第4話 添い寝する妹とストロベリージャム

 アラームの音で目が覚めるとカーテンの隙間から差し込んでくる朝日の陽光が容赦なく俺の眼球に突き刺ささった。


 ゴールデンウィークが終わった平日の朝。午前七時頃。飲酒と寝不足のせいで寝起きのコンディションは間違いなくバッドステータスだった。


 朝日の眩しさで目が完全に覚めると、どういうわけか右半身に謎の圧迫感を覚えた。


 金縛りかと思い原因を探るために目をキョロキョロと動かすと、右腕から腹部にかけてしがみ付いている淡い色の茶髪の少女がすうすうと寝息を立てているのが目に映った。


「…………んん」


 不覚にも右半身にかかる生々しい身体の重みと肌の柔らかさ、そして長髪から香る甘い匂いに意識と理性を溶かされそうになる。

 しかし、俺は鋼の精神で何とか平常心を保つ事に成功した。


「むにゃ……」


 俺の心中など知らずに西洋人形の様な容姿をした少女はすやすやと幸せそうな寝顔をだらしなく晒していた。


 昨夜の記憶を必死に呼び起こしたおかげで隣で寝ている女子高生くらいの少女が自分の妹だとすぐさま理解できた。


 堂々と人の腕を枕にして寝るとか、いい度胸してるなこの妹は。


 怖いもの知らずな性格の割に虫が嫌いとか、臆病なのか肝が据わっているのかどっちつかずなんだよお前の性格は。


 この状況、昨日の塩対応に対する腹いせか? いくらなんでも悪戯が過ぎるだろ。


 というか、寝起き直後でこの状況はものすごく心臓に悪い。


 妹相手に血迷ったのかと自分自身を疑ってしまった。


 しかし、どうするこの状況。


 俺は好き勝手な振る舞いで添い寝している妹のあられもない姿をまじまじと観察する。


 健康的なボディラインを惜しみなく表現している白のプリントTシャツ一枚の寝間着姿。下は透け感の強い黒のレース生地の下着が一枚だけ。当然の如く色白の生脚は大胆に露出している。どうやら妹は寝る時はノーブラ派らしく胸元には二つのお椀がくっきりと浮かび上がっていた。


 なるほど、これがDの大きさか。なら小虎は最低でもFは──


 じゃなくて。


 客観的に見ても相手が俺じゃなかったら寝込みを襲われていても不思議じゃない格好だ。


 こんな状況を第三者が見たら恋人同士がする事後の朝チュンだと誤解されかねない。


 いや待て、そのシャツやけにぶかぶかでサイズが合ってないと思ったら……俺の肌着インナーじゃねーか。何勝手に人の服着てるんだこの妹。


 とりあえず起こしてすぐに着替えさせよう。相手が妹とはいえ正直言って目のやり場に困る。


「おい、莉奈今すぐ起きろ。朝だぞ」


 右半身を拘束されている俺はかろうじて動かせる左手を使い触っても許される部分であろう肩を掴んでグラグラと妹を揺さぶった。


「ううん……あと五分……」


 むにゃむにゃ、と。使い古された常套句じょうとうくを言ったかと思えば妹は起きる気配など微塵もない様子でギュッと俺の胴体にしがみついてきた。


「…………ふぉ!?」


 ダイレクトに伝わるムニュッとした柔らかい感触とむせ返るほどの甘い匂いで俺の思考は頭の中で交通渋滞を起こしていた。


 上も下も柔らかい。おまけに良い匂いがムンムンと鼻腔びこうを刺激する。ヤバイ、妹のくせにめちゃくちゃエロい。


 おそらく寝ぼけて俺のことを抱き枕か何かと勘違いしているのだろう。そうでなければこんなに力強く抱きしめてこないはずだ。


 ここは力尽くで拘束を解くしかない。


 そんな、冷静な思考が捻り出せるわけもなく俺はこの後歳下の妹相手に情けない悲鳴をあげてしまう。


「ふあぁぁぁぁ!? 莉奈、莉奈っ! お前マジふざけんなっ、寝ぼけてないで早く起きろ! マジで頼むから起きてくれ!!!」


 俺の心からの願いが通じたのか単純に大声で叫ばれたからなのか、長いまつ毛がゆっくりと上がりエメラルドの様な色彩の瞳がぼんやりと俺の顔面をとらえた。


「…………んぁ、お兄ちゃん?」


 妹は寝起きの頭で現状を把握したいらしく視線を俺の顔と自分の胸元から足先までの間を二回くらい往復させた。


 誰がどう見ても熱烈な抱擁ハグだった。


「……ぴゃぁぁぁぁぁぁ!?」


 現状を把握した途端に奇声をあげる妹。そのまま勢いよくベッドから転げ落ちすかさず毛布で自分の痴態を包み隠した。


「お兄ちゃんのえっち! どさくさに紛れて莉奈に何かしたでしょ!?」

「俺は何もしてねーよ!」

「ウソだ、じゃあ何で莉奈はお兄ちゃんとハグしてるの? 何もなかったらあんなに密着してないじゃんか!?」

「むしろ抱きついたのはお前の方からなんだが!?」


 俺はあらぬ濡れ衣を着せられそうになり抗議の声を上げる。


 俺がお前に手を出すわけないだろ、と。


 毛布で丸まった妹にそんな事を言うと琴線に触れたのか不機嫌そうにグッとまゆが寄った。


「は? 何でなんもしてないの? 隣で莉奈が無防備な感じで寝てたのに? お兄ちゃんバカなの? いくらなんでもお兄ちゃんとしてその対応はありえないんだけど?」

「いや、兄なら当然の対応だと思うけどな」

「いやいや、普通なら揉むでしょ。お兄ちゃんなら揉むでしょ。むしろ揉んでよ、莉奈のお兄ちゃんなら」

「よし、一旦落ち着け。言ってることが支離滅裂だぞ」


 ちょっと何言ってるか分かりませんね。


「ヘタレ。いくじなし」


 その妹の恨めしそうな言葉が鐘の音の様に頭の中で反響した。


 そんな茶番があって数分後。


 部屋着のパーカー(これも俺の服)に着替えた妹は俺が自作した自家製いちごジャムをたっぷりと塗ったトーストをもふもふと食べながら朝のテレビ番組を呆然と眺めていた。


「お前、今日学校はどうすんだ?」


 確認のためにした質問に妹は「んー、分かんない」と、どっちつかずの曖昧な返事をした。


「いや、分かんないってお前。ゴールデンウィーク明けなんだからちゃんと学校に行けよ。勝手に休みを増やすな」

「えー、だって今の学校楽しくないんだもん。勉強ばっかだし」

「学校はそういう場所だろ」

「ふーん。お兄ちゃんも学校楽しくないんだ?」

「…………いや」


 今の専門学校が楽しいかと問われたら判断に悩むところだが……学生生活が充実しているか否かの点ならそれなりに満足していると言ってもいい。

 今に限らず高校時代も。

 まぁ、その評価にはあの悪友の存在が大きく関わっているわけだが……それを素直に認めるのは悔しいというか一周回ってムカつくからこの場では言わないでおこう。


「今の学校はそれなりに気に入ってはいる」

「いいなー。莉奈もお兄ちゃんの学校に通いたい。高校辞めて転校しようかな」

「転校ってお前まだ高校生だろ」

「そこは飛び級とかで」

「海外ならともかく日本だとまず無理だな」

「そっかー残念」


 あまり残念そうに見えない表情の現役女子高生の妹はジャムトースト片手にスマホを操作して行儀の悪さを俺に披露していた。


「…………」


 スマホの画面を見始めてから表情が優れなくなった妹に俺は「行儀が悪いから食事中にスマホを見るな」と注意した。


「ところでお兄ちゃん。このジャムめっちゃ美味しいんだけど、どこのお店のやつ?」


 少し不自然なタイミングの話題振りだとは思った。思ったけど気には留めなかった。


「お前には教えない」

「ええ、何その意地悪……ん?」

「どうした?」

「や、お兄ちゃんは朝ごはん食べないの?」


 俺がコーヒー一杯しか飲んでいないことを不審に思ったらしく妹は可愛い感じに小首を傾げる。


「気にするな。今朝は食欲がないんだ」


 半分は嘘で半分は本当の事を言うと妹はハッと何かに気付いた素振りを見せる。


「……もしかしなくてもお兄ちゃんが食べるはずだった朝ごはんを莉奈が今食べてるんだよね。それってつまり莉奈に譲ってくれたって事、だよね?」

「…………」


 妙なところで勘が鋭いなと思った。


 男の一人暮らしだから予期せぬ来客に対応出来るほどの食料があるはずもない。


 二日酔い気味で食欲がないのは本当だが、だからといってわざわざ自分の食材を使って妹の分だけ朝食を作る必要があるかと言えば俺にそんな義理も義務も無いわけで。


 これは妹を使ったただの試食会。そう思えば朝食を作る事もさほど苦にはならなかった。


「……言っただろ。お前は何も気にするな」

「そーゆーところだよ。お兄ちゃん」


 妹は嬉しさと悲しさが入り混じった複雑な表情で淡々と過去を懐かしむ。


「お兄ちゃんってズルいよね。普段は口が悪くて素っ気ないのに莉奈が弱ってる時に限って優しくしてくれるんだもん」

「それはお前の勘違いだ」

「ケーキのいちごも夕飯の唐揚げもいつも自分の分を莉奈に分けてくれたよね?」

「お前がほしそうだったからな」

「風邪ひいた時はうどんとかウサギさんリンゴを作ってくれたし」

「そうしないとお前が飯食べないからな」

「勉強が分からない時は分かるまでしっかり教えてくれたし」

「妹がアホの子だと俺の株が下がるからな」

「莉奈がお願い言うと大体のことは聞いてくれたよね? 誕生日プレゼントは全部莉奈が欲しかった物ばかりだった」

「何言ってるんだ。兄貴なら妹を優先するのは普通だろ」

「普通じゃないよ。お兄ちゃんは優しいよ」


 だから、と。妹は言う。


「そんな風に優しくされたから莉奈は勘違いしちゃったんだ。莉奈はお兄ちゃんにとって“特別”なんだって」

「家族という枠組の中でならある意味で特別なんだろうな。知らんけど」

「ほんとズルいなぁ、お兄ちゃん。その気がないのに莉奈に優しくして。このままじゃ莉奈また勘違いしちゃうかもしれないよ?」

「…………」


 まるで勘違いさせた俺の方にも責任があると言いたげな言い方だった。勘違いした自分には非がないとでも言うつもりなのだろうか。


「……このジャム美味しいね。お兄ちゃんが許してくれるならまた明日ここでこれ食べたいな」

「…………」


 本当に妙なところで勘が鋭い。


 俺の中では昼間にでも親父に連絡して今日中には引き取りに来てもらう腹積りだった。追い出されるのを察知したのか、はたまた会話の中で俺の考えを見抜いたのだろうか。


 妹が学校に行けば追い出せるチャンスだったのだが……どうやら今日はこのまま部屋に居座るつもりらしい。


 このままじゃらちがあかない。何か別の手段を考えるか。


「明日はちゃんと学校に行けよ」

「んー、行けたら行くね」

「それは行かない奴が言う常套句だろ」

「お兄ちゃんが学校まで送ってくれるなら絶対行くんだけどなぁー」

「学校まで送迎とかどこのお嬢様だよ。自分の足で歩け」

「えー、久しぶりにお兄ちゃんのバイクに乗りたいなー」

「…………」


 普通自動二輪の免許を取った高校時代の時に妹を何回か後ろに乗っけてやった事はある。

 だけどそれも結局は昔の話だ。今は違う。


「バイクって気持ちいいよね。風を切り裂いてピューって翔んでる鳥みたいになれるし」

「その感性には同意するけど、お前を後ろに乗せたくない」

「…………っ」

「ニケツで事故ったら洒落にならないからな。お前に怪我させたらお義母さんに顔向けできない」

「あっ、そっちの心配なんだ」

「それ以外に何を心配するんだよ?」

「や、彼女以外は乗せたくない的な?」

「アホかお前。そんな下らない理由だったら最初のツーリングでお前を乗せ──」


 自分が何かを言いそうになった事に気付いてとっさに口を閉じる。

 俺は今、何を言うつもりだったんだ。


「ねーねー、お兄ちゃん。今何て言うつもりだったの? 莉奈すごーく気になるなー」

「べつに、何もない」

「ふーん。そっかー、何もないのに照れるんだ。お兄ちゃんからツンデレ頂きましたー。あざまる水産よいちょまる」

「パリピ語ウザっ」


 ニヤニヤと人を小馬鹿にしている小生意気な妹にだんだんと腹が立ってきた俺は「部屋で変なことするなよ」と一言釘を刺して玄関に向かう。

 これ以上話しても時間の無駄だ。さっさと学校に行こう。


「それはつまり部屋で何かしろというネタ振りと受け取っても?」


 ピコーンと、不正解を閃いた妹。どこをどう曲解したらそんな発想になるんだ。お笑い芸人かお前。


「分かった。今日のお前の晩飯はちゅーるにしてやるよ。コスパ最高だぞ、味は知らんけど」

「それはつまり莉奈を猫可愛がりしてくれるってこと?」

「誰が上手いこと言えつった。いいから大人しくしてろ。昼飯は適当にカップ麺でも食ってろ。じゃあな」

「いってらー」


 ひらひらと手を振る妹に謎の苛立ちを募らせて部屋を出る。


 クソ、朝っぱらからなんなんだ。完全にあいつのペースじゃないか。自分の立場ってもんを少しは考えろよ腹立つな。


 イライラしたままアパートの駐輪場に向かい親父のお下がりであるビッグスクーターにまたがる。


 キュルルルル。スイッチを押すと気の抜けた回転音だけが聞こえた。


「…………ん?」


 スターターを押してもエンジンが掛からないだと?


 ガソリンはちゃんと入ってる。キルスイッチはOFFになってる。他に考えられる原因は──


「……もしかして、バッテリーが上がってるのか?」


 おそらく原因はバッテリーの寿命だろう。どうやら今日は厄日らしい。


「やべえ、小虎に笑われる」


 その後数分ほど試行錯誤するも結局エンジンは掛からなかった。


 そしてこの日、俺は学校に遅刻した。

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