第8話 玄関開けたら秒で

「……いや、別にわざわざ妹の好物を作る必要は無いんだけどな」


 学校の帰り道。スーパーで適当に食材を調達するつもりだったのだが……気付けばカゴの中は数日では消費し切れない大量の食材が入っていた。


「まさか、柄にもなく張り切ってるのか? しかも妹のために?」


 愛用のエコバッグを肩に担ぐと、ふと唐突に熱に当てられてたかぶっていた気持ちがスンと落ち着いた。


 親父に妹の面倒を頼まれたとはいえだ。何を思って張り切っているんだ俺は。


 そりゃ、妹に対して同情とか庇護欲の感情はあるけど。


 でも、それはやっぱり妹が『家族』だからであって。そこにそれ以上の特別な感情は無いはずだ。


 慰めるにしろ過度な干渉は避けるべきだろう。

 しかし、傷心中の相手にはどう接するのが正解なんだ?

 分かんねえ。誰か教えてくれ。


 そんなことを頭の中でグルグルと思念していればいつの間にか我が家のドアノブに手を掛けていた。


 あくまでも対応は兄らしく。そう自分に言い聞かせて玄関の扉を開いた。


「莉奈、帰ったぞ──」


 言い掛けて、目に入ってきた光景に言葉を失った。


「…………お兄ちゃん?」


 驚きで目を大きく見開いたその翡翠ひすいの瞳はしっかりと俺の顔を捉えていた。


 交わる視線、岩のように硬直する身体。


 そこには一糸たりとも衣類を身にまとっていない妹の裸体があった。


 水が滴る色白の柔肌はほんのりと赤みを帯びていて、しなやかな曲線部に張り付く胡桃色の長い髪がより一層女性らしさを強調している。胸部を彩る桜色の突起は何も包み隠されておらず見た者の性衝動を強烈に刺激してくる。


 身体からわずかに漂う湯気と石鹸の匂い。タオルで髪を拭いている仕草を見ても風呂上がり直後なのは間違いなかった。


 普通なら声を上げて身体を隠すか、目を逸らせば終わるはずなのに。


「…………」

「…………」


 扉を開けて数秒間、対面した俺と妹の間で変な空気が生まれていた。


「お、お兄ちゃん。早く扉閉めて。あと後ろ向いてて。今すぐ着替えるから」

「あ、ああ。悪い……」


 

 俺は妹に言われるがままに後ろを向いて玄関のドアを閉める。


 なんだ、今の微妙な間は。

 なんですぐに動かなかったんだ?

 そこは直ぐに叫んで怒る場面だろ。なんでまず最初に身体を隠さない。お前にも羞恥心はちゃんとあるはずだろ。


 というか、いくらなんでも間が悪過ぎる。これじゃタイミングを狙って出て来た──

 わざと、なのか? いや、まさか。


「ビックリしたー。お兄ちゃん急に帰ってくるんだもん」


 背後から聞こえる布ズレの生々しい音が、妙なほど耳に残った。


「悪い。外に出てるから」

「や、いいってば。すぐに終わるから」

「…………」

「ん。もう着替え終わったからこっち向いて良いよ」


 振り返るとそこには今朝と同じように男物の服を着た妹の姿があった。さっきの『事故』もあり髪も濡れているせいか少しだけその姿が色っぽく見えてしまった。


 ドキドキと。自分の動悸の速さに言い表せない嫌悪感を抱いた。妹相手に何を反応しているんだ。


「俺の配慮が足りなかったな。けど、お前もちゃんと気を付けろよ」

「……うん、そうだね。莉奈もお兄ちゃん以外は嫌だし」


 気不味い空気の中でキッチンにある冷蔵庫の扉を開けると背後で妹がポツリと呟いた。


「……良かった。ちゃんと意識してくれて」


 そのわざとらしい聞こえる声量の独り言をあえて深読みするのなら……兄として俺が取るべき対応は──


「あー、そのなんだ。産毛で分かり辛かったけど……やっぱ下の毛も髪と同じ色なんだな。良かったな大人に一歩近付けて」


 ゲシッ。

 妹に背中を思いっ切り蹴られた。


「痛っ!? 急に蹴るなよ!?」

「いやいや、お兄ちゃん。そーゆーのは思ってても言っちゃダメなやつだからね? デリカシーって言葉知ってる? 女の子の裸見た感想が下の毛とかマジありえないから」

「じゃあなんだ、肌が綺麗だなって言えば良いのか? それこそありえないだろ」

「…………っ」

「急に顔を赤らめて恥ずかしがるな」


 デリカシーの無い一言で変な空気は払拭出来た。羞恥心でモジモジしている妹をスルーして俺は夕飯の準備に取り掛かる。


 メニューは不本意ながら妹の好物だ。


「ふあぁぁぁ。めっちゃカレーの良い匂いがする」


 髪を乾かしながら夕飯が出来るのを待っている妹はやたらとテンションが高かった。

 狭いアパートだから食べ物の匂いは部屋の中に充満しやすい。


「やったー、お兄ちゃん特製のカレー味の唐揚げだ。莉奈これ超好き」


 出来上がった料理をテーブルに運ぶと妹は無邪気に満面の笑みを浮かべた。


「いただきまーす」

「よく噛んで食えよ」

「はーい」


 もぐもぐと。唐揚げを食べる妹の顔が昔の記憶と重なった。


「ん〜。やっぱりお兄ちゃんの料理が一番美味しい」


 その言葉もその反応も何一つ昔と変わっていない。

 変わってしまったのは容姿だけだ。

 幼き日の面影は過ぎた年月の分だけ成長という形で薄れていく。

 もう昔には戻れない。それは嫌というほど分かっている。


 ──それがどうした?


 自分が自分を嘲笑する。昔を懐かしんで感傷に浸るとか、年寄りか俺は。

 

「お兄ちゃんは食べないの?」


 呆然と妹の食事を眺めていたら不思議そうな目を向けられた。


「ああ、悪い。お前の食いっぷりに圧倒されてた」

「食いっぷりに圧倒されるとは?」

「いや、なんつーの圧が強い的な?」

「圧が強い」


 何言ってんだコイツという目で俺を見る妹。その反応はおおむね正しいと思う。


「……唐揚げ作ってくれたって事はおとーさんと電話で話したんだよね?」

「……どうしてそう思う?」

「ん、お兄ちゃんが莉奈の好きな物作ってくれる時ってだいたい莉奈が落ち込んでる時だから。なんとなくそうなんじゃないかなって」

「…………」


 本当に勘が鋭い。いや、これはおそらく経験則に基づいた推測だろう。


「……どこまで聞いたの?」

「大まかな流れは聞いた。お義母さんが本当の母親じゃないこととお前に生き別れの姉がいることとか」

「そっか。お兄ちゃんも急なことでビックリしたよね」

「…………」


 確かに驚きはした。だけど、渦中の中心にいる当事者の精神的負荷に比べれば大したことはない。精神ダメージなんてあってないようなもんだ。


「莉奈ね、薄々は気付いてたんだ。ママが本当のママじゃないって」

「……そうだったのか?」

「うん。なんていうか日が経つにつれて態度がどんどん冷めていってる感じがしたんだ。特にお兄ちゃんが居なくなってからのここ一年はまともに会話もしてないし。隠し事がバレた最近に至っては開き直ってる感じもするし」

「……」


 俺の知るお義母さんの人物像からは想像も出来ない行動だ。

 生真面目で仕事に熱心な人。そう思っていた。

 悪く言えば継母も所詮は赤の他人。知らない事や隠し事の一つや二つはあるはずなんだ。


「まぁ、でも感謝はしてるよ。本当のママの代わりに莉奈を育ててくれたわけだし」

「………」


 傷心している妹に掛ける言葉が見つからなかった。

 本当の兄なら気の利いたセリフの一つくらい言えたはずだ。

 情け無い。親父に吠えて噛みついた癖にこの様か。

 所詮は俺も偽りの兄。形だけの家族だったということなのだろう。


「……湿っぽい話はこれで終わりだ。とりあえず飯食うぞ。匂いが残るの我慢して揚げ物作ったんだ。せっかくだから熱いうちに食え」

「うん。そうだね」


 唐揚げを口に運ぶ妹の瞳は薄っすらと涙でにじんでいた。


「うん。やっぱり誰かと一緒に食べるご飯は二倍美味しいねお兄ちゃん」

「そうか。たくさんあるからいっぱい食べろよ」

「わーい。お兄ちゃん大好き」

「セリフから唐揚げが抜けてるぞ」


 妹の瞳からポロポロと零れ落ちる涙を見て見ぬふりをする俺は間違いなく最低のクズ人間なんだろう。

 慰めて親身に寄り添える奴が『本当の兄』だろ。兄貴を気取りたいならそれくらい出来ないでどうする。

 しかし、これ以上この話題を話すのは酷だ。

 ましてや、こんな空気で今後の話なんて出来るわけがない。


 妹を元気付ける物が何かあればいいんだが。


「……なぁ、莉奈。次は何が食べたい?」

「えーと……お兄ちゃん」

「こんな時にふざけるな。セリフから料理名が抜けてるぞ」

「そうだよね。食べるのはお兄ちゃんの方だったね」

「おかしいな。会話がまるで噛み合わないんだが」


 妹の無邪気さに助けられて辛うじて重い雰囲気だけは霧散した。


「お兄ちゃんご飯終わったら一緒にゲームしよ? 莉奈マリパかスマブラやりたいな」

「ああ良いぞ。ゲーム機だけは無事だからな」


 そんな会話を交わした後、食器を片付けていると唐突に玄関からピンポーンとインターホンの音が鳴った。


「……誰が来たの?」


 突然の来客に妹は少しばかり身構えた様子だった。おそらく親父かお義母さんが来たと思って警戒しているのだろう。


「安心しろ。少なくともお前の客じゃない」


 何の連絡も無しに我が家に訪問する人物は俺の知る限り二人しかいない。

 小虎か桜花姉。

 まぁ、二択を直感で判断するなら現状を、いや複雑な家庭事情を説明するのが面倒な方だろうな。


「にひひ。連絡アポ無しで突撃して来たんだけどビックリした?」


 玄関のドアを開けると……そこには両手にコンビニ袋を持った悪友のニヤけた顔があった。


「子川くん。悪いことしよ」


 ……この状況、どうやって切り抜けようか。

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