第22話 トイレで喧嘩を売らないで下さい

 講習会のスケジュールを半分ほど消化したあたりで会場が一時的に開放され学生の俺たちは昼休みの時間に入った。


 司会進行役の娘さんのトーク力もさることながらミュラーシェフの技術力の高さに圧巻されていると時刻はあっという間に十二時を過ぎていた。


「子川くんの馬鹿ぁ。何で呼んだのに来てくれなかったの……」


 教室に戻ると予想に反して小虎はキレ散らかす様子もなく机にグッタリとうつ伏せになっていた。


 俺の目から見ても明らかに元気がなかった。それに机の上に乗っているたわわな果実が身体の重圧で潰れていてなんだかとても卑猥に見える。いや、それは今関係ないことだ。


「何でそんなに疲れてるんだ?」

「んー。気遣いというか気苦労的なやつかな」

「そうか。悪かったな拒否して」

「んーん。わたしも先走っちゃってごめんね。ど真ん中なら良く見えると思ったんだ」

「…………」


 つまりは自分のためだけじゃなく俺のためにも席を確保した、ということなのだろう。


 小虎のそういう何気ない気遣いには頭が上がらない。


「……たぶん俺はお前のそういうところにかれたんだろうな」

「いや、急にどうしたの!?」


 ガバッと机から身体を起した小虎は「子川くん今日なんか変だよ!?」と目を丸くした。


「あー……俺なりに昨日話したプランを実行しているつもりだったんだけど」

「あ、ああ……それか。うん大丈夫、ちゃんと分かってるから」


 急にスン、と真顔になる小虎。さっきのテンションはどこに行ったのだろうか。


「や、昨日は色々と舞い上がってたからあんまり気にしなかったけど……なんていうか、実際にプランを実行されると子川くんが本音じゃなくてお世辞を言っている様に聞こえるんだよね」

「いや、俺が小虎を好きなのは本当だぞ?」

「そういうのサラッと言うとことか! 今までの鈍感ぶりは何だったの?」

「そこはお前……察してくれよ」

「や、分からなくはないよ? 子川くんの言いたいことは」

「なら俺の気持ちもんでくれ」

「うう〜でも何か色々と釈然としない!」


 不満そうな様子の小虎はガォーっと吠えた。いや、イメージ的にはにゃーの方が近いか。


「そもそもの話だよ? 恋人同士って何かこう、もっとラブラブでイチャイチャしてないと駄目だと思うんだよね。わたし的に」

「いや、流石にそれは人目がないところ限定にしてくれ」

「でも人目があるところでやらないと意味ないじゃんかさ。こーゆーのは他人に見せ付けないと認知されないよ?」

「ふむ。確かにそうだな」

「でしょ? だからもっと恋人らしいことしようよ。わたし達一応は付き合ってるんだから」


 ザワッと。小虎の発した一言で教室内が急にざわつき始めた。


「あっ、やっぱりあの二人って付き合ってたんだ」

「そりゃそうでしょ。むしろあれでただの友達の方がおかしいって」

「あの乳揉めるとかうらやまけしからん」

「子川は今すぐ爆発四散しろ」

「モテ男は死すべし慈悲もない」


 そんなクラスメイトたちのボヤきを掻き消すかの様に小虎の友人であるクラスメイトの女子数名がわらわらと俺たちの周りを取り囲んだ。


「ねーねー告白はどっちからしたの?」


 女子の一人がそんな質問をしたので俺が「一応は俺の方から」と答えた。


「それってつまり「俺がお前を守ってやるよ」的なやつ? やだ子川くんカッコイイ!」

「つまりは昨日の一件が恋のキューピッドになったってわけね。噛み付いた側はそんな気一切ないだろうけど」

「何はともあれおめでとー。ウチらのクラスからカップルが誕生するなんてこれはもう大事件だね」


 ワイワイと当事者を置き去りにして勝手に盛り上がるクラスメイトの女子数名。なんていうか女子って本当にこういう話好きだよな。


「……チッ。頭の中マシュマロかよ。どいつもこいつも発情期でもねーのに盛ってんじゃねーぞ」


 そんな舌打ちと悪態を誰が発したのかは確認するまでもなく、戌井さんは荒々しい足取りで教室を出て行った。


「何あれ感じ悪」

「元からああいう人でしょ戌井さんて」

「小虎さん、子川くん。あーゆーのは気にしちゃダメだよ? 私たちは二人の恋を応援してるからね?」


 その後も特に小虎の方は女子からの質問責めを多重にくらい返答に四苦八苦している様子だった。


「あはは、みんな恋バナ好きだねー」


 年頃の女子の勢いに圧倒された俺は小虎をその場において逃げる様に男子トイレに身を隠した。


 クラスメイトの反応は完全に俺の想定を超えていた。


 それなりの覚悟はしていたつもりだったけど、まさかあそこまでとはな。


 まぁ、でも。これで戌井さんも小虎には下手に手出しできないだろう。


 人の恋路をネタにイジメとか誰の目から見ても無粋極まりない行為だから。やれば間違いなく批判の的になる。


 そうすれば立場が危うくなるのは戌井さんの方だ。流石にそこまでのリスクを犯してまで小虎に噛み付く理由もないだろうし。


 民意と数の暴力に頼るのは少し気がひけるけど。そもそもの話、戌井さんが問題を起こさなければこんな事をしなくても済んだわけで。


 一つだけ気掛かりなことは戌井さんが小虎に対してだけやたら攻撃的な理由だ。


 単純に小虎の性格が気に入らないという理由だけであそこまで攻撃的になるだろうか。何か他に明確な理由があるような気もする。


 まぁ、俺が考えたって分かるわけないんだけど。


「やぁ、なんだか君のクラスは少し騒がしいね」


 物思いにふけながらトイレで用を足しているとそんな爽やかな空気感で俺に声を掛けてくる人物がいた。


「隣、失礼するよ」


 こんなに便器の枠が空いているのにわざわざ俺の隣に来るだと!? しかも爽やかな雰囲気で!?


「……えっと、どちら様ですか?」

「あはは、イヤだな。君とは前に居酒屋で会ったじゃないか。覚えてない?」

「悪いけど覚えてないな」

「そうかい。僕はあの日に君にかけられた水の冷たさを今でも覚えているけどね」

「……あー、あの時の。その節はどうも」


 気さくに話しかけてくるこの爽やかなイケメンには見覚えがあった。


 ああ、そうか。こいつがあの時とあの時に小虎の隣に座っていた輩か。なるほど、雰囲気だけじゃなくて顔もイケメンだ。あまりのイケメン具合にうっかり惚れそうになる。俺が女子じゃなくて本当に良かった。


 しかし、何でわざわざ俺に話しかけてくる?


「いきなり不躾な質問をして悪いけど、君と風花はどれくらいの仲なんだい?」

「どれくらい、とは?」

「いや、風花が珍しく特定の人物だけを贔屓ひいきにしているから。それが気になって仕方がなくてね」

「…………」


 というか、こいつ小虎のこと名前呼びしてるな。あれか、猿渡みたいに誰でも構わず下の名前呼びする系のパリピ陽キャなんだろうか。


「……質問に答えるなら高校時代からの付き合いだが、それが何か?」

「なるほど、高校からなのか。ちょうど僕の知らない風花の一面が現れ始めた時期だね」


 その言い方はまるで昔から小虎の事を知っているかの様な『匂わせる発言』だった。


「風花の気分屋には困ったものだよ。僕に相談も無く偏差値の低い公立の高校に進学するんだからね。一人暮らしの件も含めて流石に勝手が過ぎると思うんだ」

「それは……いや、何でもない」


 単に避けられてるだけでは? 口から出そうになった言葉を飲み込んで自分の排泄に集中する事を今この瞬間に決めた。


 クソ、こういう時に限って中々終わらないの本当に腹立つ。


「何かな? 何かあるならはっきり言ってくれ」


 少しだけ、その言葉には苛立ちの色が乗っていた。


「いや、便所で知らない奴と雑談する趣味はないだけだ」

「……そういえば、自己紹介がまだだったね。僕はA組の白馬政一はくば まさかず。風花とは小さい頃からの幼馴染なんだ」

「いや、別に聞いてないんだけど」


 幼馴染、か。そりゃ昔を知っているだろうな。

 小虎のやつも大変だな。こんな変なのに絡まれて。


 そんな事を考えていると俺の不遜な態度が気に入らないのか白馬は少しばかり語気を強めた。


「こう見えても僕は心配しているんだよ。良家の出身である風花が君みたいな雑種と親しくしているのがね。風花に悪影響が及んでいるかもしれないと思うと気が気じゃないよ」

「なんだ、犬の話なら歓迎するぞ。反論するなら雑種には雑種の良さがちゃんとあるんだ。何も血統書持ちだけが犬になれるわけじゃないんだから。可愛いぞ雑種も」


 論点をズラして適当にやり過ごしているとそれはそれは不快そうな声で白馬は言う。


「……何で風花は君みたいな奴を側に置く事を許しているんだろうね。正直言って理解に苦しむよ」


 それについては俺も未だに理解できていないけどな。


「それがアイツの持つ人の良さであり美点なんだろ。道端にいる捨て犬でも構わず拾って面倒見るのが大好きな性格だからな。いや知らんけど」

「……君が風花を語るなよ」

「ホントそれな。アイツが考えてることなんて何にも分かんねーわ。取説あるならくれよ。何かある度にキレられてこっちも大変なんだ」

「風花はそんな野蛮な人ではないよ。君の価値観で決めつけないでくれ」

「そういう事を言う奴が一番自分の物差しで人の価値を決めてるんだよな。お前、知らないだろ。アイツ男相手でも普通に蹴り入れてくるぞ?」

「それは君の落ち度が原因だろ」

「それと、アイツは嫌なことがあっても人前だと基本的には笑顔を絶やさないからマジで落ち込んでる時の判断が分かり辛いんだよな。わざわざ二人きりにならないと愚痴もまともに言えないメンタルクソ雑魚みたいだし」

「…………っ」


 白馬の顔は少しばかり困惑した様子だった。


「……気分を害した。僕はこれで失礼するよ」


 人の隣でエア小便をする奇妙な男、白馬はそう一言だけ吐き捨ててトイレを出て行った。


「……それはこっちの台詞だよ。イケメン勘違い野朗」


 トイレを出ても何かスッキリしないのは単に全てを出し切っていないだけなのだろうか。この歳で残尿感を覚えるとは、後々の健康寿命が心配でならない。


「ちょっ、子川くんどこ行ってたの? わたし一人じゃもう手に負えないんだけど!?」


 教室に戻ると小虎は女子達からの質問責めで疲弊している様子だった。


「……大変だな、お前も」

「そう思うならちょっとは助けてくれてもいいんだよ?」

「ああ、任せておけ。お前は俺が守るから」

「…………っ!?」


 食べごろの苺よりも顔を赤くした小虎の代わりにキャーキャーと色めき立つ女子に適当な餌を与えて何とか昼休みは終わりを迎えた。


 小虎との仮の恋人関係は俺もまんざらではないので別に噂が広まるのは一向に構わない。むしろ外堀から先に埋まってくれる方が後々で楽になると思うから。

 だから、今回の件は別段騒ぐことではない。少なくとも俺の中では。


 それでも、ただ一つだけ気になることがあった。


「……なんだよムッツリ。人の顔ジロジロ見てんじゃねーぞ」


 それは昼休みの終わり間際に戻ってきた戌井さんの目が少しばかり赤くなっている……様に見えた。まるで泣いた後の様な目の色。それが少しばかり俺の中で小さな引っ掛かりになって残っていた。

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