第3話 夏の夜、月明かり、許されない行為

「お兄ちゃん、起きてる?」


 真夏の深夜。外から虫の泣き声が聞こえる八月の下旬。部屋のドアから数回のノックが聞こえた後、産まれたばかりの仔猫の様な弱々しい声が聞こえてきた。


「どうした? こんな時間に」


 まだ眠りについていなかった俺は部屋の扉を開ける。そこには可愛い感じの花柄パジャマを着た寝間着姿の莉奈が立っていた。片手には莉奈の愛用しているモコモコ素材の枕が握られている。


「お兄ちゃん助けて。莉奈の部屋に虫がいる」


 オドオドと上目遣いで俺を見上げる莉奈の仕草はまだ幼さが残っているあどけない様子だった。


 見た目からして十二歳前後と言った感じだ。


 ──ああ、そうか。

 容姿に幼さの残る莉奈を見た俺はこれは間違いなく夢なんだと自覚する。夢のせいで記憶から消したはずの昔の思い出がよみがえったのだろうと。


「虫ってお前……中一になってまで虫なんか怖がるんじゃねーよ」

「怖い物は怖いの。莉奈が虫大嫌いなのお兄ちゃん知ってるでしょ?」

「親父かお義母さんになんとかしてもらえ。何でもかんでも俺に頼るな」

「むーりー。今日は二人とも居ないんだってば」


 共働きの両親は多忙で、特に夏休みの期間は二人揃って不在の日も多かった。

 親父は職業柄いつも深夜勤務だし。義理の母は夏休みの期間になるといつも短期の出張を入れていた。


「ねえ、今日はお兄ちゃんの部屋で寝てもいい?」


 どういう訳かこの日に限って莉奈はそんなわがままを言った。


「一緒に寝よ? 一人で寝るのなんか怖い」


 莉奈がわがままを言うのは今に始まった事ではない。日常的に何かしらの理由をつけては俺にピーピーギャーギャーと無茶な要求を強請ねだっていた。


 だけど、今まで一度も「一緒に寝よ」なんて言った事は無かった。

 そのわずかな違和感が心の中で少しだけ引っかかっていた。


「小学生じゃないんだから一人でも寝れるだろ。虫が嫌ならリビングでも行って寝ろ──」


 俺がそう言い掛けると莉奈は「やだ」と言って機敏な動きで俺のベッドの中に潜り込んだ。

 小柄だから油断すると簡単にすり抜けられる。


「えへへ、お兄ちゃんのベッドを占領したからこの勝負は莉奈の勝ち〜」

「勝ちって、お前は一体何と戦ってるんだ」


 毛布を被ってニヤニヤと笑う莉奈を見て俺は仕方なく要求を受け入れた。

 口論になってグズられると面倒だ。力尽くで排除すると後で絶対に泣かれる。

 そんな事になるくらいなら要求に応えた方が楽だと、長年の経験で俺はそう判断を下した。


「分かった。一緒に寝てやるからちゃんと大人しく寝ろよ?」

「はーい」


 そんな会話の後で俺が部屋の電気を消すと、カーテンの隙間から月明かりがうっすらと差し込んでいた。


 妹にベッドを譲って兄は床に雑魚寝。美しい兄妹愛と表現するには格好がつかない状況だとは思う。


「お兄ちゃんまだ起きてる?」

「そんなすぐに寝れねーよ」

「お兄ちゃんって寝るの遅いよね。いつも何時に寝てるの?」

「知らねーよ。その時の気分だ」

「分かった。寝る前にスマホ見てるんでしょ? いいなー莉奈もスマホ欲しい」

「高校生になったら買ってもらえ」


 ベッドに入った後も寝る気がないのか莉奈はやたらと俺にあれこれと話しかけてきた。

 莉奈と川の字になって寝る。もしかしたら初めての経験なんじゃと内心で思っていたが──「それがどうした」とすぐに考えるのを放棄した。


「ねえ、お兄ちゃん」

「今度はなんだ?」

「この前家に遊びに来た女の人ってお兄ちゃんの何?」

「ああ、小虎か? 何って高校の友達だよ」

「ふーん。友達なんだ? 彼女じゃなくて?」

「バッ、ちげーよ。あいつは……そんなんじゃねーよ」


 彼女という馴染みのない単語に俺は自分でも驚くほど過剰に反応してしまう。


「……あいつは、ただの友達だ」

「ふーん。『ただの友達』を家に招待したんだ?」

「そうだ小虎はただの友達だ」

「お兄ちゃんってあんまり友達を家に連れて来たことないよね」

「それがどうした?」

「ううん。ただあの人は“特別”なんだって思っただけ」

「変な勘繰りするんじゃねーよ。いいからもう寝ろ」

「…………うん」


 莉奈は納得しかねた様子だったがそれ以上は特に何も言ってこなかった。


 何で莉奈が小虎のことを気にかけるのか。この時の俺は何も知らなかったし理解しようともしなかった。


 そして。

 部屋に静寂せいじゃくが訪れ数分が経った時だった。


「お兄ちゃん、起きてる?」


 ヒソヒソと。ささやくような小さな声。こちらの様子をうかがっているのがよく分かる声量だった。


「…………」


 返事をするとまた下らない話に付き合わされる。

 面倒だから、ここは寝たフリをしてやり過ごそう。


「……起きてないよね?」


 ベッドのきしむ音、モゾモゾと何かがって移動する音、息を殺して近付いてくる莉奈の微かな息遣い。


 その全てが聞こえていても俺は寝たフリを続けた。


「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ……」


 間近で俺の顔を覗き込んでくる莉奈の呼吸は何かに興奮しているかの様な熱を帯びた息遣いだった。


 顔に当たる莉奈の吐息は夏の夜よりも生暖かった。


 仮に本当に俺が眠っていたとしても、これだけの刺激を受ければあっという間に目が覚めてしまうだろう。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 莉奈の呼吸がこんなにも乱れている原因は何だろうか?

 俺に悪戯でもするのだろうか? それにしては妙に興奮しているような──


「すーはー……っ」


 あれこれと思念を巡らせているうちに『その瞬間』は莉奈の深呼吸の後にやってきた。


「……んっ」


 ふわりと。

 鼻先からシャンプーの香りがしたかと思えば直後に湿り気を帯びた柔らかい感触が唇いっぱいに伝わってきた。


「…………っ!?」


 重なる唇。伝わる体温。莉奈がした予想外の行為に俺は危うく目を開けて反応してしまうところだった。

 心臓の鼓動が激しく動悸した。胸に耳を当てられたら起きているのがバレてしまうほどに。


 時間にしてわずか数秒の出来事。目を閉じていてもそれが莉奈からの接吻キスである事は易々と想像できた。


「すー、ふぅー……」


 唇と唇を重ねるだけの雑なキスを終えた莉奈は止めていた息を吸って呼吸を整えていた。


 莉奈は。

 何でこんな事をしたのだろう。

 悪戯にしても限度というものがあるだろ。

 やって良い事と悪い事の区別が出来ない歳でもないだろ。

 ましてや俺たちは兄妹なのに──。


「……お兄ちゃんは莉奈の、莉奈だけのお兄ちゃんなんだから……」


 その莉奈の独り言である程度の予想は立てられた。


 独占欲。しかし、その欲求が何を起因にしているかまでは分からない。


「すーはー」


 どうやら莉奈は一回だけのキスじゃ満足出来なかったらしい。二回目の深呼吸が終わったタイミングで俺はわざとらしい寝返りをして莉奈から顔をそむけた。


 仰向けで寝たのが悪かった。これでもう無茶な事はしないだろう。


 俺が目を覚ましたと思ったのか莉奈はすぐさまベッドに戻った。


 どうやらリスクを冒してまで俺にキスをする度胸はないらしい。


「……大好きだよ。お兄ちゃん」


 ポツリと。俺に聞いて欲しいのか聞かれたくないのか分からない切なそうな呟きがベッドの方から聞こえた。


 その言葉の真意も莉奈が俺にキスをした理由も知るのは俺が高校三年生になってからの事だ。


 あの日、クリスマスの夜。同じ言葉と共に再び重ねられた唇。

 兄妹の関係に亀裂が入った瞬間。

 妹の一方的な愛情表現に俺は──


「ガキのくせに大人ぶったことするんじゃねーよ」


 ──ああ、そうだよ。


 だから俺は、進学を言い訳にしてあの家を出て行く事を選んだんだ。

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