、自分で自分のフルネームを叫んでみたりした。それで僕は、なんだか皮肉が効いてるよなぁなんて呟いて、独りぼっちでへらへらと笑い転げてみせるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チルドレン・アダルティ 和泉ほずみ/Waizumi Hozumi @Sapelotte08

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ