メル

 シャラクは軽く首を回して舌打ちすると、ユウケイを背にするように、体の向きを変えた。

 その視線の先には、いつの間にか、四足歩行の動物の影のようなものがいる。頭頂部には二本の角。山羊に見えた。

「ユウケイ。何やってんだ、テメェは」

 今の状況だけを聞かれているのではない。

「色々と訳が。あとで謝るので、シャラクさん、今は知っていることを教えてくれませんか」

 手を合わせて頼む。一瞬視線がかわされる。

「クソ……」

「ありがとうございます」

 ため息をついたシャラクは、端的に答えた。

「まず、あれの言う真の悪とは、何にも依存しない純粋な、謂わば悪という観念だ。時代、動機など一切問わず、誰にとっても――それを行う当人にとっても悪である、悪。――物質化したそれを、あれは、習性的に希求している」

 悪は常に一面的な見方である。別側面から見た時には、どんな悪事でも、善や正義を必ず内包している。故に、混じり気のない悪という観念は、存在を仮定することは可能だが、存在はしない。

 しかし、ユウケイは一旦、そういった疑問を飲み込んだ。

 美しい声を持つ魔物、動物と人間の混じった魔物、未来予知をする魔物、触れるだけで病を与える魔物、他者の夢を喰らう魔物。分類するのを無意味に感じる程に、魔物には様々な性質がある。

 そして魔物は、その性質に合わせた形で、世界を知覚している。その知覚の中では、距離や形といった情報が音で出来ていたり、夢や時間が物質化していたりする。

 だから、悪を知覚して、その上純度という尺度で計る。そういうものもいるかも知れない。その存在の存否は、ここでは判断出来ない。

 だが、多くの魔物と出会った身として、何か違和感を感じていた。口触りを確かめるように復唱して、今はひとまず明らかにざらつく箇所を指摘する。

「習性的に、ですか」

 その生物の生活に食い込み、ほとんど生物としての性質にまでなった、習慣的な行動。基本的に、過去に健全な生命活動に必要と判断された行為であるため、都度に意思決定を挟むことなく、自然に行われる。

 親なしに自然発生し、同種を持たない単生の魔物の場合は、余程の長命種でなければ、「本能」とほとんど同義だ。環境への適応行動としての意味合いは薄く、その生命の根幹にある欲求に深く根差している行為である。

 つまり、その生物らしく生きるために必要である、と。

「聞いた話からすると、その習性は、メルさんの在り方に直接的に関係しますね。メルさんが使う広範に渡る魔術も、もしかしてそれのためですか」

 本当に気になっているのは、あの異界のことだ。あの異界もまた、メルが生きるために存在するものなのか。

 悪がその生命の性質の中心としてあるのなら、あの異界もまた悪に関係する性質を持つ可能性が高い。

 そうやって考えているうちに、違和感の一端をつかんだ。

「それは、俺にはお答えいたしかねる。お前の言う魔術が、具体的に何を指すのか分からないからな」

 嫌味たらしい言い方は、異界について知っている上で、ユウケイが秘密にしていたことを責めるようである。代わりに、シャラクの嫌味に気づいていないのかあえてか不明だが、メルが能天気に答えた。

「そうなのかな。自分の魔術が何のためにあるかなんて、考えたことないから」

「……まあ、そうか。じゃあいいです、忘れてください。あと、これは所感に過ぎないのですが」

「感想しか言えねえなら、黙って聞いてろ」

 正直なところ、目当てを横からかっ攫われたのがそれなりに悔しく、せめて自分でも少しくらい考えたい気持ちがあった。辛辣な言葉に屈せず続ける。

「どうも今の生き方は、本来在るべき生き方からは外れているように思えます。希求が習性であることに違いはないのでしょうが、それはあくまで欲求に限った話で、それを求めるための手段か、手段に影響するような何かが、異常な状態にあるのでは?」

 シャラクは無愛想に応じた。

「根拠は」

「強いて言えば、トウカさんの経験ですね。メルさんは勝手に人の体を動かすなど、寄生生物じみた魔術を使いはしても、真の悪を得ようとする時には、状況を変えたり言葉による誘導をするだけで、魅了などの直接精神操作をする魔術を使いません。たぶん使えない。それなのに、わざわざ、そんな方法を取っている」

 それは、木になっている実を得るのに、羽があるにも関わらず、木を揺らして取ろうとするような行為に見える。悪というものの性質が分からない以上、どこまで行っても推測に過ぎないが、習性になるくらいならば、もっと洗練された方法があって然るべきだ。

「だから、手段か何かに異常があると考えました。例えば、かつて習性としていた行為が通用しなくなり、生存に不都合が出たため、異なる方法で試行錯誤しているところ、とか。全体的に見て、能力も言動も、移動に偏っているような気がしますし」

 シャラクを見上げると、面倒臭そうな顔をされた。

「黙って聞け」

「あ、はい」

「お前の感想は的外れでもない。これは謂わば、元働き蟻だ」

 数秒前のことを忘れて、思わず質問する。

「――複生ですか? 見たことのない形態なので、てっきり単生の魔物だと……。いや、同時に生じた複数個体が、生命を共有する例もありましたか」

「そういう意味ではない。発生の仕方で言えば、単生に近いだろう。だが、これが生じた環境が、極限られた生存方法しか与えなかったために、そこに生じた魔物は互いに争う余裕すら持てず、全てが共生関係を結ばざるを得なかった。その中で、これは生成された栄養――物質化された悪を運ぶ、働き蟻的な役割を担っていた」

 極限られた生存方法しかない、特殊な環境。

 脳裏にあの真っ黒な空間が思い浮かぶ。

「……つまり、辛い環境の中で、全く別種の生物が、同族のように助け合って生きていた中で、これは餌の運び手だったということだ」

「環境というのは、あの……」

「──異界だ。その異界は、女王である悪を主祭する魔法使いに奉仕することでしか、生存を許さなかった」

 つまり、メルは異界の主でなく、その中で必死に生きようとする住人の一人に過ぎなかったと。

 新たな魔法使いを発見して、歴史に名を残す夢は儚く散った。

 さすがにもうそれはいいけど、と頭の片隅で思っている間にも、シャラクは淡々と続ける。

「だが、女王が死んで、その異界は衰退し始める」

 口を開いたが、言葉が出て来なかった。

 その他の多くの異界の在り方や、異界で生じる魔物の特性、異界の衰退という現象に関係のありそうな例など、話したいことで思考が埋め尽くされて、逆に何も言えなくなってしまった。

「大抵はその環境に適応して、多少代替の力を持つ者が現れるものだが、悪なんて得体の知れない力は、この世界の手に余ったらしい。……あるいは、いたとしても、女王が葬ったか。何にせよ、その異界は機関部分を失い、残された資産を食い潰すしかなくなった」

 シャラクはそこで咳払いを一つ。

「……つまり。環境が激変して、そこでしか手に入らない食い物が、得られなくなった。だが自分たちは、その食い物がないと生きていけない、という状況だ」

 わざわざ言い換えるのを怪訝に思って見ると、シャラクの視線が、ユウケイの背後に向けられていることに気がついた。軽く振り返ると、トウカが合点がいったようにうなずいていた。

「その資産ももう、底を突きかけている」

 あらためて向き直り、シャラクの言葉の意味を考える。

 異界とは、魔法使いによって作られた、ある力だけが極端に強化された空間。風や電気、魔力といった自然に存在する力が元となっていれば、その異界は外部からその力を取り込みながら、自動的に運営される。

 だが、あの真っ黒な異界は、人為的に運営されなければならないものだった。自然に任せていても、新たな力は得られない。このままでは、異界と共に死ぬしかない。

 だから、そこに生きていた生命は、新天地を求めるしかなくなった。

 腕を組んで、聞いた内容を整理する。

 それでもう一つ、分からないことがあったのを思い出した。

「……すると、これまでにあの異界が発見されなかったのは、異界の調査が始まった時点で既に、検知出来る程の特殊性が失われていたから……。いや、そうだとしても、空間自体は残るよな」

「あぁ、それは、あの場所がこの世界の中にはないからじゃないかい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る