第23話 空気は読むものではなく察するもの
昼休みにあんなことがあった後だから流石に今度は小虎の隣に座る──つもりだった。
「おい、嫁の方。ちょっとウチと話をしようか。つってもセンコーの目があるから筆談でだけどな」
事態は俺の想像を軽く飛び越えていた。何という事だろうか戌井さんが小虎に対話を求めてきた。
「悪いけどちょっとツラ貸してくれ」
不審に思って小虎と戌井さんの間に近付くと何とも言えない妙な違和感を覚えた。
戌井さんのまとう空気からは普段の刺々しい態度が見られなかった。それどころか少しばかり落ち込んでいる様にも見える。
「安心しろムッツリ。別に嫁に何かするつもりはねーよ。ただちょっと溜まってたもんぶちまけるだけだ。悪い様にはしねーよ」
そんな戌井さんの言葉の後に小虎の方を見ると小虎も小虎で何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。戸惑っている様な、警戒している様なそんなどっちつかずの微妙な顔。
「……たぶん大丈夫だよ。行ってくるね」
そう言って戌井さんに連れ添う小虎は会場後方に位置する隅っこの席に移動して行った。
そんな事があった後だから後半の講習会はそれはもう気が気じゃなかった。
めちゃくちゃ気になる。二人は何を話してるんだ?
これ以上小虎に危害が及ぶなら俺もいい加減実力行使に出るべきだろう。とりあえず龍ヶ花先生にチクるところから始めるのが一番の撃退法だろう。我ながら恐ろしい方法を思い付いてしまった。
いや、別に女同士の争いにビビってるわけじゃないから。
とりあえず今俺が出来ることは小虎の分までしっかりとノートを取る事だ。どうせアイツのことだから午前中も大してノートを取っていないだろうし。
気になるけど今は目の前の講習会に集中だ。
「はーい。ではでは、講習会も後半の方になったので仕上げの工程に入りながら皆さんの方に順次試食を回していきます。どうぞドイツの味を楽しんでください」
そんなアナウンスの後に試食の菓子が助教師陣の配膳で続々とテーブルの上に運ばれていく。少量とはいえ四種類にもなると試食の菓子は中々のボリュームになった。
昼飯を少なくしたのは正解だったな。
一口、ミュラーシェフの看板商品であるバウムクーヘンを口に入れる。
その味は今まで俺が食べたバウムクーヘンよりも遥かに美味く重量感のある生地の割に口溶けは初雪の様に繊細だった。
「Schmeckt’s?(美味しい?)」
試食のケーキに感動しているといつの間にかミュラーシェフの娘さんが俺の隣に来てそんな風に聞いてきた。しかもわざわざドイツ語で。
いや、日本語話せるなら日本語でいいじゃんか。そう思ったが流石に口には出さなかった。
「Oh, sehr lecker!(とても美味しいです!)」
少しばかり大袈裟に感想を言うと娘さんはニコリと微笑み「Schönen Dank! (本当にありがとう)」と満足そうな様子で教壇の方に戻って行った。
今のは何の確認だったんだろう。謎過ぎる。
その後も講習会は淀みなく進み二人分のノートを取るのに必死になっているとスケジュールはあっという間に最後の質問タイムに移行していた。
「はーい。ではでは最後にシェフへの質問タイムに移ります。どうぞ気兼ねなく何でも聞いてくださいね。なんなら私への質問でもいいですよ」
こういうフリーの質問タイムになると急に静かになるのが中途半端に歳を重ねた学生の欠点だと思う。
こういう時に率先して場の空気を作るのが我らがリーダーの仕事なんだけど……今取り込み中だしなぁ。
「はいはーい。ミアさんには彼氏とかいますか?」
開幕から地雷を踏みに行った馬鹿は一体誰なんだと視線を左右に動かすと手を上げている猿渡の姿が目に入った。
あの馬鹿は空気を読めないのか。うちのクラスの恥をこんな形で晒す羽目になるとは。
助けて小虎、場の空気が冷え切ったんだけど!
「それはこの通り父が怖ーい顔をしてるので男の子を家に連れてくるとみんな怖がっちゃうんですよ。だから未だに彼氏が出来た事はありません。ち・な・みに彼女の方もいませんよ」
猿渡の馬鹿丸出しの質問に律儀に答える彼女の様子を見ると、なんていうか本当に場馴れしている感じが凄いというか、不快感すら見せないその姿勢に尊敬の念を抱いてしまう。
見た感じそんなに歳も離れていないのに彼女は本当にしっかりしているなと思う。
「では他に質問のある方はいませんか? 何でもいいですよ〜」
気さくな司会進行に今度は違うクラスの馬鹿が場の空気を凍りつかせる質問をブッ込んだ。
「ミアさんのスリーサイズを教えください!」
たぶんエロ親父でもそんな質問しないぞ。アイツらきっと後でドラゴンティーチャーに処されるだろうな。そんな風に考えているとマイクの音声から耳を疑う言葉が聞こえてきた。
「Leck mich am Arsch!(クソくらえ)」
声の質と言葉の内容がまるで噛み合っていなかった。恐らくその意味を理解しているのはミュラーシェフを除けば俺くらいに違いない。現に驚いた顔をしてるミュラーシェフ以外の人間は彼女が何を言ったのか分からない感じの様子だった。
「あはは、それは秘密ってことでお願いします」
顔では笑っているけど間違いなく彼女がキレる寸前なのはさっきの言葉で嫌でもわかった。
おい、早く誰かまともな質問してくれよ。前門の虎後門の狼どころか前方の獅子(ミアさん)と後方の龍(龍ヶ花先生)から殺気が出てるんだけど!?
「子川、お前が質問を出せ。拒否は認めない」
背後に殺気を感じたと思ったら龍の方が俺にそんな無茶振りを要求してきた。つまりこの場で死ねと貴女は言うんですね?
「はい、そこの君。質問は何かなー?」
手を上げてもいないのに俺に指名がきた。冷え切った空気の中で公開処刑が決まった瞬間だった。
「え、いやその……」
「何でもいいですよー」
何でも良くない何でもが一番困るんだけどな!
会場の重い沈黙が俺の心臓を圧迫する。
いや、どうする?
と、とりあえず無難な質問を聞くか。つーかそれしか選択肢残ってねーから。
「えっと。ミュラーシェフが菓子職人、Konditor(コンディター)を志すきっかけになった経緯を教えてください。あと出来れば仕事のやりがいなんかも教えて欲しいです」
よくある模範解答を口に出すと俺には聞き取れないネイティブなドイツ語で親子間の会話が始まった。
「えーっと、父が菓子職人を志したきっかけは好きな人にプロポーズするためだそうです……」
そんな返答が出ると会場の女子達からキャーキャーと黄色い声が上がった。
「……というのは半分冗談で、幼い頃にお腹を空かせた妹に菓子を作ってあげたのが最初のきっかけだそうです。そんなエピソードは私も今初めて知りました」
妹に菓子を作ってやる、か。
親近感が
「仕事のやりがいはやはりお客様の喜ぶその顔を見ることですね。人から感謝をされるとこちらも嬉しくなってモチベーションの向上にも繋がります」
そこら辺の感覚はまだ分からないけど。仕事のやりがいなんてそんなもんしかないよな。
「他に聞きたいことはありますか?」
「いえ、ありがとうございました」
司会役の質問に俺はそう一言断りを入れ自分の席に着いた。
コツン、と。席に座ると後頭部に軽い衝撃が伝わってきた。
「良くやった。まぁ、ボキャブラリーの無い模範的な質問ではあるがな」
珍しく龍ヶ花先生の口からそんなお褒めの言葉を頂いた。普段からもっと褒めてくれても良いんですよ? 褒められて伸びるタイプなんで俺。
「はーい。では時間もちょうどいい頃合いなので質問はこれにて終了とさせていただきます。長い時間お付き合いいただきありがとうございました」
一瞬、誰かが手を上げたのがチラッと見えた気がしたが時間の都合で質問タイムは俺を最後に打ち切られた。
「では、生徒一同は最後に御二方に感謝の言葉をドイツ語で伝えて下さい」
教頭らしき教員の号令を合図に生徒一同はミュラー親子に「ダンケシューン」と感謝の意を伝えた。
「アリガトウゴザイマス」
カタコトの日本語で挨拶を返したミュラーシェフは教員の案内で会場から出て行った。
「Wir sehen uns(また会おうね)」
またもや俺の方を見てドイツ語で別れの挨拶を言った彼女、ミア・ミュラーさんはバイバイと手を振ってシェフの後を追った。
だから何でわざわざドイツ語で話すんだ。そこは別に日本語でもいいじゃないか。
講習会が終わると当然の如く馬鹿な質問をした馬鹿二人は殺意の波動を放つドラゴンティーチャーに処された。そりゃそうだ。
会場から教室に戻る途中で小虎の背中に追い付くとその雰囲気は何とも言えない微妙な空気だった。
「大丈夫だったか?」
「うん。少なくとも子川くんが心配する事は何も起きてないよ」
「何を話したか聞いてもいいか?」
「それは乙女の秘密だから教えてあげない」
「…………?」
小虎の顔は薄く笑っていてその表情から察するに少なくとも嫌な目には遭っていない様に思える。
「……まさか戌井さんがねー。これはわたしも油断なんかしてられないよ。アドバンテージに
ポツリと。小虎が感慨深そうに呟いたその内容が、俺は妙に気になって仕方がなかった。
「あっ、そうだ。わたし今日から戌井さんと友達になったから。子川くんも今後はよろしくね」
「…………え? は?」
サラッと衝撃的な発言をする小虎。戌井さんと友達になった? なんで? どんな経緯で?
なんていうか。
女子の考えていることは俺には何にも分かんねえわ。いやマジで。
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